オリンピック・マネー


アメリカのNBCは、2013年から2020年(2021年に延期)の東京オリンピックまでの夏冬4大会分の放映権を44億ドル(約4855億円)で獲得しており、契約の上では今回の東京大会が最後の大会になるそうです。ただ、NBCは、これとは別に2032年まで(東京大会以後6大会分)の放映権も、既に76億5000万ドル(約7800億円)で獲得しています。

放映権というのは、無観客であれ何であれとにかく大会さえ開かれて、IOC(実際は関連会社のオリンピック・ブロードキャスティングサービス=OBS)が撮影したいわゆる“国際映像”が配信されれば、契約が成立するのです。

つまり、IOCにとっては、どんなかたちであれ、開催すればいいのです。日本政府は、自国民の健康より、そんなIOCの金銭的な都合を優先しているのです。そんな日本政府の姿勢に対して、間違っても”右”ではない私でさえ「売国」ということばしか思い浮かびません。

ちなみに、日本のメディアは、高騰する放映権料のために、NHKと民放が共同でジャパンコンソーシアム(JC)という組織を作っており、JCも2018年の平昌冬季オリンピックから2020年(2021年)の東京オリンピック、2022年の北京冬季オリンピック、2024年のパリオリンピックまでの4大会分の放映権を獲得しています。放映権料は、平昌・東京が660億円、北京・パリが440億円で、合わせて1100億円だそうです。

他にヨーロッパでは、ヨーロッパ全域で「ユーロスポーツ」を展開するアメリカのディスカバリー社が放映権を取得しており、金額は2018~2024年までの4大会で13億ユーロ(約1730億円)だそうです。

これらの巨額な放映権料と、IOCが「TOP」または「ワールドワイドオリンピックパートナー」と呼ぶスポンサー企業からのスポンサー料がIOCの財政を支えているのです。年間平均で約1500億円と言われるIOCの総収入のうち、テレビの放送権料が73%を占め、次いで「TOP」スポンサー料が18%で、残りがライセンス料などだそうです。

いづれにしても途方もない金額のお金が、関連会社などを通って(文字通り資金洗浄されて)「五輪貴族」たちのもとに流れ、彼らに優雅な生活をもたらしているのです。それが「ぼったくり男爵」と呼ばれるゆえんです。

オリンピックではIOCの幹部たちが泊るホテルのグレードまで、開催都市契約の付則で細かく規定されているそうです。

  ホテルのグレードは「四つ星~五つ星のホテル」で計千六百室、三十三泊の確保を開催都市に義務づけている。
  二〇二〇年東京大会では、立候補ファイルで「ホテルオークラ」と「ANAインターコンチネンタルホテル東京」、「ザ・プリンス パークタワー東京」、「グランドハイアット東京」の五つ星ホテルの全室をIOCファミリーに提供すると保証した。
(後藤逸郎『オリンピック・マネー』)


「TOP」というのは、「The Olympic Partner」の略で、東京オリンピックに協賛するスポンサーとはまったくの別格の、IOCと直に契約したスポンサー企業です。一業種一企業に限定されており、そうすることでオリンピックに連動した宣伝効果の価値を高めているのです。IOCが実質的なスポーツビジネスの会社であることの一面を伺わせる内容と言えるでしょう。

現在の「TOP」スポンサーは、以下の14社です。

コカ・コーラ
エアビーアンドビー
アリババ
アトス(フランスのIT企業)
ブリヂストン
ダウ・ケミカル
ゼネラル・エレクトリック
インテル
オメガ
パナソニック
P&G
サムスン
トヨタ
VISA

「TOP」スポンサーの契約内容もご多分も漏れず秘密にされていますが、『オリンピック・マネー』によれば、2015年にIOCと「TOP」スポンサー契約を結んだトヨタ自動車のスポンサー料は、「2024年までの10年間で約2千億円と推定されている」そうです。

先日、パナソニックが大幅なリストラを発表しましたが、IOCに多額のスポンサー料を払いながらその一方で首切りと言うのでは、社員たちもやり切れないでしょう。

「TOP」以外の東京オリンピック限定のスポンサー企業については、下記に記載されています。

TOKYO2020
パートナー

それを見ると、前も書きましたが、「オフィシャルパートナー」に読売新聞・朝日新聞・日本経済新聞・毎日新聞が入っています。また、その下のカテゴリーの「オフィシャルサポーター」には、ヤフー・産経新聞・北海道新聞が名を連ねています。

これから開催に向けた本格的なキャンペーンがはじまると思いますが、スポンサーになっているそれらのメディア(その系列のテレビやスポーツ新聞も含めて)の報道は、くれぐれも眉に唾して見る必要があるでしょう。

JOCの「オフィシャルパートナー」の朝日新聞は、開催をめぐる問題について、下記のような記事を書いていました。

朝日新聞デジタル
五輪開催に突き進むIOCの本音は 放映権料に分配金…

IOCは支出の約9割を、アスリート育成や世界各国の五輪委員会や競技団体への分配に使っているとしている。仮に大会が中止になり、放映権料を払い戻すことになれば、特にマイナー競技の団体は分配金が減って資金難に陥る可能性がある。


