横浜市長選の結果について、横浜市民の一人としては、取り立てての感慨はありません。何度も言うように、とにかく「日本一大きな田舎」を仕切る「村社会」に風穴を空けなければどうしようもないと思っていますので、そのことに興味があるだけです。今回の選挙結果が蟻の一穴になるかどうかはまだわからないのです。
山中竹春候補を担いだ立憲民主党も、かつて(そして今も?)「村社会」の一員だったということを忘れてはならないのです。少なくとも、ついこの前まで林市政の与党として林前市長を支えてきた夫子自身の総括は何もしてないのです。それどころか、旧民主党は林市政の”製造者責任”さえあるでしょう。党名を変えたから免罪されるというものではないのです。それでは、連合や自治労やあるいは市関係4労組のような獅子身中の虫に掻きまわされて元の木阿弥になるのがオチだと思います。「市民自治の復活」と言うのはあまりにも能天気すぎるのです。
むしろ、今回の市長選を一歩下がったところから見ると、選挙結果とは別にいろんなことが見えて興味をそそられました。たとえば、立憲民主党の事なかれ主義をどう捉えるかということにも関係しているのだと思いますが、山中竹春候補と田中康夫候補を支持する左派リベラルの間で、それぞれ「左の全体主義(ファシズム)」VS「限界系左翼」という罵り合いがくり広げられたこともそのひとつです。それは、選挙が終わった今もつづいています。
そこにあるのは、吐き気を催すようなきわめて古い政治の風景です。今になればどんなことでも言えますが、やはり、60年代後半の運動(大衆叛乱)を正しく検証していない(する気がなかった)人間たちのお粗末さ、滑稽さが露呈されているように思えてなりません。彼らは、過激派が内ゲバで自滅してざまあみたいな既成左翼の見方をただ無定見に踏襲しているだけです。そんな同病相哀れむような罵り合いに対しては、党派に随伴することでしかみずからの政治的主張を表明することができない不幸と恐怖を考えないわけにはいきません。
私は天邪鬼な人間なので、こういう選挙結果になったら、今度は逆に林前市長の功績を考えてみたくなりました。操り人形でも操り人形なりの功績が何かあったのではないか。そう思ってSNSを見ていたら、横浜市民の方のツイッターで、林市長になってから職員の対応が良くなったのはたしかだというツイートが目にとまりました。もしかしたらこのブログにも書いたかもしれませんが、私も同じことを思いました。それまではホントにひどかったのです。何をしているかわからない職員もいました。ちょうどラスパイレス指数で横浜市の職員の給与が日本一になった頃だと思いますが、私自身横浜に引越したばかりだったので、まだこんな役人天国の世界が残っていたのかとびっくりした覚えがあります。職員の対応が良くなったというのは林市政の数少ない功績のひとつと言えるでしょう。
それからもうひとつ天邪鬼ついでに言えば、任期最後の今月4日の定例記者会見での林前市長の次のような発言にも感心しました。
少なくとも菅総理や、今の自民党を牛耳る安倍・麻生・二階の三○○大将には間違っても望めない発言でしょう。
その菅総理についてですが、市長選の結果を受けて、政治的に窮地に立ち、自民党内でも「菅降ろし」がはじまるのではないかという見方がいっせいに出ています。しかし、三〇〇大将が牛耳る今の自民党の党内力学はそんな単純でヤワなものではないでしょう。なにより菅総理自身が、そうなればなるほど自他ともに認める鋼のようなメンタルの強さを発揮するはずです。それは、換言すれば厚顔無恥ということですが、政治屋に厚顔無恥なんてことばは通用しないのです。むしろ、厚顔無恥であってこそ政治屋なのです。本人は、「叩き上げだから打たれ強い」という自己に対する迷信をさらに深めて、政治屋の本領を発揮するに違いありません。
菅総理に関しては、下記のプチ鹿島氏の分析がどんな政治評論より的を射ているように思いました。
文春オンライン
《横浜市長選で与党惨敗》「総裁選に勝利して衆院解散に…」とにかく“タフ”な菅首相が“次に期待”し続ける理由
この感染爆発と医療崩壊のなかにあってもなお、「9月12日」という中途半端な緊急事態宣言の期限に見られるように、感染対策より総裁選や解散総選挙のスケジュール(つまり、権力者の都合)が優先されるという政治の末期症状。そこにあるのは、政治家ではなく政治屋の姿です。
横浜市の人事に介入にして「陰の横浜市長」と言われたり、総務省でも意に沿わない官僚を飛ばしたりという、人事権をふりかざして人を支配するその非情さが、コロナ対策にも表れているように思います。
上記のプチ鹿島氏の分析でも触れていますが、朝日の鼎談で、日本学術会議の任命を拒否された加藤陽子氏(東京大教授)は、今の政権が持っている説明責任の欠如について、次のように指摘していました。
でも、それは中小企業のワンマン経営者などにありがちな裸の王様の手法でしかないのです。言うなれば、中小企業のワンマン経営者が総理大臣をやっているようなものです。
今の菅総理には、自宅に「放置」されひとり死を待つ人々の姿は目に入ってないかのようです。コロナ禍にあっても、コロナ対策より自分の権力の維持が優先される。そんな政治屋が総理大臣になったこの国の不幸を今更ながらに痛感せざるを得ないのです。
関連記事:
政治屋・菅義偉の恐怖支配と”横浜方式”
横浜市政は伏魔殿
山中竹春候補を担いだ立憲民主党も、かつて(そして今も?)「村社会」の一員だったということを忘れてはならないのです。少なくとも、ついこの前まで林市政の与党として林前市長を支えてきた夫子自身の総括は何もしてないのです。それどころか、旧民主党は林市政の”製造者責任”さえあるでしょう。党名を変えたから免罪されるというものではないのです。それでは、連合や自治労やあるいは市関係4労組のような獅子身中の虫に掻きまわされて元の木阿弥になるのがオチだと思います。「市民自治の復活」と言うのはあまりにも能天気すぎるのです。
