髪が伸びてうっとうしくてなりません。床屋に行きたいのですが、感染が怖くて行けないのです。と言うのも、私が行く床屋の主人が感染に関してはまったく無頓着で、髪を切っている間も、マスクもしないで、唾を飛ばしながら大声で喋るので怖くてならないのです。
マスクをして下さいと言うと、「神経質ですなあ、大丈夫ですよ」と千葉真一のようなことを言う始末です。挙げ句の果てには、理容組合も感染対策がうるさいので面倒になって脱退したそうで、私は、その話を聞いて身の毛もよだつ気がしました。当然、お客さんは目に見えて減っています。
じゃあ、行かなければいいじゃないか、他の店に行けばいいだろうと思うかもしれませんが、近所付き合いもあってなかなかそうも行かないのです。急に来なくなったお客が舗道の向こうからやって来て、自分に気付いたら踵を返して来た道を戻って行った、という話をしていましたが、踵を返した人の気持もわかる気がします。
なんだか悪口を書いているようで(たしかに悪口なのですが)気が引けるのですが、特にデルタ株の感染拡大においては、このように”親しき隣人”に対しても、いつの間にか必要以上に警戒して邪険にするようになっている自分がいます。一方で、「正しく怖れる」「自分の身は自分で守る」ためには仕方ないと思ったりもするのですが、そう思うことが悩ましくもあります。
コロナ禍で人間関係がトゲトゲしくなったなどと言われますが、かく言う私も例外ではないのです。と言うか、むしろ自分からそう仕向けているような感じさえあります。
電車に乗っていても、電車のなかの乗客たちのふるまいに、いつも顔をしかめて見ている自分がいます。駅に着きドアが開くと、まだ降りている乗客がいるのももどかしいとばかりに車内に乗り込んできて、空いてる席に突進する乗客。まるで犯人を捜す刑事のように車両の間を渡り歩いて、空いている席を探しまわっている乗客。私は、この手の人間たちを「電車の座席に座ることが人生の目的のような人々」とヤユしてきましたが、こういう人たちに「正しく怖れる」「自分の身は自分で守る」などと言っても、所詮は馬の耳に念仏のように思えるのです。
そんな電車内の光景を見るにつけ、スーパーでレジに並ぶのに間隔を空けるように床にラインが引かれていたり、病院の待合室などでひとりづつ間を空けて座るように座席に✕印が付けられていたりするのは、まるで冗談のように思えてきます。
通勤電車に関しては、「密」ということばは完全に死語になっています。新型コロナウイルスの感染が取り沙汰されてもう20ヶ月が経ちますが、テレワークの推進などというお題目を唱えるだけで、肝心要な通勤電車は相も変わらず放置されたままなのです。
伊勢丹新宿店で7月中旬から8月中旬にかけて150人以上のクラスターが発生したとか、新宿駅東口のルミネエスト新宿店でも59人が感染し臨時休業したというニュースがありましたが、それも元をただせば通勤電車内の感染のように思えてなりません。他のデパートやテナントビルにおいても、伊勢丹やルミネのようにクラスターにまでは至ってないものの、感染者はひきもきらず発生しているのです。しかも、感染している売場は、役所が言うように食品売場に限った話ではないのです。どう考えても、接客で感染したというより、通勤時に電車内で感染したとしか思えないのです。
スマホ中毒みたいな人間たちが、ただスマホを操作するために、少しでも座席に隙があると身体をねじ込んでいる光景も相変わらずです。彼らは感染防止より目の前のSNSのやり取りやゲームの方が大事なようにしか思えません。
私が日常的に使っている電車の沿線にも、若い女性向けの洋服や雑貨の店が軒を並べる有名な商店街がありますが、新型コロナウイルスが発生する前から、その駅で降りる如何にもショップ店員のようなオシャレな女性たちに、スマホ中毒の「電車の座席に座ることが人生の目的のような」タイプの人間が多いと個人的に密かに思っていました。もちろん、それは偏見なので他人には言えなかったのですが、新宿の伊勢丹やルミネのクラスターのニュースを見てやっぱりと思ったのは事実です。
感染の67%が「家庭内感染」だと言われていますが、でも、「家庭内感染」がどこから来ているのか、誰もあきらかにしようとしません。飲食店をやり玉にあげる前に通勤電車をやり玉にあげるべきではないかと思いますが、それはまるでタブーであるかのようです。
保育園の職員が、保育園でいくら感染防止の対策を講じても、お父さんやお母さんが通勤電車で感染してそれを家庭に持ち帰り、園児が感染して(無症状のまま)登園すればこの感染対策は何にもならないのですよ、と言っていましたが、まったくその通りでしょう。デルタ株では、子どもの間でも感染が広がっており、保育園や幼稚園、それに小中学校や高校、学童クラブなどでもクラスターが発生しています。その多くも通勤電車などから持ち込まれた「家庭内感染」が元になっているように思えてならないのです。
