日本で新型コロナウイルスの感染が確認されてから15日でちょうど1年だそうです。この1年間で、日本では31.1万人が感染し4119人が亡くなりました(1月14日現在)。
もちろん、これは公的機関が確認した数です。日本は欧米に比べて17分の1と言われるくらい検査数が少ないので、当然感染が確認された数も少ないと考えるのが常識でしょう。全てはオリンピック開催のためです。そうやって感染状況を小さく見せるための不作為が行われているのでした。
そして、今、そのツケがまわってきているのです。フリップを掲げて感染爆発だと大騒ぎしている自治体の長たちも、昨日までは、GoToトラベルやGoToイートの還元キャンペーンのフリップを掲げ、観光や会食を奨励していたのです。あたかも新型コロナウイルスは山を越した、自粛は終わったと言わんばかりに、「みんな、街に出よう」と言っていたのです。
昨日の新聞にも、「感染爆発」というフリップを掲げている黒岩祐治神奈川県知事の写真が出ていましたが、私にはその顔はまぬけ顔にしか見えませんでした。黒岩県知事もまた、神奈川県とは縁もユカリもない人物です。誰が連れて来たのか知りませんが、立候補するに際して、自公と民主党(当時)が支持し、選挙で(当然ながら)圧勝したのでした。
今のコロナ禍では誰がやっても同じという声がありますが、しかし、総理大臣を含む政治家や感染対策の実務にたずさわる役人たちを見ていると、どうしてこんなにお粗末なんだろうと思わずにはおれません。対策が「後手」になっていることが何よりそのお粗末さを表しているのです。
PCR検査をサボタージュしながら、相も変わらずまるでモグラ叩きのようなクラスター対策ばかり行なっている日本。日本は人口当たりの病院数や病床数が世界で一番多く、CTやMRIの台数も他国を圧倒しているにもかかわらず(ただし医師の数は少ない)、病床不足が指摘され医療崩壊が叫ばれているのです。感染の確認から既に1年が経ったのに、感染専門の病院すらないのです。地域の基幹病院(一般病院)がCOVID-19の患者を引き受けていますが、そのため、専門医や個々の病院で得た”経験値”や病床機能などのいわゆる医療資源が重点的に配分されず、有効活用されてないと指摘されていました。しかし、政治家や厚労省や日本医師会の都合と思惑によって、臨機応変な対応は行われなかったのでした。
私も院内感染(クラスター)が発生したいくつかの病院を知っていますが、気の毒としか言いようがありません。お粗末な(厚労省の)感染症対策の犠牲になったと言っても言い過ぎではありません。
ここに至っても、あらたにCOVID-19の重症患者を引き受けた病院に対して、緊急事態宣言の対象地域の病院には1床あたり1950万円(その他の地域は1500万円、重症化以外の病床は450万円)支給するなどと言っていますが、どう考えても場当たり的な弥縫策だとしか思えません。要するに、「ワクチンで全て解決」までの時間稼ぎのつもりなのでしょう。ここにも役人特有の前例主義と事なかれ主義が如実に出ている気がしてなりません。このような”小役人的発想”で、感染対策の基本方針が維持される不幸と怖さをあらためて考えざるを得ません。
そんな中で、(予断と偏見を捨てると)小池都知事が、都立の広尾病院・荏原病院・豊島病院をCOVID-19の患者を重点的に受け入れる「コロナ専門病院」にする方針をあきらかにしたのは、英断だと思いました。報道によれば、この3病院のほかに、他の都立病院と都の政策連携団体の公社が設置する「公社病院」の合わせて14の病院で、600床増やして1700床にする方針だそうです。
また、広島県の湯崎英彦知事が、「無症状の感染者を早期に発見し、市中感染の拡大を封じ込める」ため、広島市中心部の4区(中区、東区、南区、西区)の全住民や就業者80万人を対象に、無料のPCR検査を実施する方針を明らかにしたことも、同様に英断だと思いました。逆に言えば、他の首長たちはどうして同じことができないんだろうと思いました。「感染爆発」のフリップを掲げて”自粛警察”を煽るだけが能ではないでしょう。
