中国のテニス選手・彭帥(ほうすい)さんをめぐる騒動について、外交評論家の宮家邦彦氏が、時事通信に示唆に富んだ解説記事を書いていました。(この記事はYahoo!ニュースにも転載されています)
時事ドットコムニュース
中国女子テニス選手、彭帥さんをめぐる騒動の本質【コメントライナー】
宮家氏が記事の中で紹介していた彭帥さんの「告白」の概要は次のようなものです。
宮家氏が書いているように、「告白」の中では「『関係を強要された』とは言っていない」のです。しかし、いつの間にか「関係を強要された」話になり、それが独り歩きしているのでした。むしろ、宮家氏も書いているように、「身勝手な相手に捨てられた鬱憤(うっぷん)から自暴自棄になり」告白文を書いて投稿したように見えます。
しかし、告白文は、中国共産党内の権力闘争のみならず中国をめぐる外交問題にまで発展し、北京五輪の「外交的ボイコット」まで話が進んでいるのでした。もっとも最近は、「外交的ボイケット」の理由に新疆ウイグル自治区の人権侵害を上げていますので、まずボイコットありきで理由は二の次みたいな感じもあるのですが、いづれにしても、アメリカのバイデン政権が彭帥さんの「告白」をことさら政治問題化して大きくしたのは間違いないでしょう。
とは言え一方で、今回の騒動に、一党独裁国家である中国社会の暗部が露呈されていることもまた、たしかです。共産党の権力や権威を絶対視する事大主義的な社会の中で、一人の女性の人生が翻弄されたのはまぎれもない事実で、それをどう解釈するかでしょう。もっとわかりやすく言えば、今回の騒動は、共産党の地方幹部が党の権威を利用して、親元を離れてテニスの英才教育を受けている少女と性的な関係を持ち、その後、中央政府の要職に就いてからも彼女の身体と心を弄んだという話なのです。
宮家氏は、騒動の本質について、次のように書いていました。
党の腐敗と言えばそのとおりですが、私たちが政治を見る場合、こういった個人的な視点から見ることも大事なように思います。吉本隆明は「政治なんてない」と言ったのですが、言うまでもなく私たちの人生にとって、政治は二義的なものにすぎないのです。
私もこのブログで、床屋政談とも言うべき軽佻浮薄な記事を書いていますので、偉そうなことを言う資格はないのですが、政治が一番と考えるような見方では、本来見るべきものも見えなくなるような気がします。それは眞子さんの問題にも言えることでしょう。
たまたま堤未果氏の『デジタル・ファシズム』(NHK出版新書)という本を読んでいるのですが、同書を読むと、デジタル先進国の中国では、政府が最先端のデジタル技術を使って人民の生活の隅々にまで入り込み、そうやって取得した個人情報を共産党が一元管理して人民を監視し支配する、文字通りのディストピアみたいな社会になっていることがよくわかります。独裁的な政治権力とGoogleがかつて(Web2.0で)バラ色の未来のように自画自賛したデジタル技術が結び付くと、とんでもない監視社会が訪れるという好例でしょう。その意味では政治と無縁とは言えないのかもしれません。しかし、だからと言って、私たちの人生は(政治に翻弄されることがあっても)政治が全てではないのです。それだけは強調する必要があります。くり返しになりますが、坂口安吾が言うように、人間というのは政治の粗い網の目から零れ落ちる存在なのです。だから希望があるのです。もとよりバイデンだって、政治に翻弄された彭帥さんの「悲しい境遇」を慮って中国政府を批判しているわけではないのです。どっちがホントなのか、どっちに正義があるのかなんてまったくナンセンスな話です。
今回の騒動についても、アメリカ中国双方の政治的プロパガンダに動員されるのではない、私たち自身の日常感覚に基づいた冷静な視点を持つことが何より大事だと言いたいです。
時事ドットコムニュース
中国女子テニス選手、彭帥さんをめぐる騒動の本質【コメントライナー】
宮家氏が記事の中で紹介していた彭帥さんの「告白」の概要は次のようなものです。
