路上生活者についても、たとえばバブルの頃は、私の周辺でも「普通に生活していればあんな風にはならないよね」と言う声がありました。世の中は景気がいいんだから働き口は沢山ある。普通に働いていればホームレスになるわけないという認識があったように思います。

そのため、路上で生活している人たちは、社会的に適合できない、知的障害があったり酒やギャンブルで身を持ち崩したような「特殊な人々」だという見方がありました。「ホームレスは三日やったらやめられないと言うじゃないか」なんて言って笑って見ている人さえいました。

もちろん、それは認識不足による偏見にすぎないのですが、そういった見方をするというのは、私たちのなかにまだ経済的な余裕があったからです。だから、所詮は他人事で異物を見るように見ていたのです。

しかし、現在はそんな見方は少なくなりました。経済的な余裕がなくなっており、ましてこのコロナ禍で、生活が困窮するようになるのは他人事とは言えなくなったからです。

また、コロナ禍だけでなく、労働者の半分以上が派遣など非正規雇用だという、私たちをとりまく労働環境の変化もあります。

先日の小田急線刺傷事件の犯人も派遣で職を転々としていた青年でした。京都アニメ事件の犯人も秋葉原事件の犯人も似たような境遇でした。若くして「人生が詰み」、自暴自棄になって犯罪に走ったという解釈もできなくはないように思います。

先進あるいは中進工業国38カ国が加入するOECDのなかの経済指数を見ても、日本は下落する一方で、社会における所得の不平等さを測る指標であるジニ係数では、韓国より下の16位まで落ちています(2018年)。このように私たちの人生が板子一枚下は地獄のような危いものになっており、生活保護や路上生活ももはや他人事ではなくなっているのです。「普通に生活していればあんな風にはならないよね」とは言えなくなったのです。むしろ、「もしかしたら自分も」と思うような人が多くなっているのは事実でしょう。

ただ一方で、その分”見たくないもの”として激しく排斥しようとする近親憎悪のような心理もはたらくようになっています。似たような境遇だから、明日の自分の姿だからと思うと、寛容になる人と逆に不寛容になる人がいるのです。人間にはその二つの相反する心理が存在するのです。

昔、作家の野坂昭如が「二度と飢えた子どもの顔を見たくない」というスローガンで参院選に出馬した際、五木寛之が自分は「二度と飢えた親の顔を見たくない」と言ったのを覚えています。五木寛之が言うには、目の前にパンが一切れしかない場合、平時だと「お母さんはいいから食べなさい」と子どもに食べさせるけど、飢餓の状態にある非常時だと親は子どもからパンを取り上げて自分が食べようとする。そんな場面を朝鮮半島から引き上げる途中に何度も見たそうです。今は隣人との関係において、それに近いものがあるのではないでしょうか。思いやりとか優しさとかいった寛容の精神は、まだ余裕があった平時の話かもしれないのです。

自分たちのことを考えてみればわかりますが、私たちは、親から結婚資金やマイホームの頭金を出してもらうのが当たり前のような世代でした。じゃあ、今度は私たちが自分の子どもにも同じことができるのかと言えば、もうできないのです。

前も書きましたが、私は九州の高校を卒業しましたが、当時、東京の大学に進学した同級生は100名近くいました。今でも関東圏に住む同級生は60名くらいいます。でも、現在、母校の卒業生で東京の大学に進むのは数名しかいません。それだけ進学するにしても地元志向、そして公立志向が強くなっているのです。どうしてかと言えば、昔のように子どもを東京の大学にやるほどの経済的な余裕がなくなったからです。

一見贅沢な生活をしているように見えますが、しかし、このように確実に余裕がなくなっているのです。それだけ貧しくなっているのです。格差と言うと、じゃあ勝ち組になるようにがんばればいいと思いがちですが、勝ち組は数%の人間しか入れない狭き門です。大半は勝ち組になれないのです。それが格差というものです。格差は間違っても誰でも努力次第で勝ち組になれるような平等な競争なんかではないのです。ジニ係数が示しているのはその冷酷な現実です。

私たちが忘れてはならないのは、経済的な余裕がなくなり社会全体が貧しくなればなるほど、負の感情の「地下茎」が広がっていくというおぞましい現実です。そして、それが優生思想のようなものと結び付き、今回のように突然社会の表面に噴出するようになるのです。

DaiGoの場合はあぶく銭を掴んだので勘違いしたとも言えますが、負の感情の「地下茎」が表面化したという点では、相模原のやまゆり園事件や座間の9人連続殺害&遺体損壊事件の犯人たちの方がわかりやすいように思います。

DaiGoの発言を狂気だと言った人がいましたが、相模原のやまゆり園事件や座間の9人連続殺害&遺体損壊事件の犯人たちについても、なんらかの精神障害を発症しているのではないかという見方がありました。優生思想が社会の表面に噴出したとき、それが狂気のような相貌を帯びているのは当然と言えば当然です。そんな狂気のような相貌を帯びているものが私たちの社会に間違いなく広がっているのです。

「普通に生活していればあんな風にはならないよね」「ホームレスは三日やったらやめられないと言うじゃないか」というのは単なる差別ですが、しかし、経済的な余裕がなくなり彼らの存在が身近になればなるほど、そういった差別意識が地下深くもぐり込んで”狂気の思想”と結び付くようになるのです。合理主義の極致とも言うべき市場原理主義的な考え方も、優生思想と親和性が高いと言えるでしょう。

DaiGoの発言は、そんな狂気の思想が足下でマグマのように溜まっている私たちの社会のもうひとつの顔を浮かび上がらせたとも言えるのではないでしょうか。
2021.08.17 Tue l 社会・メディア l top ▲