コーネリアスの小山田圭吾が、小林賢太郎や田中知之とともに、オリンピック・パラリンピックの開閉会式の制作メンバーに選ばれたことをきっかけに、小山田圭吾が過去に『ロッキング・オン・ジャパン』と『クイック・ジャパン』のインタビューで語っていた”いじめ自慢”が再び取り上げられ物議をかもしています。

ちなみに、大会組織委員会が制作メンバーとして彼らを発表したのは14日です。オリンピックの開会式が今週の23日ですから僅か10日前です。発表自体に唐突感があるのは否めませんし、なんだか不自然な感じがしないでもありません。当然ながらメンバーにはずっと以前に依頼していたはずで、どう考えても、発表するのを目前まで待っていた、あるいは控えていたとしか思えないのです。

大会組織委員会の武藤敏郎事務総長は、小山田圭吾の”いじめ自慢”を「知らなかった」と言っていますが、同時に、「引き続き貢献してもらいたい」とも発言しています。小山田圭吾の”いじめ自慢”は、ネットをググればすぐ出てくるくらい有名な話で(ただ、ウィキペディアでは、何故か記載と削除のイタチごっこが繰り返されていたみたいです)、どう考えても”渋谷系”の音楽と縁があるとは思えない武藤事務総長はともかく、彼らを選定した人間たち(電通?)が知らなかったというのは俄に信じ難い話です。それに、役人主導の典型的な日本的組織である大会組織委員会において、決裁を受ける際にその話が出なかったとはとても思えないのです。

一方で、もう終わったことをいつまで言っているんだというような寛容な(ことばを変えれば臭いものに蓋をする)意見もあります。私の知る限りでは西村博之(ひろゆき)や爆笑問題の太田光などがその代表と言えるでしょう。なかでもひろゆきのそれは、子どものような論理で屁理屈をこねまわして、批判するのを避けながら遠回しに擁護するというまわりくどいものです。

ひろゆきは、2ちゃんねる絡みの訴訟で下された数々の賠償金を踏み倒して(住所だけ置いていた西新宿の木造アパートの郵便受けから督促状があふれ出ている写真を見たことがあります)、それを得意げに語るような人物ですが、今やメディアでは”論破王”としてもてはやされているのでした。しかし、その”論破王”なるものも、一皮むけば、賠償金の踏み倒しに見られるように、昔、私たちのまわりにもいた、どうすれば飲酒運転の摘発から逃れられるかとか、どうすれば駐禁の違反金を払わずに済むかとかいった”裏テクニック”を得意げに話していたあのおっさんたちと同じレベルのものにすぎません。

もちろん、小山田圭吾が自慢たらしく語ったいじめは、もはやいじめの範疇を越えた、犯罪と言ってもいいような悪行で、ひろゆきや太田光が言うように、もう終わったことをいつまで言っているんだと言えるようなレベルのものではありません。しかも、いじめは、「民主的な人格の育成」を教育理念に掲げる和光学園の障害者と健常者が同じ教室で学ぶ「共同教育」を舞台に、小学校から高校まで執拗につづいたのでした。

「ディリー新潮」は、いじめの内容について、実際にインタビューで語った内容も含めて、次のように詳細に書いていました。

「全裸にしてグルグルにひもを巻いてオナニーさしてさ。ウンコ喰わしたりさ。ウンコ喰わした上にバックドロップしたりさ」(「ロッキング・オン・ジャパン」)

「クイック・ジャパン」のインタビューによると、小学校の時には障がいのある同級生の体をガムテープで巻き、身動きが取れないようにして、段ボールに入れたという。

 同じ同級生のことは高校生時代にもイジメた。みんなでジャージを脱がせ、下半身を露出させた。

「女の子とか反応するじゃないですか。だから、みんなわざと脱がしてさ、廊下とか歩かせたりして」(「クイック・ジャパン」)

 中学の時の修学旅行では違う同級生を、留年した先輩と一緒にイジメている。この同級生にも障がいがあった。小山田は先輩と一緒になって同級生に自慰行為をさせている。

「クイック・ジャパン」にはほかにもこんな下りがある。

「掃除ロッカーの中に入れて、ふたを下にして倒すと出られないんですよ。すぐ泣いてうるさいから、みんなでロッカーをガンガン蹴飛ばした」

「マットの上からジャンピング・ニーパットやったりとかさー。あれはヤバいよね、きっとね」

(2021年7月17日掲載)


ディリー新潮
イジメっ子「小山田圭吾」の謝罪に不可解な点 当時の学校運営に不満だったという証言

また、それ以外にも、近くの学校に通うダウン症の子どもに対する侮蔑発言や人種差別発言も掲載されているそうです。

身の毛もよだつとはこのことでしょう。実際に中学時代、小山田圭吾にいじめられた同級生は自殺まで考えたそうです。

また、東浩紀も、ひろゆきや太田光と同じような論法でこの問題を語っていましたが、知識人の仮面を被って発言している分、ひろゆきや太田光より始末が悪いと言えるでしょう。東浩紀は、次のようにツイートしていました。