「私は良い女の子ではない、悪い悪い女の子だ。あなたは私を自分の部屋に引き入れ、十数年前と同様、私と性的関係を結んだ。あなたは共産党常務委員に昇進し、北京へ行き、私との連絡を一度絶ったのに、なぜ再び私を探し、私に関係を迫ったのか? 感情とは複雑で、うまく言えない。あの日から私はあなたへの愛を再開した。…あなたはとてもとても良い人だった。私は小さい頃から家を離れ、内心極度に愛情に飢えていた。…あなたは私に2人の関係を秘匿させた。関係は終わったが、私にはこの3年間の感情を捨て去る場所がない。私は自滅する覚悟であなたとの事実を明かすことにした」
宮家氏が書いているように、「告白」の中では「『関係を強要された』とは言っていない」のです。しかし、いつの間にか「関係を強要された」話になり、それが独り歩きしているのでした。むしろ、宮家氏も書いているように、「身勝手な相手に捨てられた鬱憤(うっぷん)から自暴自棄になり」告白文を書いて投稿したように見えます。
しかし、告白文は、中国共産党内の権力闘争のみならず中国をめぐる外交問題にまで発展し、北京五輪の「外交的ボイコット」まで話が進んでいるのでした。もっとも最近は、「外交的ボイケット」の理由に新疆ウイグル自治区の人権侵害を上げていますので、まずボイコットありきで理由は二の次みたいな感じもあるのですが、いづれにしても、アメリカのバイデン政権が彭帥さんの「告白」をことさら政治問題化して大きくしたのは間違いないでしょう。
とは言え一方で、今回の騒動に、一党独裁国家である中国社会の暗部が露呈されていることもまた、たしかです。共産党の権力や権威を絶対視する事大主義的な社会の中で、一人の女性の人生が翻弄されたのはまぎれもない事実で、それをどう解釈するかでしょう。もっとわかりやすく言えば、今回の騒動は、共産党の地方幹部が党の権威を利用して、親元を離れてテニスの英才教育を受けている少女と性的な関係を持ち、その後、中央政府の要職に就いてからも彼女の身体と心を弄んだという話なのです。
宮家氏は、騒動の本質について、次のように書いていました。
筆者には、森羅万象が政治的意味を持つ中国で、幼少からテニス一筋で厳しく育てられ、親の愛情を知らないまま成功を収めたものの、時の権力者に翻弄(ほんろう)された「天才テニス少女」の半生が哀れでならない。
今ごろ、彭帥さんがどこで何をしているかは知る由もない。が、今後彼女が自由に自らの心情を語ることは二度とないだろう。
あまりにゆがんだ中国社会は、彼女ほど有名ではないが、彼女と同じような悲しい境遇を生きる人々を毎日生みつつある。これこそが、彭帥騒動の本質ではないか。
党の腐敗と言えばそのとおりですが、私たちが政治を見る場合、こういった個人的な視点から見ることも大事なように思います。吉本隆明は「政治なんてない」と言ったのですが、言うまでもなく私たちの人生にとって、政治は二義的なものにすぎないのです。
私もこのブログで、床屋政談とも言うべき軽佻浮薄な記事を書いていますので、偉そうなことを言う資格はないのですが、政治が一番と考えるような見方では、本来見るべきものも見えなくなるような気がします。それは眞子さんの問題にも言えることでしょう。
たまたま堤未果氏の『デジタル・ファシズム』(NHK出版新書)という本を読んでいるのですが、同書を読むと、デジタル先進国の中国では、政府が最先端のデジタル技術を使って人民の生活の隅々にまで入り込み、そうやって取得した個人情報を共産党が一元管理して人民を監視し支配する、文字通りのディストピアみたいな社会になっていることがよくわかります。独裁的な政治権力とGoogleがかつて(Web2.0で)バラ色の未来のように自画自賛したデジタル技術が結び付くと、とんでもない監視社会が訪れるという好例でしょう。その意味では政治と無縁とは言えないのかもしれません。しかし、だからと言って、私たちの人生は(政治に翻弄されることがあっても)政治が全てではないのです。それだけは強調する必要があります。くり返しになりますが、坂口安吾が言うように、人間というのは政治の粗い網の目から零れ落ちる存在なのです。だから希望があるのです。もとよりバイデンだって、政治に翻弄された彭帥さんの「悲しい境遇」を慮って中国政府を批判しているわけではないのです。どっちがホントなのか、どっちに正義があるのかなんてまったくナンセンスな話です。
今回の騒動についても、アメリカ中国双方の政治的プロパガンダに動員されるのではない、私たち自身の日常感覚に基づいた冷静な視点を持つことが何より大事だと言いたいです。