山に行けないということもあって、青空文庫で加藤文太郎の『単独行』を再び読んでいます。

加藤文太郎が初めて北アルプスに登ったのは、今から95年前の大正15年7月、21歳のときでした。Wikipediaには「1923年(大正12年)頃から本格的な登山を始める」と書いていますので、登山歴はまだ3年くらいです。尚、その2年前には、「神戸の三菱内燃機製作所(三菱重工業の前身)」に勤務しながら、兵庫県立工業学校の夜間部を卒業しています。

Wikipedia
加藤文太郎

7月25日の日曜日の早朝、長野県大糸線の有明駅に着いた加藤文太郎は、徒歩で5時間以上かけて登山口にある中房温泉に向います。そして、中房温泉でひと風呂浴びて昼食を食べたあと、たぶん今と同じ登山道だと思いますが、燕岳へ向けて歩き始めたのでした。

当時、登山は大変お金のかかる贅沢なスポーツで、ハイカーの大半は経済的にも恵まれたインテリ層でした。そんななかで、末端の工場労働者にすぎなかった加藤文太郎は異色の存在だったのです。しかも、今のように詳細な登山地図もなかったので、多くはパーティを組み山に精通している地元の人間にガイド(道案内)を頼んで登るのが一般的でした。そんななか、加藤はガイドもなくひとりで北アルプスや南アルプスなどの山を登攀したのでした。そのため、『単独行』を読むと、常に道に迷い、今で言う”プチ遭難”みたいなことをくり返しながら登っていることがわかります。日没になると、行き合わせた作業小屋に泊まったり、あるいは野宿をしながら山行を続けていました。当時はヘッドランプもなかったので、暗くなると提灯を提げて歩いています。しかも、夜9時頃まで山中を彷徨うこともめずらしくありません。

初めての北アルプスは、7月25日から8月4日まで11日間に渡りました。燕岳に登ったあと、翌日には表銀座を縦走して大天井岳に登り、さらに東鎌尾根を経て槍ヶ岳に登っています。既に当時から、燕岳から槍に至る縦走路が「アルプス銀座通り」と呼ばれていたことがわかります。殺生小屋(今の殺生ヒュッテ)に宿泊したあと、南岳から北穂高に至る大キレットを通り、北穂に登頂。そのあとたまたま見つけた無人小屋に泊まり、翌日奥穂高岳にも登っています。奥穂からはさらに前穂高岳にも登り、途中の雪渓に苦労して道に迷い野宿しながら上高地に下りています。そのときのことを加藤は次のように書いていました。

途中道瞭らかならず偃松等をわけ、あるいは水の流れるところ等を下る、なかなかはかどらず。 されば谷を下ればよしと思い雪渓に出ずれば非常に急にして恐ろし、尻を着けアイスピッケルを股いで滑れば、はっと思う間に非常な速度にて滑り出し、止めんとすれども止らず、アイスピッケルにて頭等を打ち、途中投出され等して数町を下りたり。 そのときもう駄目なりという気起り気遠くなる思いなり。岩にぶつかるならんと思い少し梶をとりようやくスロープ緩きところに止り幸いなりき、あやうく 命拾いしたり。それよりアイスピッケルを取りに行く困難言葉に表わされず、小石を拾いてそれにて足場を作り一歩一歩進む。
(略)
かかる困難をせざりしならむにこれもまた後日のためならむか。経験得るところ多し。これらすべて実に偉大なる恐るべき山なり。穂高は実にアルプスの王なりとしみじみ感ぜり、神の力に縋らずして命を全うすることを得ざるなり、有難く感謝せり。


加藤が凄いのは、そのあとです。上高地に下りたあと、平湯(温泉)から安房峠を徒歩で越えて乗鞍岳に登り、さらに御嶽山から木曽駒ヶ岳、宝剣岳、空木岳まで登っているのです。もちろん、今のように安房トンネルもありませんし、乗鞍スカイラインや駒ヶ岳ロープウェイなどあろうはずもありません。特に空木岳はきつかったみたいで、「道なきを進み疲れはてて九時頃山中へ一泊」と書いていました。

余談ですが、「北アルプス 初登山」の日記を読むと、登山が大衆化する前とは言え、一方で今と変わらない登山風景があったことがわかります。燕岳の登山道では、「途中女学生の一隊多数下山するに逢う」と書いていました。ただ、当然ながら今のようなおばさん軍団はいません。