なんだか中止になったら大変なことになると遠回しに脅しているような記事で、オリンピックありきの本音が出ているように思いました。「配当金」なる二義的な問題に焦点を当てることで、問題のすり替えをしているように思えなくもありません。

『オリンピック・マネー』によれば、IOCは、競技団体をA~Eの5段階にランク分けして活動資金を「配分」しているのですが、その5段階のランク付けは、テレビなどメディアの露出度によって分けられているのだそうです。そこにもスポーツビジネスの営利会社と見まごうようなIOCの体質が垣間見えるのでした。ちなみに、2016年のリオ大会におけるランク付けでは、Aランクは水泳・陸上・体操で、最下位のEは近代五種・ゴルフ・ラブビーだったそうです。Eランクのゴルフとラグビーは経済的に自立しているため、オリンピックに対する依存度が低いからでしょう。Dランクには、カヌー/カヤック・乗馬・フェンシング・ハンドボール・ホッケー・テコンドー・トライアスロン・レスリングなどがありました。

しかし、IOCの財務が非公開なので、「支出の9割」という話がどこまでホントなのか、誰もわからないのです。あくまでそれはIOCが主張していることにすぎないのです。ましてマイナー競技の団体が、IOCの「分配金」で息を継いでいるような話には首を傾げざるを得ません。後藤氏は、IOCの下に多くの財団や関連会社が連なる「複雑なグループ組織」の間の金の流れを調べようとしても、「情報が公開されていないという壁が(略)立ちふさがる。疑問があって調べても、スイスの法制というブラックボックスへと消えてゆく」と書いていました。

IOCが本部を置くスイスのNPOの規制は緩く、誰でも定款を作りNPOを名乗れば登記しなくても法人格が認められるのだそうです。しかも、財務を公表する必要もないのです。定款に基づけば収益活動も自由で、収益に対しても税の優遇処置を受けることができるのだとか。そのため、IOCだけでなく、FIFA(国際サッカー連盟)やUEFA(欧州サッカー連盟)など多くのスポーツ団体が、NPOとしてスイスに本部を置いているのだそうです。

オリンピックが経済的に自立できないマイナースポーツの祭典になっており、それ故にマイナースポーツの競技団体や選手たちが、オリンピックにすがらざるを得ない事情があることも事実でしょう。だからと言って、オリンピックが(それもたった1回の東京オリンピックが)中止になると、競技団体が兵糧攻めに遭い苦境に陥るかのような言い方は、いくらなんでも大袈裟すぎるように思います。

仮に百歩譲ってそうだとしても、じゃあ経済的に自立できないマイナースポーツの存続のために(IOCから「分配金」を貰うために)、開催国の国民の健康と命がなおざりにされていいのかという話になるでしょう。それこそオリンピックありきのアスリートが、自分のことしか考えてないというのと同じではないでしょうか。

アスリートの夢は、コロナ禍で苦境に陥っている飲食店の店主や真っ先に人員整理の対象になった非正規雇用の労働者や、あるいは医療崩壊してトリアージの対象になり命が見捨てられた患者のそれと違って特別なものなのか。彼らにも夢はあるしあったはずなのです。スポーツは、国民の暮らしや健康や命に優先するほど特別な存在なのか。とどのつまり、そういうことでしょう。スポーツで元気を与えたいなどとふざけたことを言っている代表選手に、そう問い正したい気がします。むしろ、スポーツは、聖火リレーの歴史が示しているように、ファシズムやスターリニズムなど全体主義ときわめて親和性が高いものでもあるのです。朝日の記事にある「スポーツの力」ということばには、くれぐれも注意が必要でしょう。と同時に、朝日の記事がIOCのいかがわしさに一切触れてないのも不思議でなりません。朝日は、IOCの利権について、それを検証する視点さえ持ってないのでしょうか。

後藤氏は、「分配金」を「寄付」と言い換えて、そのカラクリを次のように書いていました。

  IOCは開催都市との契約で、「競技の撮影はOBSに発注する」ことを義務づけている。この金額は非公表だが、「数百億円」(二〇二〇年東京オリンピック組織委員会メンバー)とみられている。
  IOCはテレビ放送権で得た巨額な収入の一部を、開催都市に運営部の一部として寄付している。しかし、開催都市がOBSと契約せざるを得ない以上、IOCの寄付金はいったん開催都市を経由し、IOCの関連会社に戻るだけに過ぎない。
(同上)


また、”国際映像“の撮影費用の一切合切も開催国の組織委員会が負担することになっているのだそうです。そこにも「寄付」のカラクリが存在するのでした。

  二〇二〇年東京大会で発生するOBSの費用は公表されていない。だが、一九九八年長野大会が七競技六十八種目で約二百億円かかっていることから、三十三競技三百三十九種目が行われる二〇二〇年東京大会の放送費用は、数倍に上る可能性が高い。
  この費用は東京オリンピック組織委員会が負担する。IOCは東京オリンピック組織委員会に八百五十億円を寄付している。お金に色はついてないが、八百五十億円の大半はOBSの費用に充てられる計算だ。
(同上)


