
斎藤幸平編『未来への大分岐』(集英社新書)を読みました。
私は、何事においても悲観論者なので、未来に対してもきわめて悲観的です。ただ、副題にあるように、現在が「資本主義の終わりか、人間の終焉か?」の「大分岐」に差しかかっているというのはその通りでしょう。
本書のなかに、シンギュラリティということばが度々出てきます。技術的特異点(technological singularity)という意味の用語ですが、ウィキペディアでは以下のように説明されていました。
技術的特異点は、汎用人工知能(en:artificial general intelligence AGI)、あるいは「強い人工知能」や人間の知能増幅が可能となったときに起こるとされている出来事であり、ひとたび自律的に作動する優れた機械的知性が創造されると、再帰的に機械的知性のバージョンアップが繰り返され、人間の想像力がおよばないほどに優秀な知性(スーパーインテリジェンス)が誕生するという仮説である。
つまり、シンギュラリティというのは、AIが人間の知能や知性を凌駕する、その臨界点を表わすことばなのです。しかも、ウィキにも書いているように、それが2045年頃やって来るのではないかと言われているのです。そうなれば、私たちは人間ではなくAIに使われるようになるのです。私たちの上司は(実質的には)AIになるのです。サラリーマンの勤務評価もAIが行うようになるのです。入社の採否もAIが決めるのです。住宅ローンの審査も然りです(既にそれははじまりつつあります)。ありていに言えば、私たちはAIに支配されるのです。
もちろん、そうなれば私たち自身、つまり人間の概念も変わらざるを得ません。なんだかSFの世界の話のようですが、そんなSFの世界がもうすぐそこまでやって来ているのです。
本書のなかで、経済ジャーナリストのポール・メイソンは次のように言っていました。
多くの宗教では、神が人間に魂を与えています。地球上の他のあらゆるものと、人間は異なる。私たちはもっと進んだ存在で、人間は自分たちの思考によって決断を下すことができる。魂は、人間の優越性の証でした。
  たとえば、人間は槍をライオンに向かって投げつけることができるけれども、ライオンはその槍がどこから来たのかさえ理解していない。私たちがなぜ魂を信じ、人間の優越性を当然視しているのかについて、唯物論的に説明すると、そうなります。
  ところが、二十一世紀半ばには、AIが私たちに向かって槍を投げつけるようになり、その槍がどこから来たのか、私たちにはわからないという状況に陥るでしょう。
  AIが私たちを出し抜き、優位に立つのです。人間があらゆる存在に対して優越しているという、多くの宗教が今まで主張してきた前提が融解してしまう。だからこそ、人間とは何か、という固有性についての答えは、人間の優越性ではない、何か別なものに根ざしたものでなければなりません。
(第三部・第四章シンギュラリティが脅かす人間の条件)
では、人間が人間たらしめるものは何になるのか?と斎藤はポール・メイソンに問います。それに対して、メイソンは次のように答えていました。
 それは、人間の自由(引用者:傍点あり)です。だからこそ、人間が機械を活用する必要があります。人間を必要性から解放し、できうる限り少ない労働ですむようにするために、です。
(同上)
こういった楽観主義はマイケル・ハートにも共通していました。マイケル・ハートも、今の情報テクノロジーをアントニオ・ネグリとともに提唱する「コモン」による民主的な管理が必要だと説いていました。「コモン」というのは、国家所有でも私的所有でもない共同管理(所有)というような概念です。むしろ、今の情報テクノロジーは現代資本主義の果実なのだから、その果実を利用しない手はないという考えです。なんだか東西の壁が壊れる前に、旧ユーゴで実験された自主管理型社会主義を思い出しました(でも、そのユーゴも東西の壁が壊れると、凄惨な内戦=民族間紛争に突入したのでした)。
マイケル・ハートは、情報テクノロジーの進化、つまりシンギュラリティの到来によって、むしろ人間は苦の労働から解放されるのだとさえ言います。そのためにも、「アルゴリズムという固定資本の管理権」を「コモン」が手にしなければならないのだと。
 人間のもつ知識が機械に集約・固定されれば、それは、大きな社会的進歩となる可能性があります。だからこそ、私たちが本当にしなくてはならないのは、アルゴリズムを拒否することではなく、アルコリズムという固定資本の管理権を求める闘いなのです。
(第一部・第四章情報テクノロジーは敵か、味方か)
斎藤幸平は、マイケル・ハートの言葉を「固定資本の管理権を手に入れる闘いは、非物質的労働の時代における生産手段をめぐる闘いだ」と解説していました。
しかし、工場がAIに制御されたロボットによってオートメーション化されるのは、ホントに苦の労働から解放されることを意味するのだろうかという疑問があります。工場で吐き出された鉄くずを集めたり、ゴミを捨てたりするのも、やはりロボットなのか。もしかしたら、そういった下働きは人間が担うようになるのではないか、と私などは思ってしまいます。
当然、オートメーション化によって労働者のかなりの部分はリストラされるでしょう。でも、それもマイケル・ハートによれば、苦の労働からの解放を意味するのです。労働力としてみずからを資本に売る、「労働力の再生産」から解放されることになるからです。そのために、マイケル・ハートはベーシックインカムを提唱しています。
となれば、ベーシックインカムのために、マイナンバーと銀行口座や所得額や職歴や学歴や婚姻歴や病歴などの個人情報が紐付けられても、それも良しとすることになるのでしょうか。「コモン」の共同管理のためなら、個人情報が一元管理されても問題はないと考えているのでしょうか。まして、本書のなかでも議論になっていましたが、ベーシックインカムも貨幣に変わりはないのですから、”貨幣の物神性”という問題は依然として残るのではないか。そんな素朴な疑問が次々と浮かんできました。
一方、マルクス・ガブリエルは、「啓蒙の復権」を主張していました。そうあらねばならないという倫理的な考えが大事なのだと言います。その基調にあるものも、ポール・メイソンやマイケル・ハートと同じです。
私は、なんと心許ない話なんだろうと思わずにおれませんでした。情報テクノロジーの進化ではいちばんわかりやすい中国の例を見ても、私にはAIに支配される未来の人間の姿しか浮かびません。
編者の斎藤幸平が「あとがき」で書いていた新しい社会主義像についても、私は楽観主義のようにしか思えませんでした。
 これは(引用者注:コモンは)、「上から」の共産主義、スターリン主義とは異なる、社会運動に依拠した「下から」のコミュニズム(communism)と言える。
 では、なぜ「上からの」社会変革ではだめなのか。現実の社会運動や共同参画に根付かない政策提案や制度改革による、「上からの」社会変革の戦略を、本書では「政治主義」と呼んだが、政治主義は、民主主義の闘争領域を選挙戦へと著しく狭めてしまうのだ。そして、専門家や学者による政策論は問題を抱えている当事者の主体性を剥奪する。
(おわりに―Think Big!)
現に日本では、前にも書きましたが、社民党の立憲民主党への合流に見られるように、社会運動に依拠した政治勢力は壊滅状態に追いやられているのです。これからは野党周辺においても、左派的な社会運動を排除する動きが盛んになるでしょう。「『下からの』コミュニズム」なんて絵に描いた餅のようにしか思えません。しかも、菅政権のデジタル庁構想に見られるように、「サイバー独裁」「デジタル封建制」の方がむしろ現実になりつつあるのです。