登山家として知られているイラストレーターの沢野ひとし氏の『人生のことはすべて山に学んだ』(角川文庫)を読んでいたら、「文庫版あとがき」で、若山牧水の『木枯紀行』を読んで「胸がぎゅっと捕らえられた」と書いていました。そして、沢野氏自身も、牧水が歩いた十一月の初旬に、十文字峠から栃本集落まで歩いたのだそうです。
『木枯紀行』は青空文庫に入っていますので、私も早速、kindleにダウンロードして読みました。
牧水は、旧梓山村(現長野県南佐久郡川上村)から地元の老人に道案内を頼み、十文字峠を越えて秩父の栃本へ下ったのですが、調べてみると、牧水が『木枯紀行』の旅をしたのは、関東大震災があった1923年(大正12年)です。38歳のときでした。しかも、牧水自身、当時住んでいた静岡県の伊豆で震災を体験しているのです。震災があったのは9月1日です。それから2ヶ月後、牧水は、「御殿場より小淵沢、野辺山、松原湖、十文字峠、秩父への約十五日間」(『人生のことはすべて山に学んだ』)の旅に出るのでした。
牧水は、栃本集落について、次のように書いていました。
私も、雁坂トンネルができる前に、栃本には何度か行っています。雁坂嶺にも登ったことがあります。雁坂峠や十文字峠は、秩父と信州を結ぶ秩父往還の道にある峠で、昔の人たちはこの標高2千メートル近くある峠道を交易路として行き来していたのです。
同じ道を歩いた沢野氏は、次のように書いていました。
牧水は、生前、日本の至るところを旅しています。それも、多くは街道ではなく山道を歩く旅です。そして、旅の途上で多くの歌を詠んでいたのでした。
『木枯紀行』のなかで、私が好きな歌は次の二首です。
 木枯の過ぎぬるあとの湖をまひ渡る鳥は樫鳥かあはれ
 草は枯れ木に残る葉の影もなき冬野が原を行くは寂しも
牧水は、その2年前には上高地にも行っていました。上高地から飛騨高山に下っているのですが、その際、焼岳にも登っていました。
旅と歌は切っても切れない関係にあったのでしょう。昔の歌人はよく旅をしていたようです。それも今風に言えば、ロングトレイルと言うべき道を歩いています。
九州の久住(くじゅう)連山の麓にある私の田舎にも、与謝野鉄幹・晶子夫妻が訪れ、歌を詠んでいます。また、山頭火も放浪の旅の途中に立ち寄っていることが、『山頭火日記』に記されています。『山頭火日記』では、私の田舎について、子どもたちは身なりは貧しいが道で会うとちゃんと挨拶するので感心した、というようなことが書かれていました。
『木枯紀行』を読んで、私も、栃本集落から雁坂峠や十文字峠を越える道をもう一度歩いてみたいとあらためて思いました。ただ、何度も同じことを書きますが、そう思うと、どうしても今の膝のことが頭を掠め、暗い気持にならざるを得ないのでした。
関連記事:
『奥秩父 山、谷、峠そして人』
『木枯紀行』は青空文庫に入っていますので、私も早速、kindleにダウンロードして読みました。
牧水は、旧梓山村(現長野県南佐久郡川上村)から地元の老人に道案内を頼み、十文字峠を越えて秩父の栃本へ下ったのですが、調べてみると、牧水が『木枯紀行』の旅をしたのは、関東大震災があった1923年(大正12年)です。38歳のときでした。しかも、牧水自身、当時住んでいた静岡県の伊豆で震災を体験しているのです。震災があったのは9月1日です。それから2ヶ月後、牧水は、「御殿場より小淵沢、野辺山、松原湖、十文字峠、秩父への約十五日間」(『人生のことはすべて山に学んだ』)の旅に出るのでした。
牧水は、栃本集落について、次のように書いていました。
 日暮れて、ぞくぞく(註・原文はくりかえし記号)と寒さの募る夕闇に漸く峠の麓村栃本といふへ降り着い た。 此処は秩父の谷の一番つめの部落であるさうだ。其処では秩父四百竃の草分と呼ばれてゐる旧家に頼んで一宿さして貰うた。
 栃本の真下をば荒川の上流が流れてゐた。殆んど真角に切れ落ちた断崖の下を流れてゐるのである。向う岸もまた同じい断崖でかえたつた山となつて居る。その向う岸の山畑に大根が作られてゐた。栃本の者が断崖を降り、渓を越えまた向う地の断崖を這ひ登つてその大根畑まで行きつくには半日かかるのださうだ。 帰りにはまた半日かゝる。ために此処の人たちは畑に小屋を作つて置き、一晩泊つて、漸く前後まる一日の為事をして帰つて来るのだといふ。栃本の何十軒かの家そのものすら既に断崖の中途に引つ懸つてゐる様な村であつた。
私も、雁坂トンネルができる前に、栃本には何度か行っています。雁坂嶺にも登ったことがあります。雁坂峠や十文字峠は、秩父と信州を結ぶ秩父往還の道にある峠で、昔の人たちはこの標高2千メートル近くある峠道を交易路として行き来していたのです。
同じ道を歩いた沢野氏は、次のように書いていました。
 牧水が歩いた十一月の初旬にあわせて十文字峠から栃本まで約十六キロ。軽いザックを背に歩いてみた。一里ごとに観音様があり、手を合わせてお賽銭を置く。視界がないうっそうとした原生林の中をひたひたと歩くとやがてバス停の二瀬に出る。そして秩父鉄道の三峰口に着く。
 牧水の文庫本をポケットから時折取り出し、大きく溜息を吐く。牧水は登山家よりはるかに足腰が強い。中途半端な気持ちで来たことを反省していたが、あらたな山旅を発見した。
(『人生のことはすべて山に学んだ』)
牧水は、生前、日本の至るところを旅しています。それも、多くは街道ではなく山道を歩く旅です。そして、旅の途上で多くの歌を詠んでいたのでした。
『木枯紀行』のなかで、私が好きな歌は次の二首です。
 木枯の過ぎぬるあとの湖をまひ渡る鳥は樫鳥かあはれ
 草は枯れ木に残る葉の影もなき冬野が原を行くは寂しも
牧水は、その2年前には上高地にも行っていました。上高地から飛騨高山に下っているのですが、その際、焼岳にも登っていました。
旅と歌は切っても切れない関係にあったのでしょう。昔の歌人はよく旅をしていたようです。それも今風に言えば、ロングトレイルと言うべき道を歩いています。
九州の久住(くじゅう)連山の麓にある私の田舎にも、与謝野鉄幹・晶子夫妻が訪れ、歌を詠んでいます。また、山頭火も放浪の旅の途中に立ち寄っていることが、『山頭火日記』に記されています。『山頭火日記』では、私の田舎について、子どもたちは身なりは貧しいが道で会うとちゃんと挨拶するので感心した、というようなことが書かれていました。
『木枯紀行』を読んで、私も、栃本集落から雁坂峠や十文字峠を越える道をもう一度歩いてみたいとあらためて思いました。ただ、何度も同じことを書きますが、そう思うと、どうしても今の膝のことが頭を掠め、暗い気持にならざるを得ないのでした。
関連記事:
『奥秩父 山、谷、峠そして人』