おとといの夜、時間が空いたので、山に行く準備をして床に就きました。そして、早朝4時すぎに目を覚まし、真っ先にベランダに出て夜が明けたばかりの空を見ました。しかし、一面暗い雲におおわれ、今にも雨が降り出しそうな空模様でした。朝の空に一縷の望みを託していたのですが、これでは諦めるしかありません。がっかりしてまたベットに戻りました。
この週末はつかの間の晴れ間が望めそうですが、私は用事があって山に行くことができません。来週は、天気予報ではずっと雨マークです。
このように、梅雨とは言え、今年は雨にたたられて、なかなか山に行くタイミングが合いません。前回の山行から既に2週間近くが経っています。せっかく山行を再開して体力も戻りつつあると思っていたのに、これでは元の木阿弥です。年を取ると体力の問題は深刻で、少なからぬ焦りを覚えています。と言うか、こんなに気勢をそがれると山に行くモチベーションも下がるばかりです。
モチベーションが下がると言えば、ハイカーにとって、政府の不要不急の外出自粛要請に呼応して、登山の自粛を呼びかけた山岳4団体の声明や、自粛解除後に、登山中のマスクの着用を呼びかけたガイドラインなどは、その最たるものと言えるでしょう。
日本山岳会は、戦時下において「日本山岳聯盟」という山岳団体を糾合した翼賛団体の設立を呼びかけるなど、鬼畜米英・大東亜解放の侵略戦争に積極的に関与・協力してきたのですが、自粛の呼びかけや自粛解除後の「新しい生活様式」に準じたガイドラインなどに示されているのは、「自立した登山者であれ」という登山の持つ”自主自立の精神”そっちのけの、ただ国家に帰順することを一義とする翼賛的な姿勢です。戦争協力の時代に日本山岳会の会長を務めた木暮理太郎が神格化されていることにも、私は首を捻らざるを得ません。もっともそれは、同じ山岳4団体に名を連ねた、日本共産党の“友好団体”とも言われる日本勤労者山岳連盟も、似たかよったかなのです。
世界の高峰に日本人として初登頂をめざす、いわゆる「先鋭的登山」が国威発揚と結びついていたことはよく知られていますが、もともと登山と国家は切っても切れない関係にあったのです。戦争中も、登山は「高度国防国家建設」のための「国民心身鍛錬運動」の一翼を担うものとして、むしろ国家から奨励されていたのでした。
『ランドネ』(7月号)の座談会における次のような発言は、多くの登山愛好家が共有するものではないでしょうか。発言者は、静岡大学教授で、日本オリエンテーリング協会顧問の村越真氏です。
山岳4団体は、戦争中と同じように、ただハイカーを国家に帰順させることしか念頭にないかのようです。まるでそれが彼らの役割であるかのようにです。
もっともそれは、新型コロナウイルスにおける自粛体制そのものにも言えるのです。自粛体制には右も左もないのです。左派であるなら、自粛なんて糞くらえと言ってもよさそうですが、そんな声はまったく聞こえてきません。むしろ、政府の不作為を批判しながら、再度の自粛を主張しているフシさえあるくらいです。
左右が国家にひれ伏す今の自粛体制=翼賛体制は、都知事選で小池都知事が366万票という歴代2番目の得票を獲得したことにも端的に表れています。なにしろ次点の宇都宮健児候補に280万票もの大差を付けた、歴史的と言ってもいいほどの圧勝でした。
私が今回の選挙で注目したのは、投票前に行った下記の東京新聞の世論調査です。
東京新聞 TOKYO Web
誰に投票? 野党支持層は分散【都知事選世論調査】
立憲民主党の支持者の中でも、56.1%が小池知事に投票すると答えているのです(宇都宮氏は22.2%)。国民民主党に至っては、62.9%が小池知事で、宇都宮氏は0%(誤差の範囲?)です。共産党でも、21.4%が小池知事(宇都宮氏59.0%)です。
東電労組主体の電力総連に牛耳られている連合東京が小池知事を推薦したということもあるのでしょうが、野党支持者でも小池都知事の自粛パフォーマンスは、政治信条を越えて支持されているのです。
東京の新規感染者200人超えが3日続いていますが、これから左右を問わず、益々罰則を設けた再度の自粛を求める声が強まることでしょう。もしかしたら、野党がその音頭を取るようになるかもしれません。
多くの国民にはまだその自覚がないようですが、これから大倒産・大失業の時代が待ち構えているのは間違いないのです。コロナ禍があと何年続くか、見通せない状態であるのは否定すべくもない事実でしょう。オリンピックなんてできるわけがないのです。