まるで「寄付」がマネーロンダリングの役割を担っているかのようです。いったん「寄付」したお金が、契約上圧倒的な優位に立つIOCによって回収される(ぼったくられる)ことによって、結果的にオリンピックマネーがIOCの関連会社に還流し、関連会社の役員をしているIOCの幹部たちの懐に入っていくのです。しかも、関連会社の役員報酬も非公開なのです。

メディア、特に「オフィシャルパートナー」の4大全国紙は、どこも明確に開催に反対する社論を掲げていません。「感染が収束しないので政府は困っている」というような論調でお茶を濁しているだけです。まだ感染収束とはほど遠い状況にあることを考えれば、そういったオブスキュランティズムは、スポンサーになっているということも含めて、「言論の死」ならぬ「言論の自死」と言っても過言ではないでしょう。これでは、”緩慢な死”どころか、加速度的に新聞離れが進むのは間違いないでしょう。東京オリンピックは、「言論の自死」という副産物までもたらしたのです。

もっともそれは、政治家も同じです。東京オリンピックの招致に成功したあと、衆参両院は、「2020年東京オリンピック・パラリンピック競技大会の成功に関する決議案」を採択したのですが、その際反対したのは参院の山本太郎議員(当時)だけだったそうです。共産党も賛成したのです。後藤氏は、翼賛的な決議案の採択について、日本は「無邪気な選良がオリンピックを無批判にあがめる」国だと痛烈に批判していました。ただ、現実には日本のような国は少数で、開催費用の高騰なども相まって、今後オリンピック開催に手を上げる都市がなくなる懸念さえあり、IOCも危機感を募らせているのだそうです。

また、新国立競技場が、オリンピック後、陸上の世界大会が開かれることができなくなるという話もあります。何故なら、世界陸連の規定でサブトラックが付設されていなければならないのですが、新国立競技場はオリンピック後に神宮外苑の再開発でサブトラックがなくなるからです。そのために、世界新記録などの公式記録が認められなくなるのです。

そのオリンピックにかこつけた神宮外苑の再開発が、「サメの脳みそ」や「空疎な小皇帝」など少数の関係者の密談で決まったという話や、マラソンと競歩が札幌に変更されたホントの理由などもありますが、そういった話は次回に譲ります。

感染が蔓延しているからオリンピックをやめるべきだというのも大事な論理ですが、オリンピックが抱える問題はそれだけではないのです。1974年に「オリンピック憲章」からアマチュア規定が削除され、以後オリンピックもIOCも大きく変質したのです。上記のように放映権料もとてつもない金額に高騰し、利権まみれになって、IOCの幹部たちも「五輪貴族」と呼ばれるようになったのです。能天気な日本の国会議員たちが「あがめる」ような大会ではなくなったのです。

『オリンピック・マネー』には、イギリスのオックスフォード大学のベント・フライバーグ教授が算出した「予算超過率」が紹介されていました。これは、「立候補時に掲げた開催費用と実際にかかった費用の乖離度を調査した」ものです。それによると、1960年~2012年の夏冬17大会の「実質割合の平均は174%だ」そうです。「つまり、当初予算の2.7倍かかっている」のです。『オリンピック・マネー』は、「乱暴に言えば、ハナから当初予算がないに等しい」と書いていました。前の記事でも書いたように、今回の東京大会も例外ではないのです。

今回の開催の問題は、オリンピックそのもののあり方を根本的に問い直すいい機会でもあります。ポエムのような”オリンピック幻想”からいい加減自由になる必要があるのです。でなければ、池江璃花子の”感動物語”のような”動員の思想”にからめとられる怖れはまだ残っているように思います。

日本という国の上にIOCの幹部たちが鎮座ましまして、日本政府が国民そっちのけでIOCのパシリをしているその卑屈で滑稽な姿。私たちは、お涙頂戴の”感動物語”にごまかされるのではなく、そんなこの国の指導者たちの姿をしっかり目に焼き付けておくべきでしょう。その卑屈で滑稽な姿は、一夜明けたら、「鬼畜」と呼んでいた昨日の敵に我先にすり寄っていったあのときと同じです。その背後にあるのは、丸山眞男が喝破した日本の(もうひとつの)国体とも言うべき”無責任体系”です。開催に関するリモート会議などを見ても、日本政府の関係者や東京都の小池都知事などは、まるで本社から指示を受ける支店長みたいです。それでよくもまあ「美しい国」「とてつもない国」「日本、凄い!」などと言えたものだと思います。宮台真司は、この国にはホントの愛国者はいないと言っていましたが、今更ながらにそのことばが思い出されてならないのでした。
2021.05.20 Thu l 社会・メディア l top ▲