そして、たとえば、開催に反対していた立憲民主党の蓮舫代表代行がツイッターで、日本選手の金メダルをたたえるツイートをすると、「反対していたのにおかしい」「手の平返しだ」などという声が殺到し、炎上するような事態まで起きているのでした。また、茂木健一郎がオリンピック反対派をノイジーマイノリティ(声だけ大きい反対派)だと批判し、沿道でオリンピック反対の行動をしていることにツイッターで「苦言を呈した」というニュースが流れると、反対デモをしているのは極左団体だとか中核派だとかいったコメントが瞬く間にヤフコメに溢れたのでした。
それにしても、昨日まで70~80%あった反対の声がどうしてこんなに180度違う空気に変わったのか、その豹変ぶりにはただただ唖然とするばかりです。と同時に、ここにも日本社会の”特殊性”が垣間見えるような気がするのでした。
このブログを読んでいただければわかるように、私は、70~80%の反対の声に対してずっと懐疑的でした。開催されれば「感動に寝返る」はずだと書いてきました。また、菅総理は「国民は、開催されればメダルラッシュに感動にして反対していたことなど忘れる」と言っていましたが、まさにそのとおりになったのです。
これは蓮舫や茂木健一郎にも言えることですが、たとえ反対のポーズを取っていても、「感動に寝返る」要素は最初から存在していたのです。いつでも「寝返る」ことができるように「逃げ道」が用意されていたのです。
ひとつは、スポーツは特別だという「逃げ道」です。反対論の多くは、コロナ禍なのにオリンピックなんかやっている場合かという素朴な反発心にすぎず、一方でそこには、あらかじめ代表選手は批判しない、選手は別という抑制(一種のタブー)がありました。
つまり、70〜80%の反対論の多くは、オリンピックやスポーツのあり方を真面目に考え論理的に整序された反対論ではなかったのです。そんなただ素朴な心情から発した反対論が、スポーツは特別なのかという”壁”を乗り越えるのはどだい無理な話だったとも言えます。ゆえに、批判の矛先が向くことのなかった代表選手たちによってもたらされる感動に、一も二もなく飛びついたのは当然と言えば当然でしょう。
もうひとつの「逃げ道」は、中韓に対するヘイトという「逃げ道」と言うか「ガス抜き」です。反対論を唱える多くの人びとのなかにも、御多分に漏れず中韓に対する民族排外主義的なナショナリズムが貼り付いていたのです。オリンピック開催にまつわる政権批判の矛先をかわすのに、中韓ヘイトはこれ以上のない”魔法の杖”とも言えます。さしずめ下記の記事などはそのカラクリを端的に表していると言えるでしょう。
PRESIDENT Online
東京五輪にかこつけて文在寅大統領が日本から引き出したかった"ある内容"
日本はいつまで経っても優位な立場でいたいのでしょう。だから、韓国はオリンピックにかこつけて物乞い外交をしたかったけど、それができないとわかったので文在寅大統領は来日を取りやめたという、如何にも日本人の自尊心をくすぐるような記事です。
しかし、現実は冷厳で、豊かさの指標である一人当たり実質購買力平価GDPでは、既に韓国に抜かれています。日本の国民より韓国の国民の方が豊かだということが、国際的な指標でもあきらかになっているのでした。
Yahoo!ニュース
Wedge
なぜ、日本は韓国よりも貧しくなったのか
日本人はこういった現実は絶対に認めたくないはずです。できれば見たくない現実でしょう。
中国に対しても然りで、米中対立が実は二つの大国による世界支配(世界分割)をめぐる丁々発止のやりとりだというのは、もはや誰の目にもあきらかでしょう。それこそが中国の狙いであり、同時にそれはアメリカが唯一の超大国の座から転落したことを意味しているのでした。いつの間にか、中国がアメリカと対等に、世界分割について交渉するまでになっていたという、日本人にとっては信じたくない現実がここにも立ち現れたのです。
そう考えれば、勝ったか負けたかのスポーツの祭典で中韓ヘイトがヒートアップするのも、「コロナ禍なのに」という素朴な反発心が偏狭なナショナリズムの前で片隅に追いやられるのも、最初から予定されていたと言うべきかもしれません。
そして、あとは、丸山眞男が言った「つぎつぎとなりゆくいきほひ」という、もうはじまったことは仕方ない、それに乗っていくしかないという没論理的なノリノリの総動員体制に突き進むだけです。一方で、寝返った人間たちが、(その後ろめたさから)未だに反対している少数派に対して牙を剥き出しにするというのもいつもの光景です。そのためには、反対派は市民社会の埒外にいる極左、過激派ではなくてはならないのでした。