何度もくり返しますが、ウイルスは撲滅などできないのです。共生するしかないのです。
昨日の朝日新聞デジタルに、前にこのブログで取り上げた『感染症と文明』(岩波新書)の著者の山本太郎長崎大熱帯医学研究所教授のインタビュー記事が掲載されていましたが、その中で山本教授は、現在、「二つの物語」が進行していると言っていました。
朝日新聞デジタル
コロナ1年、感染症の専門家が葛藤する「二つの物語」
ひとつは、「ウイルスとの共生、社会経済との両立と集団免疫の獲得」という「物語」で、もうひとつは、隔離に伴う差別や限られた医療資源の中での命の選別に直面する患者たちの「個の物語」です。
とりわけ自分の命が疎かにされる怖れがある「個の物語」は深刻です。ただ高齢だとか、ただ貧困だというだけで、失われなくてもいい命が失われるのかもしれないのです(現実にはコロナ禍でなくても、命の選別は行われていますが)。にもかかわらず、非常時だから「仕方ない」で済まされるのです。
神奈川県でも、職員の入力ミスで安否確認の連絡システムが機能しなかったために、自宅療養していた患者が人知れず亡くなったという事件がありましたが、そういった事件も黒岩知事が頭を下げただけであっさりと処理されたのでした。
戦争中と同じで、指導者の責任が不問に伏されているのです。非常時だから仕方ないという日本的な”翼賛思想”ばかりが強調され、どう見ても無能としか思えない指導者でも唯々諾々と従うしかないかのようです。まるで悲劇を悲劇として認識することさえ放棄しているかのようです。それでは悲劇が増幅されるだけでしょう。
ワクチン開発にしても、日本は最初からレースの枠外でした。日本政府がやったことは、オリンピック開催に拘り、意図的にPCR検査をサボタージュして感染状況を小さく見せることだけでした。テレビやネットでは「ニッポン凄い!」という自演乙が花盛りでしたが、コロナ禍によって”凄くないニッポン”が露わになったのです。
尚、山本教授が言う「ウイルスとの共生」については、下記の記事をご参照ください。
関連記事:
新型コロナウイルスと「共生への道」
もちろん、これは公的機関が確認した数です。日本は欧米に比べて17分の1と言われるくらい検査数が少ないので、当然感染が確認された数も少ないと考えるのが常識でしょう。全てはオリンピック開催のためです。そうやって感染状況を小さく見せるための不作為が行われているのでした。
そして、今、そのツケがまわってきているのです。フリップを掲げて感染爆発だと大騒ぎしている自治体の長たちも、昨日までは、GoToトラベルやGoToイートの還元キャンペーンのフリップを掲げ、観光や会食を奨励していたのです。あたかも新型コロナウイルスは山を越した、自粛は終わったと言わんばかりに、「みんな、街に出よう」と言っていたのです。
昨日の新聞にも、「感染爆発」というフリップを掲げている黒岩祐治神奈川県知事の写真が出ていましたが、私にはその顔はまぬけ顔にしか見えませんでした。黒岩県知事もまた、神奈川県とは縁もユカリもない人物です。誰が連れて来たのか知りませんが、立候補するに際して、自公と民主党(当時)が支持し、選挙で(当然ながら)圧勝したのでした。
今のコロナ禍では誰がやっても同じという声がありますが、しかし、総理大臣を含む政治家や感染対策の実務にたずさわる役人たちを見ていると、どうしてこんなにお粗末なんだろうと思わずにはおれません。対策が「後手」になっていることが何よりそのお粗末さを表しているのです。
PCR検査をサボタージュしながら、相も変わらずまるでモグラ叩きのようなクラスター対策ばかり行なっている日本。日本は人口当たりの病院数や病床数が世界で一番多く、CTやMRIの台数も他国を圧倒しているにもかかわらず(ただし医師の数は少ない)、病床不足が指摘され医療崩壊が叫ばれているのです。感染の確認から既に1年が経ったのに、感染専門の病院すらないのです。地域の基幹病院(一般病院)がCOVID-19の患者を引き受けていますが、そのため、専門医や個々の病院で得た”経験値”や病床機能などのいわゆる医療資源が重点的に配分されず、有効活用されてないと指摘されていました。しかし、政治家や厚労省や日本医師会の都合と思惑によって、臨機応変な対応は行われなかったのでした。
