昨日(21日)にYahoo!トピックスに掲載された下記の記事に対して、「国際ジャーナリスト」の高橋浩祐氏が書いたコメントが正鵠を射ていたので、あえて再掲します。

Yahoo!ニュース
共同通信
東京五輪、観客上限1万人で開催 5者協議決定、政府制限に準拠

東京オリパラがマネーファーストになっている。スポンサー招待客やチケット代、IOC委員ら五輪貴族を重視し、有観客になったとみられる。

コロナ禍の人命重視で五輪中止が内外で叫ばれてきた中、ここに来て、スポンサー企業などに左右される世界一大スポーツ興行の五輪の地金が出てきている。

ある大会組織委幹部は、「何十億円も出してくれた各スポンサー企業のことを考える、中止という選択肢はない」「電通がスポンサー集めに奔走した。中止になったら電通がつまはじきにされ、つぶれかねない」と話した。

しかし、スポーツはいったい誰のためにあるのだろうか。スポーツの語源はラテン語の「deportare」で仕事や家事から解放される人々の「気晴らし」や「娯楽」を指す。

一方的な決定に国民感情としては大会を支持する気持ちが薄れていくばかりではないだろうか。

五輪を巨額のカネが動く商業主義に陥らせたIOCの罪は大きい。


「マネーファースト」というのは、言い方を変えれば利権ということです。お金がからめば利権が生じるのは当然でしょう。

「スポーツの力」とか「アスリートの夢」とか、あたかもスポーツやアスリートは特別であるかのような言説がふりまかれるのも、その根底にスポーツにからむ利権があるからです。

与党の政治家や産経や読売や右派コメンテーターらが、オリンピックは「国際公約」なので中止はあり得ないと言っていましたが、それは詭弁で、ホントは単にお金を出してもらっているスポンサーとの契約に縛られているだけなのです。こういったところにも、「マネーファースト」の資本主義が持つ野蛮さや節操のなさが顔を覗かせているように思います。

時流におもねる現代文学(平成文学)を「電通文学」だと一刀両断したのは、セクハラで失脚した渡部直己ですが、それは文学だけでなくスポーツも同じです。スポーツに限らず「元気をもらう(元気を与える)」とか「勇気をもらう(勇気を与える)」などという言い方が盛んに使われるようになったのは東日本大震災からですが、言うなればそれは広告代理店のコピーのようなものでしょう。

ネットでは黒色のウレタンマスクをしている人間は頭が悪いイメージがあると言われているそうですが、私は、テレビのインタビューで臆面もなく「元気をもらう(元気を与える)」とか「勇気をもらう(勇気を与える)」などと言っているアスリートや芸能人を見ると、「私は何も考えていません」「私はバカです」と言っているようにしか聞こえませんでした。

今回のオリンピックでも、招致の段階から電通が大きな役割を担い、今回のオリンピックの陰の主役は電通ではないかと言われているくらいですが、もしかしたら、菅首相や丸川五輪大臣や橋本大会組織委員会会長の発言も、電通が作成した台本をただ読んでいるだけかもしれないのです。

昔の政商と言えば、三井や三菱などの旧財閥を思い浮かべますが、高度な情報化社会になった現代では、電通やパソナのような広告や情報を扱う第三次産業の会社がそれに代わったと言えるのではないでしょうか。どこかのバカ息子が役員になっていた東北新社も然りでしょう。

言うまでもなく登山もスポーツですが、だからと言って、私たちのような個人的に山が好きで山に登っている下々のハイカーには、たとえば日本山岳会のような団体はほとんど関係のない存在です。

ところが、(私もこのブログで批判しましたが)昨年の緊急事態宣言の際、日本山岳会をはじめとする山岳関連の4団体が共同で登山自粛の呼びかけをしたのでした。それが登山者を縛るだけでなく、さらに”自粛警察“やメディアに、山に行く登山者を攻撃する格好の口実を与えることになったのでした。しかし、呼びかけはその一度きりで、その後の緊急事態宣言では同様の呼びかけはありませんでした。じゃあ、去年のあの呼びかけは一体なんだったんだと思わざるを得ないのです。ただ国家の要請に盲目的に従っただけのようにしか思えないのです。日本山岳会は、戦前がそうであったように、今も「お国のための登山」を奨励する翼賛団体にすぎないのではないか。私は、彼らが登山者を代表しているかのように振舞うことには反発すら覚えるのでした。一方で、日本山岳会は、百名山、二百名山、果てはみずから三百名山までねつ造して、「モノマネ没個性登山者」(本多勝一)のミーハー登山を煽っているのです。おそらくそこにも、モンベルなどスポンサーの存在があるからでしょう。

それは、登山だけでなく、ほかのスポーツについても言えることです。街のスポーツ愛好者がいつの間にか電通などによってオリンピックのような国家イベントに動員される、その巧妙なシステムを知る必要があるのです。これだけ感染防止が叫ばれているのに、ボランティアを辞退しない人間たちに対する批判がいっさい出て来ないのが不思議でなりません。彼らはホントに”善意の人々”なのでしょうか。彼らの陰で、ボランティア募集の実務を担ったパソナは、対前年比10倍の莫大な利益を得ているのです。

パンデミック下のオリンピック開催によって、初めて(と言っていい)「スポーツは特別なのか」「アスリートは特別なのか」という疑問が人々の間に生まれたのですが、それが「元気をもらう」とか「勇気をもらう」とかいったカルトのような呪縛から抜け出すきっかけになれば一歩前進と言えるでしょう。そして、今回のオリンピックを奇貨として、もう一度スポーツのあり方を根本から考え直すことができれば、”狂気の祭典”もまったく無駄ではないと言えるのかもしれません。と言うか、既に開催が既成事実化された今に至っては、もうこんなことくらいしか言えないのです。


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