もっとも、それも権力が用意した「逃げ道」、矛先にすぎません。先月だったか、京大の熊野寮や中核派の前進社が相次いで家宅捜査を受けたのは、その前段だったのでしょう。そして、先週の反対デモにおいて、警察官の「手首を掴んだ」として公務執行妨害で中核派の活動家が逮捕され、大きく報道されたのでした。そうやってオリンピックの反対運動をしているのは極左だというイメージが流布されたのでした。もっとも、逮捕された活動家は、「手首を掴んだ」程度の微罪なので、早晩、処分保留で釈放されるのは間違いありません(もしかしたら既に釈放されているかもしれません)。それもいつものことですが、メデアが報道することは一切ありません。
丸山眞男は、『日本の歴史』のなかで、開国(明治維新)以後の日本の思想風土について、次のように書いていました。
思想が伝統として蓄積されないということと、「伝統」思想のズルズルべったりの無関連な潜入とは実は同じことの両面にすぎない。一定の時間的順序で入って来たいろいろな思想が、ただ精神の内面における空間的配置をかえるだけでいわば無時間的に併存する傾向をもつことによって、却ってそれらは歴史的な構造性を失ってしまう。小林秀雄は、歴史はつまるところ思い出だという考えをしばしばのべている。それは直接的には歴史発展という考え方にたいする、あるいはヨリ正確には発展思想の日本への移植形態にたいする一貫した拒否の態度と結びついているが、すくなくとも日本の、また日本人の精神生活における思想の「継起」のパターンに関するかぎり、彼の命題はある核心をついている。新たなもの、本来異質なものまでが過去との十全な対決なしにつぎつぎと摂取されるから、新たなものの勝利はおどろくほど早い。過去は過去として自覚的に現在と向きあわずに、傍におしやられ、あるいは下に沈降して意識から消え「忘却」されるので、それは時あって突如として「思い出」として噴出することになる。(略)
日本社会あるいは個人の内面生活における「伝統」への思想的復帰は、いってみれば、人間がびっくりした時に長く使用しない国訛りが急に口から飛び出すような形でしばしば行われる。
そして、丸山眞男は、そんな時間軸が消失し「前近代」と「近代」が継ぎ目なしに併存した思想風土において、「実感信仰」による「『ありのままなる』現実肯定」が現在と向き合う際の日本人の特徴であると(いうようなことを)書いていましたが、それこそが今回のような「感動に寝返る」バッググランドになっているように思います。
また、丸山眞男は、『超国家主義の論理と心理』で、「抑圧の委譲」というものについて、次のように書いていました。この「抑圧の委譲」は、日本特有の同調圧力のメカニズムを考える上でヒントになるように思いました。
自由なる主体的意識が存せず各人が行動の制約を自らの良心のうちに持たずして、より上級の者(従って究極的価値に近いもの)の存在によって規定されていることからして、独裁観念にかわって抑圧の委譲による精神的均衡の保持とでもいうべき現象が発生する。上からの圧迫感を下への恣意の発揮によって順次に移譲して行く事によって全体のバランスが維持されている体系である。これこそ近代日本が封建社会から受け継いだ最も大きな「遺産」の一つということが出来よう。
もっとも、いくら権力の意志を貫こうとしても、パンデミック下にあるオリンピックでは、猛威を振るうウイルスを(どこかの誰かではないけど)都合のいいようにアンダーコントロールできるわけではありません。感動に沸き立つ日本列島に冷水を浴びせるかのように、7月27日の東京都の新規陽性者数は2848人という過去最高の数字を記録したのでした。4日連休が関係しているからだという声もありますが、しかし、検査数は8038人にすぎず、連休明けで検査数が増えたのでその分感染者数も増えたというわけではないのです。
オリンピックが開催されてから、東京都は検査数を絞っているようでずっと1万件を下回る数字になっています。それでもこんな新規感染者数が記録されるのですから、まともに検査したらどれくらいの感染者が出るかわかりません。デルタ株(インド型変異株)の感染爆発はもう既にはじまっていると考えるのが常識でしょう。
オリンピックと感染爆発のダブルパンチで医療も逼迫しています。東京都が通常の救急や手術は控えて新型コロナ用のベットを確保するように、病院に指示したというニュースもありました。トリアージが再び行われようとしているのです。アスリートたちがメダルを胸にはしゃいでいるその裏で、皺寄せを受けた患者たちの命が人知れず選別されようとしているのです。なんと不条理な話でしょう。それでもスポーツ(アスリート)は特別だと言えるのか、そう問い返したい気持があります。