デルタ株の感染爆発に伴い、政府が感染者のなかで、今まで入院治療が原則だった中等症の患者を自宅療養に切り替えるべく方針を転換したことが物議を呼んでいます。もちろん、これは病床逼迫に対応するための方針転換なのですが、その基準も曖昧で、自宅で酸素吸入をしなければならないケースさえ出てくると言われています。

菅総理は、重症化リスクには充分対応すると言ってますが、今までも自宅療養していた感染者で容態が急変して亡くなるケースもめずらしくなかったのです。報道によれば、自宅待機の感染者にパルスオキシメーターを配布し、電話やLINEを使って経過観察を行うそうですが、症状が急変した場合、ホントにそんなことで対応できるのか不安を抱くのは当然でしょう。政府の方針転換を受けて、東京都も感染者の入院の判断基準を改定して、血中酸素濃度が「96%未満」という従来の基準を厳格化するという報道もありました。ちなみに、私は、コロナの前からパルスオキシメーターを携行して山に行ってますが、ハァハァ息が上がっていると95%以下になることがよくあります。

現在、東京都に限って言えば、自宅療養している患者は1万4000人もいるそうです。この1か月で13倍も増えたとか。方針転換されると、東京都だけでも自宅療養の患者が3万5千人になるという試算もあります。なかにはひとり暮らしの人もいるはずです。高熱のなか肺炎を併発しても入院もできずに、自分で酸素吸入をしながら症状の急変に怯え、ひとりで自宅で過ごさねばならないのです。もし自分がそうなったらと思うと、恐怖以外のなにものでもありません。

一方で、オリンピックは、相変わらず、日本の快進撃が止まらないとかメダルラッシュがつづいているとか言ったお祭り気分の只中にあります。メダリストになったアスリートはテレビ局をハシゴして歯の浮いたような賛辞を受け、ハイテンションで喜びを語っています。

この相反する光景は一体なんなんだと思わずにおれません。今度のオリンピックでは、SNSなどでアスリートに対する「誹謗中傷」が相次いでいるとかで、アスリート自身から許せないという声も上がっていますが、彼らが言うようにホントに全てが「誹謗中傷」なのでしょうか。なかには、このコロナ禍のオリンピックで、どうしてスポーツだけが特別なのか、どうしてアスリートは聖域なのかという批判も含まれているに違いありません。そういった批判も十把一絡げにして「誹謗中傷」だと言うのなら、それは違うだろうと言いたくなります。

特に今回のオリンピックでは、大会前の池江璃花子に対する「代表を辞退してほしい」という「匿名の圧力」などもあって、メディアはアスリートたちに対して一切の批判を封印し、まるで腫れ物を触るような扱いなのです。そのため、私の偏見かもしれませんが、アスリートが逆に被害者意識に開き直っているような印象さえあるのでした。たとえば、サッカーの吉田麻也は、無観客だとパフォーマンスが上がらないなどと発言していましたが、彼にはパンデミック下にある感染者の現状が見えているのか、はなはだ疑問です。

菅総理は、3日、総理官邸で日本医師会など医療関係団体との意見交換を行い、方針転換の協力を要請したそうですが、これに対して参加者から「注文や批判も相次いだ」そうです。

私は、そのニュースを観て、だったらこうなる前に、日本医師会などはどうしてもっと強くオリンピック中止を主張しなかったんだと思いました。最初からわかっていたことではないのか。それは、感染爆発のニュースを報じたあと、急に笑顔に変わって「さて、オリンピックですが、連日日本選手の活躍が目立っていますね」と安っぽい感動に盛られたニュースを伝えるニュースキャスターやコメンテーターたちのサイコパスのような二面性も同じです。

数万人が国境を越えてやって来るオリンピックを開催しながら、一方で、政府や自治体が県をまたいだ移動や帰省や旅行の自粛を呼びかけるのは、どう考えても前後が矛盾した分裂症的な発言としか言いようがありません。しかし、日本では「この人たち頭がおかしいんじゃないの」と誰も言わないのです。

西村担当大臣は、「今まで経験したことがない感染爆発が起きようとしています」と国民に危機感の共有を訴えていますが、しかし、そう言いながら、オリンピックはなにがなんでも続けるつもりのようです。文字通り撃ちてし止まんの精神と言えるでしょう。私は興味がないので見てませんが、総理大臣のツイッターも、メダルを取った選手に向けたお祝いとねぎらいのことばばかりだそうです。立憲民主党の枝野代表も、「混乱を招くから(オリンピックの)中止は求めない」と言っています。私は、それを聞いて、この人ホントに野党の党首なのかと思いました。「今まで経験したことのない感染爆発」より、中止した際の「混乱」の方が優先されるのです。