コロナ禍は、まさに世界史を塗り替えようとしていると言っても過言ではありません。アメリカの苦境と迷走が示しているのは、アメリカが世界の覇権を失って超大国の座から転落することがいよいよ現実になったということです。そして、香港に対する強権の行使や東南シナ海の海洋進出など中国の強気な姿勢が象徴しているのは、アメリカに代わって中国が覇権国家として、その存在感を再び世界史の中に示しつつあるということです。
そんな歴史的なコロナ禍の中にあって、日本は再び内向きの一国主義的な方向に進もうとしているのです。一致団結して危機を乗り越えようという現状認識においては、与野党も左右も寸分も違いはありません。でも、無定見に経済より命が大事だという”情緒“に流され、憲法で保障された基本的な権利を何のためらいもなく国家に差し出している今の状況は、もしかしたら先の戦争と同じように、自粛=自滅への道であるかもしれないのです。
なにより、江戸時代のような”鎖国政策”では飯を食っていけるわけがないのです。たとえば、観光業も国内市場が縮小したからインバウンドに活路を求めたはずなのですが、ここに至ってインバンド頼りからの脱却みたいことがまことしやかに言われているのでした。でも、それは、どう考えても負け惜しみにすぎないのです。大倒産・大失業に加えて、10万円給付やGoToキャンペーンなどのツケで、大増税も間違いなくやって来るでしょう。いくら「ニッポン、凄い!」「ニッポン、がんばろう!」と自演乙しても、今のように内向きになっている限り、にっちもさっちもいかなくなるのは目に見えているのです。星野リゾートの社長も、インバウンドからの脱却、日本の良さを見直すべきみたいなことを言ってましたが、観光業の現状を知る人間として、これほど無責任で稚拙なもの言いはないだろうと思いました。
稚拙と言えば、れいわ新選組の大西某の「命の選別」発言も然りで、大西某は論外としても、この問題では山本太郎の危うさや稚拙さがいっきに露呈されたように思えてなりません。そもそも、元外資系銀行の為替ディラーで、どう見ても新自由主義者でしかない大西某なる人物がどうしてれいわ新選組の比例代表候補だったのか、よくわからない部分がありました(ほかにも不可解な候補予定者が何人もいます)。公務員をもっと増やすとか再度10万円を一律給付するとか、山本太郎の主張には、貧困者対策とどう関係があるのかという疑問もありました。ただ、右か左かではなく上か下かで言えば、山本太郎だけが上か下かの視点を提供していたのはまぎれもない事実で、れいわ新選組の路線自体は(多分に場当たり的なものではあったにしても)間違ってなかったのです。その意味では、れいわ新選組も自滅の道を歩みはじめたと言っていいのかもしれません。
「命の選別」発言は、れいわ新選組を支持する下層の人たちに対する、弁解の余地のない裏切りであるのは言うまでもありません。にもかかわらず、「命の選別」発言にもっとも敏感に反応すべき舩後靖彦参院議員や木村英子参院議員から正式にコメントが出て来ないのも、不思議な気がしてなりません。
一方で、立憲民主党の国会議員や支持者たちが、ここぞとばかりに執拗に“山本太郎叩き”をしていることにも違和感を抱かざるを得ません。そこには、左翼の常套手段である“社民主要打撃論”と同じような、党派的な思惑が垣間見えてならないからです。
余談ですが、立憲民主党の有田芳生参院議員や評論家の安田浩一氏が、これからの日本の中枢を担うのはれいわ新選組と日本第一党だという、れいわ新選組のなりすましツイッターを真に受けて激しく反応していたのは、彼らのネットリテラシーの低さもさることながら、”社民主要打撃論”による先入観が丸出しで、語るに落ちたという気がしてなりませんでした。このような山本太郎を叩いている旧左翼のお粗末さも見過ごしてはならないのです。
れいわ新選組は解党的出直しが必要だという声がありますが、社会運動の基盤のない政党に、今の状況を剔抉する革命的なエネルギーを求めるのは、ないものねだりの子守歌でしかないでしょう。と言うと、なんだか大袈裟な話になりますが、(今まで私たちが知らなかった)事務所運営の杜撰さや秘書の問題などを考えると、山本太郎も所詮は”古い政治”から脱却できない口舌の徒に過ぎなかったと言うべきかも知れません。
しかし、何度もくり返しますが、同時に左の全体主義者のよこしまな“社民主要打撃論”にも、くれぐれも注意しなければならないのです。国家への帰順を一義とする点においては、スターリニストとファシストは紙一重なのです。
立憲民主党や国民民主党が野党である不幸は今更言うまでもありませんが、あらためて野党を取り巻く殺伐とした光景を見るにつけ、すべてが(右も左も)国家に収れんされていくんだなという暗澹たる思いしか抱き得ないのでした。
この週末はつかの間の晴れ間が望めそうですが、私は用事があって山に行くことができません。来週は、天気予報ではずっと雨マークです。