東浩紀 Hiroki Azuma
https://twitter.com/hazuma

東浩紀小山田圭吾1

東浩紀小山田圭吾2

東浩紀小山田圭吾3

それにしても、「そもそも音楽もスポーツも苦手なので、個人的には例の件はかなりどうでもいい」という言い草にも驚くばかりです。「何様か」とツッコミたくなります。

東浩紀は「過去の記録はアップデートできない」と言いますが、その気になればいくらでも「アップデートできる」でしょう。小山田圭吾は、今回批判が殺到して初めてツイッターで謝罪したにすぎず、今までも「アップデートできる」チャンスはあったのにそれをしなかったのです。

その時代の背景、その時代の環境も考えるべきというような屁理屈も然りで、それは、(牽強付会だと言われるかもしれませんが)戦争中だからジェノサイドや集団強姦も許される、戦争中だから妊婦を強姦して腹を切り裂きなかの胎児を取り出したことも許されるという論理と同じです。話を飛躍すれば、そうやって戦後の日本は平和と繁栄の虚構を演じてきたのです。だから、胎児を取り出して高笑いしていた日本兵たちは、復員すると、俺たちのお陰で戦後のニッポンがあるのだと開き直り、金・物万能の世の中で精神が疎かになっている、愛国心を忘れていると説教を垂れるようになったのです。もちろん、その責任を当事者の兵士だけに帰するのではなく、どうやって加害国の国民として共有していくのかを考えるのが”知”の役割というものでしょう。

この東浩紀の屁理屈を見て、私は、かつて東京都知事選で猪瀬直樹を応援して選挙カーの上で応援演説をしたそのトンチンカンぶりを思い出さざるを得ませんでした。

池袋駅東口に停められた選挙カーの上で、聴衆に向って手を振る猪瀬直樹の横で、「猪瀬さんこそ夢を託しながら現実の第一歩を踏み出せる、着実に改革ができる人物だ」と応援演説をしたその姿とその演説の内容こそ、彼が如何に俗物で中身がスカスカかということを示しているように思います。穿った見方をすれば、東浩紀が「アップデートできない過去」を強調するのも、彼自身にこういった消せない過去があるからかもしれないのです。

tegetter
東浩紀の演説。

また、彼は、東日本大震災の際、なにを血迷ったか、次のような日本賛美&総動員体制万歳のような発言をしたこともありました。

 震災前の日本は、二〇年近く続く停滞に疲れ果て、未来の衰退に怯えるだけの臆病な国になっていた。国民は国家になにも期待しなくなり、世代間の相互扶助や地域共同体への信頼も崩れ始めていた。

 けれども、もし日本人がこれから、せめてこの災害の経験を活かして、新たな信頼で結ばれた社会をもういちど構築できるとするのならば、震災で失われた人命、土地、そして経済的な損失がもはや埋め合わせようがないのだとしても、日本社会には新たな可能性が見えてくるだろう。もちろん現実には日本人のほとんどは、状況が落ち着けば、またあっけなく元の優柔不断な人々に戻ってしまうにちがいない。しかしたとえそれでも、長いシニシズムのなかで麻痺していた自分たちのなかにもじつはそのような公共的で愛国的で人格が存在していたのだという、その発見の経験だけは決して消えることがないはずだ。
(「For a change, Proud to be Japanese : original version」)
東浩紀の渦状言論 はてな避難版 2011年3月22日


東浩紀は、筑波大附属駒場中学・高校から東大の文科一類に進んだ秀才で、たしかに頭はいいのでしょう。しかし、その頭のよさは、子どものような論理で屁理屈をこねまわす程度の頭のよさにすぎないのです。実際は、巷の労働体験もほとんどない世間知らずのセンセイにすぎないのです。もしかしたら「先生と言われるほどの馬鹿でなし」という諺の意味もわかってないのかもしれません。

東浩紀のゲンロンなるものは、そんな子どもの論理で屁理屈をこねまわす、俺たち凄いだろう?というような、登山者にとってのヤマレコと同じような自己顕示と自己慰謝の場にすぎないのです。

だから、彼らの言説が、宮台真司が言う「現実にかすりもしない」のは当然です。ゲンロンなるものに集まって、どうでもいい屁理屈をこねまわしている学者やジャーナリストたちは、ただそうやって知識人ごっこをしているだけなのです。

要するに、屁理屈のわりに中身はスカスカなので、現実と拮抗すると、小山田圭吾の問題を「過去の話」と一蹴したり、猪瀬直樹のような自称作家の俗流政治屋に伴走したり、東日本大震災後の「ひとつになろう日本」キャンペーンに象徴される国家がせり出してきた状況を手放しで礼賛するような、トンチンカンな醜態を晒すことになるのでしょう。

パラリンピックの開閉会式に、上記のような凄惨ないじめをした人物が作曲した音楽が使われるというのは、考えようによってはこれほどの悪趣味はないのです。しかし、東浩紀らは、そんな想像力の欠片さえ持ってないと言うべきかもしれません。

おぞましいのは小山田圭吾だけではないのです。擁護しているんじゃないと言いながら擁護している東浩紀も同じです。


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2021.07.19 Mon l 社会・メディア l top ▲