そこにあるのは、やはり”日本的な特殊性”です。このおかしな国のおかしな空気を考えるとき、丸山眞男の言説が思い出されてならないのでした。

日本では何かこと・・を行うに当って大義が大事とされます。オリンピック開催の是非が問われていたとき、野党がオリンピック開催にもはや大義はないと言っていましたが、私はそれを聞いて、だったら大義があればいいのかと思いました。何故か大義それ自体は無条件にいいこと=善と捉えられるのです。

公を一義とする日本では、「私的なものは、即ち悪であるか、もしくは悪に近いものとして、何程かのうしろめたさを絶えず伴っていた。 営利とか恋愛とかの場合、特にそうである」と丸山眞男は書いていましたが、たしかに卑近な例をあげれば、芸能界には法律に関係なく未だに姦通罪が生きているかのような空気が存在しています。そうやって個人の内面にヌエのような権力が鎮座ましましているのでした。不倫ということばは秀逸で、倫理性の基準は個人になく、倫理は、公の安寧と秩序にどう奉仕するかによって権力から恣意的に与えられるものにすぎません。明治国家を憧憬した江藤淳は、国家が倫理の源泉たる役割を放棄した現状を嘆いていましたが、実際は国家というより曖昧模糊とした掴みどころのない公が倫理の源泉なのでした。

よって日本では、公に奉仕する”滅私”や”無私”こそが美徳とされるのです。その結果、公の意思=大義があれば戦争だってオリンピックだってなんだって許されるのです。私がないのですから、大義の内容が問われることは一切ありません。今回のオリンピックのように(かつての戦争がそうであったように)、いざとなれば論理も倫理もくそもなく目の前の感動に寝返る日本人の”特性”も、その脈絡で捉えるべきでしょう。

丸山眞男は、「超国家主義の論理と心理」のなかで、大義について、次のように書いていました。

「大義を世界に布く」といわれる場合、大義は日本国家の活動の前に定まっているのでもなければ、その後に定まるのでもない。 大義と国家活動とはつねに 同時存在なのである。 大義を実現するために行動するわけだが、それと共に行動することが即ち正義とされるのである。「勝つた方がええ」というイデオロギーが「正義は勝つ」というイデオロギーと微妙に交錯しているところに日本の国家主義論理の特質が露呈している。それ自体「真善美の極致」たる日本帝国は、本質的に悪を為し能わざるが故に、いかなる暴虐なる振舞も、いかなる 背信的行動も許容されるのである!
   こうした立場はまた倫理と権力との相互移入・・・・としても説明されよう。国家主権が倫理性と実力性の究極的源泉であり両者の即自的統一である処では、倫理の内面化が行なわれぬために、それは絶えず権力化への衝動を持っている。倫理は個性の奥深き底から呼びかけずして却って直ちに外的な運動として押し迫る。国民精神総動員という如きそこでの精神運動の典型的なあり方・・・なのである。
(「超国家主義の論理と心理」)


そのため、法についても、西欧的な概念ではなく、「天皇を長とする権威のヒエラルヒーに於ける具体的支配の手段」という多分に人治的な性格を付与されているのです。

法は抽象的一般者として治者と被治者を共に制約するとは考えられないで、むしろ天皇を長とする権威のヒエラルヒーに於ける具体的支配の手段にすぎない。だから遵法ということはもっぱら下のものへの要請である。軍隊内務令の繁雑な規則の適用は上級者へ行くほどルーズとなり、下級者ほどヨリ厳格となる。 刑事訴訟法の検束、拘留、予審等々の規定がほかならぬ帝国官吏によって最も露骨に蹂躙されていることは周知の通りである。具体的支配関係の保持強化こそが眼目であり、そのためには、遵法どころか、法規の「末節」に捉われるなということが繰返し検察関係に対して訓示されたのである。従ってここでの国家的社会的地位の価値規準はその社会的職能よりも、天皇への距離にある。
(同上)


これを読むと、安倍晋三のモリカケの問題を真っ先に思い浮かべますが、それだけでなく、国民に自粛を強要しながら政治家や高級官僚など「天皇への距離」が近い「上級国民」たちは平然と自粛破りを行なうという、「国民には厳しく自分たちには甘い」今の風潮もよく示しているように思います。また、天皇に片恋する右翼が、国家を溶解させる(させかねない)パンデミック下のオリンピック開催に賛成して、あろうことか反対派に敵意をむき出しにする本末転倒した光景も納得ができるのでした。

こう考えていくと、もうメチャクシャ、支離滅裂ということばしか浮かびません。
2021.08.04 Wed l 新型コロナウイルス l top ▲