このように、梅雨とは言え、今年は雨にたたられて、なかなか山に行くタイミングが合いません。前回の山行から既に2週間近くが経っています。せっかく山行を再開して体力も戻りつつあると思っていたのに、これでは元の木阿弥です。年を取ると体力の問題は深刻で、少なからぬ焦りを覚えています。と言うか、こんなに気勢をそがれると山に行くモチベーションも下がるばかりです。
モチベーションが下がると言えば、ハイカーにとって、政府の不要不急の外出自粛要請に呼応して、登山の自粛を呼びかけた山岳4団体の声明や、自粛解除後に、登山中のマスクの着用を呼びかけたガイドラインなどは、その最たるものと言えるでしょう。
日本山岳会は、戦時下において「日本山岳聯盟」という山岳団体を糾合した翼賛団体の設立を呼びかけるなど、鬼畜米英・大東亜解放の侵略戦争に積極的に関与・協力してきたのですが、自粛の呼びかけや自粛解除後の「新しい生活様式」に準じたガイドラインなどに示されているのは、「自立した登山者であれ」という登山の持つ”自主自立の精神”そっちのけの、ただ国家に帰順することを一義とする翼賛的な姿勢です。戦争協力の時代に日本山岳会の会長を務めた木暮理太郎が神格化されていることにも、私は首を捻らざるを得ません。もっともそれは、同じ山岳4団体に名を連ねた、日本共産党の“友好団体”とも言われる日本勤労者山岳連盟も、似たかよったかなのです。
世界の高峰に日本人として初登頂をめざす、いわゆる「先鋭的登山」が国威発揚と結びついていたことはよく知られていますが、もともと登山と国家は切っても切れない関係にあったのです。戦争中も、登山は「高度国防国家建設」のための「国民心身鍛錬運動」の一翼を担うものとして、むしろ国家から奨励されていたのでした。
『ランドネ』(7月号)の座談会における次のような発言は、多くの登山愛好家が共有するものではないでしょうか。発言者は、静岡大学教授で、日本オリエンテーリング協会顧問の村越真氏です。
村越 山岳団体が出した自粛メッセージのなかで違和感を感じたのは、そうした“自立した登山者としての基本”を強調せず、コロナがあるからというスタンスでしか書かれていないことでした。本当はコロナ禍でなくたって遭難は避けるべきだし、可能な限り自力下山して、救助隊や医療機関に負担をかけるべきではないわけです。
そのごく当たり前のことをいまこそ見直そうという促しが、自粛メッセージから感じさせない点が不充分だと考えています。
(『ランドネ』2020年7月号・「これからの山歩きを考えよう座談会」)
山岳4団体は、戦争中と同じように、ただハイカーを国家に帰順させることしか念頭にないかのようです。まるでそれが彼らの役割であるかのようにです。
もっともそれは、新型コロナウイルスにおける自粛体制そのものにも言えるのです。自粛体制には右も左もないのです。左派であるなら、自粛なんて糞くらえと言ってもよさそうですが、そんな声はまったく聞こえてきません。むしろ、政府の不作為を批判しながら、再度の自粛を主張しているフシさえあるくらいです。
左右が国家にひれ伏す今の自粛体制=翼賛体制は、都知事選で小池都知事が366万票という歴代2番目の得票を獲得したことにも端的に表れています。なにしろ次点の宇都宮健児候補に280万票もの大差を付けた、歴史的と言ってもいいほどの圧勝でした。
私が今回の選挙で注目したのは、投票前に行った下記の東京新聞の世論調査です。
東京新聞 TOKYO Web
誰に投票? 野党支持層は分散【都知事選世論調査】
立憲民主党の支持者の中でも、56.1%が小池知事に投票すると答えているのです(宇都宮氏は22.2%)。国民民主党に至っては、62.9%が小池知事で、宇都宮氏は0%(誤差の範囲?)です。共産党でも、21.4%が小池知事(宇都宮氏59.0%)です。
東電労組主体の電力総連に牛耳られている連合東京が小池知事を推薦したということもあるのでしょうが、野党支持者でも小池都知事の自粛パフォーマンスは、政治信条を越えて支持されているのです。
東京の新規感染者200人超えが3日続いていますが、これから左右を問わず、益々罰則を設けた再度の自粛を求める声が強まることでしょう。もしかしたら、野党がその音頭を取るようになるかもしれません。
多くの国民にはまだその自覚がないようですが、これから大倒産・大失業の時代が待ち構えているのは間違いないのです。コロナ禍があと何年続くか、見通せない状態であるのは否定すべくもない事実でしょう。オリンピックなんてできるわけがないのです。
