最近、老眼鏡をかけないと本を読めないということもあって、本を読む時間が少なくなっていました。しかし、そうなればそうなったでこれではいけないと強く思うのでした。本を読むことだけが自分の取り柄みたいなところがありますので、これで本から遠ざかったら何の取り柄もなくなってしまうじゃないか、と自分に言い聞かせているもうひとりの自分がいます。
若い頃は、2~3冊の本を同時に読んだりしていました。むしろ、それが当たり前でした。でも、今はそういう芸当もできなくなりました。年を取ると知識欲も減退するのか。しかし、それでは知性に敵対する元学ラン剃りこみ応援団員のどこかの国の総理大臣と同じになってしまいます。それではいけないと思って、本を買って来て自分で読書週間を設け、みずからを鼓舞して読み始めているところです。
買ってきたのは、仲正昌樹『人はなぜ「自由」から逃走するのか』(ベストセラーズ)、斎藤幸平編『資本主義の終わりか、人間の終焉か? 未来への分岐』(集英社新書)、斎藤幸平『人新世の「資本論」』(集英社新書)、崔実『pray human』(講談社)の4冊です。
斎藤幸平は、今、話題のベストセラー『人新世の「資本論」』の著者で、久々に若手の左派の論客が登場したという感じです。世界が中世に逆戻りしているかような今の状況のなかで、なんだか“期待の星”にすら思えるのでした。
『未来への分岐』は、マルクス・ガブリエル、マイケル・ハート、ポール・メイソンという世界的に著名な”左派“の論客と対談した本ですが、そこで語られているのは、「『上からの』共産主義、スターリン主義とは異なる、社会運動に依拠した『下からの』コミュニズム」(あとかぎ)を志向する、マルクスを現代風に解釈したエコロジカルで斬新でラジカルな革命論です。
まだ読み始めたばかりですが、『未来への分岐』のマイケル・ハートとの対談で、斎藤は次のように言っていました。
最近の社民党の立憲民主党への合流(吸収?)と重ね合わせて考えると、“愚劣な政治”はなにも右派の専売特許でないことがよくわかります。斎藤も本のなかで言っていましたが(私もこのブログで何度も書いていますが)シリザもポデモスもSNPも、そして、バーニー・サンダーズも、みんな社会運動のなかから生まれたのです。社会運動の基盤があったからこそ、あれほどの政治勢力になり得たのです。
社民党の立憲民主党への合流=実質的な消滅は、社会運動を放棄し、社会運動の基盤を否定するものです。社会運動の基盤を担う”戦う左派”を解体して、野党を中道保守の”戦わないリベラル”に糾合する「選挙政治」の最たるものと言っていいでしょう。言うまでもなくそれは、二大政党制という政治の翼賛化に通底する行為でもあります。そんなリベラル派に何が期待できるのでしょうか。
また、4年の沈黙を破って発表した途端に三島由紀夫賞の候補になった、崔実の『pray human』も楽しみです。眠れない夜など、この弛緩した感性がゆさぶられるようないい小説を読みたい渇望感に襲われることがあります。本を読んでよかったなと思えるような本に出会いたい、そんな干天の慈雨のような本に出会いたいと切に思うことがあります。
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崔実「ジニのパズル」
若い頃は、2~3冊の本を同時に読んだりしていました。むしろ、それが当たり前でした。でも、今はそういう芸当もできなくなりました。年を取ると知識欲も減退するのか。しかし、それでは知性に敵対する元学ラン剃りこみ応援団員のどこかの国の総理大臣と同じになってしまいます。それではいけないと思って、本を買って来て自分で読書週間を設け、みずからを鼓舞して読み始めているところです。
買ってきたのは、仲正昌樹『人はなぜ「自由」から逃走するのか』(ベストセラーズ)、斎藤幸平編『資本主義の終わりか、人間の終焉か? 未来への分岐』(集英社新書)、斎藤幸平『人新世の「資本論」』(集英社新書)、崔実『pray human』(講談社)の4冊です。
斎藤幸平は、今、話題のベストセラー『人新世の「資本論」』の著者で、久々に若手の左派の論客が登場したという感じです。世界が中世に逆戻りしているかような今の状況のなかで、なんだか“期待の星”にすら思えるのでした。
『未来への分岐』は、マルクス・ガブリエル、マイケル・ハート、ポール・メイソンという世界的に著名な”左派“の論客と対談した本ですが、そこで語られているのは、「『上からの』共産主義、スターリン主義とは異なる、社会運動に依拠した『下からの』コミュニズム」(あとかぎ)を志向する、マルクスを現代風に解釈したエコロジカルで斬新でラジカルな革命論です。
まだ読み始めたばかりですが、『未来への分岐』のマイケル・ハートとの対談で、斎藤は次のように言っていました。
斎藤 (略)本来なら、カリスマ的なリーダー探しをするのではなく、現実の社会問題に地道に取り組む社会運動をいかに政治的な勢力に変容させるかを模索すべきだし、そうして生まれた政治的な勢力が、運動とのつながりを断ち切らないようにするにはどうしたらよいか、を考えるべきでしょう。
しかし、リベラル派はそのような思考をめぐらすことはせず、安倍に対抗できるくらい強力な政治権力をもつことによって――ただし今度は「立憲主義」の理念のもとで――社会変革をするのが、効率的な対抗戦略であると信じて疑わないのです。そして、主戦場はいつも選挙政治と政策提言になっていて、「投票に行こう」がリベラル派のお題目になってしまっています。
最近の社民党の立憲民主党への合流(吸収?)と重ね合わせて考えると、“愚劣な政治”はなにも右派の専売特許でないことがよくわかります。斎藤も本のなかで言っていましたが(私もこのブログで何度も書いていますが)シリザもポデモスもSNPも、そして、バーニー・サンダーズも、みんな社会運動のなかから生まれたのです。社会運動の基盤があったからこそ、あれほどの政治勢力になり得たのです。
社民党の立憲民主党への合流=実質的な消滅は、社会運動を放棄し、社会運動の基盤を否定するものです。社会運動の基盤を担う”戦う左派”を解体して、野党を中道保守の”戦わないリベラル”に糾合する「選挙政治」の最たるものと言っていいでしょう。言うまでもなくそれは、二大政党制という政治の翼賛化に通底する行為でもあります。そんなリベラル派に何が期待できるのでしょうか。
また、4年の沈黙を破って発表した途端に三島由紀夫賞の候補になった、崔実の『pray human』も楽しみです。眠れない夜など、この弛緩した感性がゆさぶられるようないい小説を読みたい渇望感に襲われることがあります。本を読んでよかったなと思えるような本に出会いたい、そんな干天の慈雨のような本に出会いたいと切に思うことがあります。
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