私も院内感染(クラスター)が発生したいくつかの病院を知っていますが、気の毒としか言いようがありません。お粗末な(厚労省の)感染症対策の犠牲になったと言っても言い過ぎではありません。
ここに至っても、あらたにCOVID-19の重症患者を引き受けた病院に対して、緊急事態宣言の対象地域の病院には1床あたり1950万円(その他の地域は1500万円、重症化以外の病床は450万円)支給するなどと言っていますが、どう考えても場当たり的な弥縫策だとしか思えません。要するに、「ワクチンで全て解決」までの時間稼ぎのつもりなのでしょう。ここにも役人特有の前例主義と事なかれ主義が如実に出ている気がしてなりません。このような”小役人的発想”で、感染対策の基本方針が維持される不幸と怖さをあらためて考えざるを得ません。
そんな中で、(予断と偏見を捨てると)小池都知事が、都立の広尾病院・荏原病院・豊島病院をCOVID-19の患者を重点的に受け入れる「コロナ専門病院」にする方針をあきらかにしたのは、英断だと思いました。報道によれば、この3病院のほかに、他の都立病院と都の政策連携団体の公社が設置する「公社病院」の合わせて14の病院で、600床増やして1700床にする方針だそうです。
また、広島県の湯崎英彦知事が、「無症状の感染者を早期に発見し、市中感染の拡大を封じ込める」ため、広島市中心部の4区(中区、東区、南区、西区)の全住民や就業者80万人を対象に、無料のPCR検査を実施する方針を明らかにしたことも、同様に英断だと思いました。逆に言えば、他の首長たちはどうして同じことができないんだろうと思いました。「感染爆発」のフリップを掲げて”自粛警察”を煽るだけが能ではないでしょう。
何度もくり返しますが、ウイルスは撲滅などできないのです。共生するしかないのです。
昨日の朝日新聞デジタルに、前にこのブログで取り上げた『感染症と文明』(岩波新書)の著者の山本太郎長崎大熱帯医学研究所教授のインタビュー記事が掲載されていましたが、その中で山本教授は、現在、「二つの物語」が進行していると言っていました。
朝日新聞デジタル
コロナ1年、感染症の専門家が葛藤する「二つの物語」
ひとつは、「ウイルスとの共生、社会経済との両立と集団免疫の獲得」という「物語」で、もうひとつは、隔離に伴う差別や限られた医療資源の中での命の選別に直面する患者たちの「個の物語」です。
とりわけ自分の命が疎かにされる怖れがある「個の物語」は深刻です。ただ高齢だとか、ただ貧困だというだけで、失われなくてもいい命が失われるのかもしれないのです(現実にはコロナ禍でなくても、命の選別は行われていますが)。にもかかわらず、非常時だから「仕方ない」で済まされるのです。
神奈川県でも、職員の入力ミスで安否確認の連絡システムが機能しなかったために、自宅療養していた患者が人知れず亡くなったという事件がありましたが、そういった事件も黒岩知事が頭を下げただけであっさりと処理されたのでした。
戦争中と同じで、指導者の責任が不問に伏されているのです。非常時だから仕方ないという日本的な”翼賛思想”ばかりが強調され、どう見ても無能としか思えない指導者でも唯々諾々と従うしかないかのようです。まるで悲劇を悲劇として認識することさえ放棄しているかのようです。それでは悲劇が増幅されるだけでしょう。
ワクチン開発にしても、日本は最初からレースの枠外でした。日本政府がやったことは、オリンピック開催に拘り、意図的にPCR検査をサボタージュして感染状況を小さく見せることだけでした。テレビやネットでは「ニッポン凄い!」という自演乙が花盛りでしたが、コロナ禍によって”凄くないニッポン”が露わになったのです。
尚、山本教授が言う「ウイルスとの共生」については、下記の記事をご参照ください。
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