コロナ禍は、まさに世界史を塗り替えようとしていると言っても過言ではありません。アメリカの苦境と迷走が示しているのは、アメリカが世界の覇権を失って超大国の座から転落することがいよいよ現実になったということです。そして、香港に対する強権の行使や東南シナ海の海洋進出など中国の強気な姿勢が象徴しているのは、アメリカに代わって中国が覇権国家として、その存在感を再び世界史の中に示しつつあるということです。
そんな歴史的なコロナ禍の中にあって、日本は再び内向きの一国主義的な方向に進もうとしているのです。一致団結して危機を乗り越えようという現状認識においては、与野党も左右も寸分も違いはありません。でも、無定見に経済より命が大事だという”情緒“に流され、憲法で保障された基本的な権利を何のためらいもなく国家に差し出している今の状況は、もしかしたら先の戦争と同じように、自粛=自滅への道であるかもしれないのです。
なにより、江戸時代のような”鎖国政策”では飯を食っていけるわけがないのです。たとえば、観光業も国内市場が縮小したからインバウンドに活路を求めたはずなのですが、ここに至ってインバンド頼りからの脱却みたいことがまことしやかに言われているのでした。でも、それは、どう考えても負け惜しみにすぎないのです。大倒産・大失業に加えて、10万円給付やGoToキャンペーンなどのツケで、大増税も間違いなくやって来るでしょう。いくら「ニッポン、凄い!」「ニッポン、がんばろう!」と自演乙しても、今のように内向きになっている限り、にっちもさっちもいかなくなるのは目に見えているのです。星野リゾートの社長も、インバウンドからの脱却、日本の良さを見直すべきみたいなことを言ってましたが、観光業の現状を知る人間として、これほど無責任で稚拙なもの言いはないだろうと思いました。
稚拙と言えば、れいわ新選組の大西某の「命の選別」発言も然りで、大西某は論外としても、この問題では山本太郎の危うさや稚拙さがいっきに露呈されたように思えてなりません。そもそも、元外資系銀行の為替ディラーで、どう見ても新自由主義者でしかない大西某なる人物がどうしてれいわ新選組の比例代表候補だったのか、よくわからない部分がありました(ほかにも不可解な候補予定者が何人もいます)。公務員をもっと増やすとか再度10万円を一律給付するとか、山本太郎の主張には、貧困者対策とどう関係があるのかという疑問もありました。ただ、右か左かではなく上か下かで言えば、山本太郎だけが上か下かの視点を提供していたのはまぎれもない事実で、れいわ新選組の路線自体は(多分に場当たり的なものではあったにしても)間違ってなかったのです。その意味では、れいわ新選組も自滅の道を歩みはじめたと言っていいのかもしれません。
「命の選別」発言は、れいわ新選組を支持する下層の人たちに対する、弁解の余地のない裏切りであるのは言うまでもありません。にもかかわらず、「命の選別」発言にもっとも敏感に反応すべき舩後靖彦参院議員や木村英子参院議員から正式にコメントが出て来ないのも、不思議な気がしてなりません。
一方で、立憲民主党の国会議員や支持者たちが、ここぞとばかりに執拗に“山本太郎叩き”をしていることにも違和感を抱かざるを得ません。そこには、左翼の常套手段である“社民主要打撃論”と同じような、党派的な思惑が垣間見えてならないからです。
余談ですが、立憲民主党の有田芳生参院議員や評論家の安田浩一氏が、これからの日本の中枢を担うのはれいわ新選組と日本第一党だという、れいわ新選組のなりすましツイッターを真に受けて激しく反応していたのは、彼らのネットリテラシーの低さもさることながら、”社民主要打撃論”による先入観が丸出しで、語るに落ちたという気がしてなりませんでした。このような山本太郎を叩いている旧左翼のお粗末さも見過ごしてはならないのです。
れいわ新選組は解党的出直しが必要だという声がありますが、社会運動の基盤のない政党に、今の状況を剔抉する革命的なエネルギーを求めるのは、ないものねだりの子守歌でしかないでしょう。と言うと、なんだか大袈裟な話になりますが、(今まで私たちが知らなかった)事務所運営の杜撰さや秘書の問題などを考えると、山本太郎も所詮は”古い政治”から脱却できない口舌の徒に過ぎなかったと言うべきかも知れません。
しかし、何度もくり返しますが、同時に左の全体主義者のよこしまな“社民主要打撃論”にも、くれぐれも注意しなければならないのです。国家への帰順を一義とする点においては、スターリニストとファシストは紙一重なのです。
立憲民主党や国民民主党が野党である不幸は今更言うまでもありませんが、あらためて野党を取り巻く殺伐とした光景を見るにつけ、すべてが(右も左も)国家に収れんされていくんだなという暗澹たる思いしか抱き得ないのでした。