職場の感染対策も、建前とは別に、現実は仕事優先でおざなりな場合も多いのです。道を歩いていると、道路の脇に工事用の資材を積んだトラックなどが停まっていて、運転手たちが時間つぶしに立ち話をしている姿を見かけますが、見ると運転手たちはマスクをしてないか、あるいは鼻マスクで、煙草を吹かしながら大声でバカ話をしている場合が多いのです。これだけ新型コロナウイルスの感染が言われ続けてもなお、そういった光景が当たり前のように存在するのです。どうしようもないのは、深夜の繁華街の若者だけではないのです。
デルタ株の感染爆発はもはや他人事ではなく、身近な問題です。近所のスーパーなどでも感染者が次々と出ています。それも、症状が出たり、あるいはPCR検査をしたからあきらかになっただけで、どう考えても、氷山の一角のようにしか思えません。
自治体が発表する新規感染者数は、あくまで検査数に応じた数字にすぎず、市中の実際の感染者数を表すものでないことは誰でもわかります。前から言っているように、欧米並みの検査を行なえば、欧米並みかそれ以上の感染者数が出て来るのは間違いないのです。だからこそ、(それでも感染するかもしれないけど)私たちは今まで以上に「正しく怖れる」「自分のことは自分で守る」必要があるのです。それは、自己責任論や「ファシスト的公共性」云々以前の問題だと思います。
一方で、私たちは、現在、医療崩壊の現実を目の当たりにしています。神奈川県は、医療崩壊を防ぐあたらな医療体制を「神奈川モデル」などと呼んで自画自賛していましたが、既に重症病床のキャパシティは90%を超えています。さらに、「自宅療養者」は1万6千人を超え、検査数が少ないため陽性率も38.67%(8/26現在)という信じられない数字になっているのです。神奈川県でひとり暮らしをする私のような人間は、感染することは恐怖でしかありません。
今更言っても遅いですが、だからコロナ専門の病院が必要だったのです。その時間的な猶予は充分あったはずです。にもかかわらず、少ない検査数で新規感染者数を誤魔化して感染状況を過少に演出し、挙句の果てにはGoToトラベルなる感染を克服したかのような愚策まで演じて、今日のような感染拡大と医療崩壊を招いてしまったのです。
受け入れる病院がなく、自宅で死を待つ人々は明日の自分の姿かも知れません。そのため、凡夫の私たちは、感染の恐怖から疑心暗鬼に囚われ、人間不信を募らせているのでした。他人に優しくあれ、温かい眼差しを向けよと言われても、とてもそんな余裕はありません。むしろ、そんなことばも、みずから墓穴を掘るお人好しのススメのようにしか聞こえないのでした。
マスクをして下さいと言うと、「神経質ですなあ、大丈夫ですよ」と千葉真一のようなことを言う始末です。挙げ句の果てには、理容組合も感染対策がうるさいので面倒になって脱退したそうで、私は、その話を聞いて身の毛もよだつ気がしました。当然、お客さんは目に見えて減っています。
じゃあ、行かなければいいじゃないか、他の店に行けばいいだろうと思うかもしれませんが、近所付き合いもあってなかなかそうも行かないのです。急に来なくなったお客が舗道の向こうからやって来て、自分に気付いたら踵を返して来た道を戻って行った、という話をしていましたが、踵を返した人の気持もわかる気がします。
なんだか悪口を書いているようで(たしかに悪口なのですが)気が引けるのですが、特にデルタ株の感染拡大においては、このように”親しき隣人”に対しても、いつの間にか必要以上に警戒して邪険にするようになっている自分がいます。一方で、「正しく怖れる」「自分の身は自分で守る」ためには仕方ないと思ったりもするのですが、そう思うことが悩ましくもあります。
コロナ禍で人間関係がトゲトゲしくなったなどと言われますが、かく言う私も例外ではないのです。と言うか、むしろ自分からそう仕向けているような感じさえあります。
電車に乗っていても、電車のなかの乗客たちのふるまいに、いつも顔をしかめて見ている自分がいます。駅に着きドアが開くと、まだ降りている乗客がいるのももどかしいとばかりに車内に乗り込んできて、空いてる席に突進する乗客。まるで犯人を捜す刑事のように車両の間を渡り歩いて、空いている席を探しまわっている乗客。私は、この手の人間たちを「電車の座席に座ることが人生の目的のような人々」とヤユしてきましたが、こういう人たちに「正しく怖れる」「自分の身は自分で守る」などと言っても、所詮は馬の耳に念仏のように思えるのです。
そんな電車内の光景を見るにつけ、スーパーでレジに並ぶのに間隔を空けるように床にラインが引かれていたり、病院の待合室などでひとりづつ間を空けて座るように座席に✕印が付けられていたりするのは、まるで冗談のように思えてきます。
通勤電車に関しては、「密」ということばは完全に死語になっています。新型コロナウイルスの感染が取り沙汰されてもう20ヶ月が経ちますが、テレワークの推進などというお題目を唱えるだけで、肝心要な通勤電車は相も変わらず放置されたままなのです。