北アルプス 初登山

  A 大正十五年七月二十五日(日曜日)晴れ
  午前六時三十五分有明駅着、 少し休む。自動車あれども人多く自分は徒歩にて出発、自動道なれば道よし、有明温泉を経て川を遡る。名古屋の人(高商生) と一緒に行く。アルプス山間たる価値ありき、中房温泉着約十二時、名古屋内燃機の人四人(加藤という人もありき)と逢えり、温泉に入浴昼食をとり一時中房温泉発、急なる登りなり、四時半燕小屋着、途中女学生の一隊多数下山するに逢う。サイダーを飲み高い金を払う。軽装(ルックザックを置き)にて燕頂上へ五時着、三角点にて万歳三唱せり。途中立山連峰、白馬、鹿島槍を見、鷲羽連峰等飛んで行けそうなるほど近くはっきりと見え心躍る、燕小屋へ引返し午後六時泊、槍は雲かかりて頂上見えず。

  二十六日(月曜日)晴後雨
  燕小屋午前六時出発、この路アルプス銀座通りといい非常に景色よく道も良し、今朝の御来迎は相当よく富士などはっきり見え槍も見ゆ。大天井岳の前にて常念道、喜作新道の岐れ道あり、そこにルックザックを置き、大天井頂上を極む。三角点にて万歳三唱、豪壮なる穂高連峰、谷という谷に雪を一杯つめ、 毅然とそびえたるを見、感慨無量なり、もとの道に引返しルックザックをかつぎ喜作新道を進む。右高瀬川の谷を眺め、眺望よきこと言語に絶す。この辺の景色北アルプス第一ならむ。西岳小屋にて休み焼印を押し、昼食をなす。途中広島の人(東京の学校にいる)東京の人(官吏)と三人となり十一時半頃出発、途中にて人々に別れ、一人にて道を行く、殺生小屋着二時半、途中大槍小屋に行く道ありて、その辺より雨降り出す。雨を冒して槍の頂上へ出発、ルックザックは小屋に置き、急なる道を進み、四、五十分にて槍肩を経て頂上着、祠あり名刺を置き三角点にて万歳三唱、一時間くらい霧の晴れるを待つ、ときどき 天上沢、槍平方面の見えるのみ、下山、殺生小屋泊、人の多きことに驚けり。


こんなことを言うと顰蹙を買うかもしれませんが、登山をする者にとって、山中を彷徨うというのはどこか冒険心をくすぐられるものがあります。ソロのハイカーが遭難すると、世間からは非難轟々で、山に登らない人間たちからは捜索のヘリを出すのさえ税金の無駄使いだみたいに言われるのが常ですが(そもそも山岳遭難を報じる記事が、そういった非難を前提にするようなパターン化されたものになっているのです)、でも、なかには加藤と同じような山中を彷徨うことに冒険心をくすぐられバリエーションルートに入った者もいるのではないかと思ったりもするのです。山にはそんな魔力みたいなものがあるのです。

加藤文太郎の山行には、紙の地図どころかGPSの地図アプリが欠かせないアイテムになっていて、道を逸れると警告のアナウンスが流れたり、下山すると家族にもメールで連絡が行ったりするような(それどころか、今どこを歩いているか、リアルタイムに現在地を家族と共有できるサービスさえあります)、便利なシステムに管理された今の登山にはない、自分のスキルと体力をフルに使って山に登るという、言うなれば原初的な山登りの姿があるのです。加藤文太郎がいつの時代もハイカーのヒーローでありつづける理由がわかるような気がします。

最終日、加藤は次のように日記を締めくくっていました。

  四日(水曜日)曇
  早朝起き川原に出でんと下れば途中道あり、それを進む、川の左岸のみを行きて川原に出で尾根へ取付きなどしてなかなか苦しき道なり、ようやく小日向の小屋に出で見れば道標あり、自分の下りし道の他に本道とてよき道あり、本道を通らばかかる困難はせざりしに、これよりは道よく道標ありて迷うことなく 九時半飯島駅着、十時の電車にて辰野へ、中央線にて塩尻を経て名古屋へ、東海道線にて神戸へ無事五日午前一時着せり、同二時床につく。痛快言わん方なかりき。かかる大コースも神の力をかりて無事予定以上の好結果を得しはまことに幸いなり、神に感謝せり。ああ思いめぐらすものすべて感慨無量なり。


床に入ったものの、11日間の大冒険を終えた興奮になかなか眠れず、何度も寝返りを打っている加藤の姿が目に浮かぶようです。
2021.10.15 Fri l 山行 l top ▲