むしろ、今回の市長選を一歩下がったところから見ると、選挙結果とは別にいろんなことが見えて興味をそそられました。たとえば、立憲民主党の事なかれ主義をどう捉えるかということにも関係しているのだと思いますが、山中竹春候補と田中康夫候補を支持する左派リベラルの間で、それぞれ「左の全体主義(ファシズム)」VS「限界系左翼」という罵り合いがくり広げられたこともそのひとつです。それは、選挙が終わった今もつづいています。
そこにあるのは、吐き気を催すようなきわめて古い政治の風景です。今になればどんなことでも言えますが、やはり、60年代後半の運動(大衆叛乱)を正しく検証していない(する気がなかった)人間たちのお粗末さ、滑稽さが露呈されているように思えてなりません。彼らは、過激派が内ゲバで自滅してざまあみたいな既成左翼の見方をただ無定見に踏襲しているだけです。そんな同病相哀れむような罵り合いに対しては、党派に随伴することでしかみずからの政治的主張を表明することができない不幸と恐怖を考えないわけにはいきません。
私は天邪鬼な人間なので、こういう選挙結果になったら、今度は逆に林前市長の功績を考えてみたくなりました。操り人形でも操り人形なりの功績が何かあったのではないか。そう思ってSNSを見ていたら、横浜市民の方のツイッターで、林市長になってから職員の対応が良くなったのはたしかだというツイートが目にとまりました。もしかしたらこのブログにも書いたかもしれませんが、私も同じことを思いました。それまではホントにひどかったのです。何をしているかわからない職員もいました。ちょうどラスパイレス指数で横浜市の職員の給与が日本一になった頃だと思いますが、私自身横浜に引越したばかりだったので、まだこんな役人天国の世界が残っていたのかとびっくりした覚えがあります。職員の対応が良くなったというのは林市政の数少ない功績のひとつと言えるでしょう。
それからもうひとつ天邪鬼ついでに言えば、任期最後の今月4日の定例記者会見での林前市長の次のような発言にも感心しました。
(略)3期12年にわたり行ってきた定例会見の意義について「市にとって必要な役割。次の市長になる方も記者会見を大切にしてほしい」と述べた。
(略)
「本当に厳しい質問が毎週のようにあった。私自身は行政をやる上での姿勢を果たすとともに、反省する機会にもなった」と振り返った。
(略)
定例会見は厳しく自分を律する場でもあったとして「記者は遠慮せずにぶつけてくれる場であってほしい」と期待した。
Yahoo!ニュース
カナロコ(神奈川新聞)
【横浜市長選】横浜・林市長が任期中最後の会見「次の市長になる方も記者会見を大切に」
少なくとも菅総理や、今の自民党を牛耳る安倍・麻生・二階の三○○大将には間違っても望めない発言でしょう。
その菅総理についてですが、市長選の結果を受けて、政治的に窮地に立ち、自民党内でも「菅降ろし」がはじまるのではないかという見方がいっせいに出ています。しかし、三〇〇大将が牛耳る今の自民党の党内力学はそんな単純でヤワなものではないでしょう。なにより菅総理自身が、そうなればなるほど自他ともに認める鋼のようなメンタルの強さを発揮するはずです。それは、換言すれば厚顔無恥ということですが、政治屋に厚顔無恥なんてことばは通用しないのです。むしろ、厚顔無恥であってこそ政治屋なのです。本人は、「叩き上げだから打たれ強い」という自己に対する迷信をさらに深めて、政治屋の本領を発揮するに違いありません。
菅総理に関しては、下記のプチ鹿島氏の分析がどんな政治評論より的を射ているように思いました。
文春オンライン
《横浜市長選で与党惨敗》「総裁選に勝利して衆院解散に…」とにかく“タフ”な菅首相が“次に期待”し続ける理由
この感染爆発と医療崩壊のなかにあってもなお、「9月12日」という中途半端な緊急事態宣言の期限に見られるように、感染対策より総裁選や解散総選挙のスケジュール(つまり、権力者の都合)が優先されるという政治の末期症状。そこにあるのは、政治家ではなく政治屋の姿です。
横浜市の人事に介入にして「陰の横浜市長」と言われたり、総務省でも意に沿わない官僚を飛ばしたりという、人事権をふりかざして人を支配するその非情さが、コロナ対策にも表れているように思います。
上記のプチ鹿島氏の分析でも触れていますが、朝日の鼎談で、日本学術会議の任命を拒否された加藤陽子氏(東京大教授)は、今の政権が持っている説明責任の欠如について、次のように指摘していました。
加藤 「やはり人事権を握った、官房長官時代からの菅さんと、杉田和博官房副長官のふるまいが大きいと思います。彼らは説明『しない』ことによって、忖度(そんたく)させるという権力の磁場を新たに作った。そういう誤った方向での強い自負があるのではないか」
朝日新聞デジタル
コロナ敗戦から考える「危機の政治」と「政治の危機」
でも、それは中小企業のワンマン経営者などにありがちな裸の王様の手法でしかないのです。言うなれば、中小企業のワンマン経営者が総理大臣をやっているようなものです。
今の菅総理には、自宅に「放置」されひとり死を待つ人々の姿は目に入ってないかのようです。コロナ禍にあっても、コロナ対策より自分の権力の維持が優先される。そんな政治屋が総理大臣になったこの国の不幸を今更ながらに痛感せざるを得ないのです。
関連記事:
政治屋・菅義偉の恐怖支配と”横浜方式”
横浜市政は伏魔殿