伊勢丹新宿店で7月中旬から8月中旬にかけて150人以上のクラスターが発生したとか、新宿駅東口のルミネエスト新宿店でも59人が感染し臨時休業したというニュースがありましたが、それも元をただせば通勤電車内の感染のように思えてなりません。他のデパートやテナントビルにおいても、伊勢丹やルミネのようにクラスターにまでは至ってないものの、感染者はひきもきらず発生しているのです。しかも、感染している売場は、役所が言うように食品売場に限った話ではないのです。どう考えても、接客で感染したというより、通勤時に電車内で感染したとしか思えないのです。
スマホ中毒みたいな人間たちが、ただスマホを操作するために、少しでも座席に隙があると身体をねじ込んでいる光景も相変わらずです。彼らは感染防止より目の前のSNSのやり取りやゲームの方が大事なようにしか思えません。
私が日常的に使っている電車の沿線にも、若い女性向けの洋服や雑貨の店が軒を並べる有名な商店街がありますが、新型コロナウイルスが発生する前から、その駅で降りる如何にもショップ店員のようなオシャレな女性たちに、スマホ中毒の「電車の座席に座ることが人生の目的のような」タイプの人間が多いと個人的に密かに思っていました。もちろん、それは偏見なので他人には言えなかったのですが、新宿の伊勢丹やルミネのクラスターのニュースを見てやっぱりと思ったのは事実です。
感染の67%が「家庭内感染」だと言われていますが、でも、「家庭内感染」がどこから来ているのか、誰もあきらかにしようとしません。飲食店をやり玉にあげる前に通勤電車をやり玉にあげるべきではないかと思いますが、それはまるでタブーであるかのようです。
保育園の職員が、保育園でいくら感染防止の対策を講じても、お父さんやお母さんが通勤電車で感染してそれを家庭に持ち帰り、園児が感染して(無症状のまま)登園すればこの感染対策は何にもならないのですよ、と言っていましたが、まったくその通りでしょう。デルタ株では、子どもの間でも感染が広がっており、保育園や幼稚園、それに小中学校や高校、学童クラブなどでもクラスターが発生しています。その多くも通勤電車などから持ち込まれた「家庭内感染」が元になっているように思えてならないのです。
職場の感染対策も、建前とは別に、現実は仕事優先でおざなりな場合も多いのです。道を歩いていると、道路の脇に工事用の資材を積んだトラックなどが停まっていて、運転手たちが時間つぶしに立ち話をしている姿を見かけますが、見ると運転手たちはマスクをしてないか、あるいは鼻マスクで、煙草を吹かしながら大声でバカ話をしている場合が多いのです。これだけ新型コロナウイルスの感染が言われ続けてもなお、そういった光景が当たり前のように存在するのです。どうしようもないのは、深夜の繁華街の若者だけではないのです。
デルタ株の感染爆発はもはや他人事ではなく、身近な問題です。近所のスーパーなどでも感染者が次々と出ています。それも、症状が出たり、あるいはPCR検査をしたからあきらかになっただけで、どう考えても、氷山の一角のようにしか思えません。
自治体が発表する新規感染者数は、あくまで検査数に応じた数字にすぎず、市中の実際の感染者数を表すものでないことは誰でもわかります。前から言っているように、欧米並みの検査を行なえば、欧米並みかそれ以上の感染者数が出て来るのは間違いないのです。だからこそ、(それでも感染するかもしれないけど)私たちは今まで以上に「正しく怖れる」「自分のことは自分で守る」必要があるのです。それは、自己責任論や「ファシスト的公共性」云々以前の問題だと思います。
一方で、私たちは、現在、医療崩壊の現実を目の当たりにしています。神奈川県は、医療崩壊を防ぐあたらな医療体制を「神奈川モデル」などと呼んで自画自賛していましたが、既に重症病床のキャパシティは90%を超えています。さらに、「自宅療養者」は1万6千人を超え、検査数が少ないため陽性率も38.67%(8/26現在)という信じられない数字になっているのです。神奈川県でひとり暮らしをする私のような人間は、感染することは恐怖でしかありません。
今更言っても遅いですが、だからコロナ専門の病院が必要だったのです。その時間的な猶予は充分あったはずです。にもかかわらず、少ない検査数で新規感染者数を誤魔化して感染状況を過少に演出し、挙句の果てにはGoToトラベルなる感染を克服したかのような愚策まで演じて、今日のような感染拡大と医療崩壊を招いてしまったのです。
受け入れる病院がなく、自宅で死を待つ人々は明日の自分の姿かも知れません。そのため、凡夫の私たちは、感染の恐怖から疑心暗鬼に囚われ、人間不信を募らせているのでした。他人に優しくあれ、温かい眼差しを向けよと言われても、とてもそんな余裕はありません。むしろ、そんなことばも、みずから墓穴を掘るお人好しのススメのようにしか聞こえないのでした。