日大闘争と全共闘運動


ついにと言うべきか、東京板橋区にある日大医学部付属病院の建て替えをめぐる背任事件に関連して、日大の田中英寿理事長が東京地検特捜部に所得税法違反容疑で逮捕されました。

田中理事長が、大学やその関連施設に出入りする業者の窓口として、大学が100%出資した「株式会社日本大学事業部」を作ったのは2010年です。以後、出入り業者は取引きする際に「日本大学事業部」を通さなければならなくなり、業者の選定も「日本大学事業部」がやるようになったそうです。司直の手が伸びたと言えば聞こえはいいですが、このようにやっていることがあまりに露骨で、政界や闇社会との関係も取り沙汰されていたので、「巨悪は眠らせない」(という架空のイメージがメディアによって付与された)東京地検特捜部に目を付けられ、ターゲットになったというのが真相でしょう。

所得税約5300万円を脱税したとして逮捕されたのが11月29日で、その2日後の12月1日に日大の臨時理事会は、本人の申し出もあって、田中氏の理事長解任を決定したのでした。

これによって、「アマチュア相撲の学生横綱から、大学職員、理事、常務理事となり、2008年に理事長就任。5期13年にわたり、権限の集約と側近重用で築き上げた『「田中王国』が崩壊、ついに終焉の時を迎えた」(FRIDAY DIGITAL)のです。

私は、このニュースを聞いたとき、(私自身は下の世代なので直接には知りませんが)、1968年から1970年にかけて戦われた日大闘争を思い起こしました。

田中前理事長の存在はもちろんですが、理事長や理事たちが大学を私物化した今回の事件も、日大闘争が道半ばでやり残した問題が露呈している気がしてなりません。

日大闘争との関連を報じたのは、私が知る限りJBpressというネットメディアだけです。朝日などは、田中前理事長とカルロス・ゴーンの共通点なるトンチンカンな記事を書いてお茶を濁しているあり様でした。

JBpressのタイトルと記事の内容は次のようなものです。

JBpress
日大全共闘と敵対、学生用心棒からドンにのし上がった田中英壽

   日大闘争は1968年の4月に始まった。発端は理工学部教授による裏口入学の斡旋だ。動いた金は3000万円。それだけではなかった。さらに調べによると大学当局にも22億円という巨額の使途不明金が見つかった。大学のあり方自体が問われる問題だった。学問の場という知的環境が金まみれになっていたのだ。大学上層部がカネ絡みのスキャンダルの張本人だったという点を見れば、今回の田中英壽、井ノ口忠男の事件と何も変わらない。
(JBpress同上記事)


「国家権力である機動隊は治安維持のプロだから強いのは当たり前だけど、それとは別に日大にはプロのヤクザのような集団がいたな」

  とOB達は振り返る。

  その集団とは“関東軍”と呼ばれる柔道部や相撲部、空手部などの体育会系の学生とそのOBで日大や系列校の職員による集団で、300人くらいが日本刃やハンマーを持って学生に襲いかかってきたのだ。現場ではまさに血の雨が降った。その大学お抱え“関東軍”を率いていたのが日大相撲部で学生横綱にもなった前理事長の田中英壽(74)だ。68年当時は経済学部の4年生だった。
(同上)


また、全共闘の元学生たちの証言をまとめた『日大闘争と全共闘運動』(三橋俊明編・彩流社)の巻末にある「日大闘争略年表」には、次のような記述がありました。

1970年(昭和45年)
二・二五
京王線武蔵野台駅付近でビラ配布中、右翼暴力学生集団に襲撃され日大全共闘商闘委の中村克己さんが重傷。襲われた二九名が逮捕され、一名が起訴。襲撃した右翼学生は後日逮捕されるが、全員が不起訴。

三・二
入院加療中の中村克己さんが永眠。(略)


当時の日大は「ポン大」と呼ばれ、受験のランクもおせいじにも高いとは言えませんでした。大学進学率が15%を超え、「大学の大衆化」が言われ始めた頃だったのですが、日大は文字通りそれを象徴するようなマンモス大学だったのです。しかも、学内は大学側と一体化した体育会系の右翼学生が支配し、「学生運動のない大学」を謳い文句に、集会やデモなどとても考えられないほど厳しい管理下におかれていたのです。そのため、日大闘争は、同時期に戦われた東大闘争などとはまったく異なり、「マルクスも読んだことがない」非エリート学生たちの身体を張った命がけの闘争と言われたのです。

1968年に神田の三崎町で日大生が200メートルのデモをしたのも「画期的」と言われました。それこそデモをするのも命がけだったのです。それは、日大全共闘が掲げた「①経理の全面公開、②全理事の総退陣、③検閲制度の撤廃、④集会の自由を認めろ、⑤不当処分の撤回」の5大スローガンにもよく表われています。日大全共闘は、これを「民主化要求闘争」と呼んでいたそうです(『日大闘争と全共闘運動』より)。

『日大闘争と全共闘運動』は、冒頭、次のような文章で始まっていました。

   1968年五月、日本大学で「使途不明金」に端を発した日大闘争が沸騰しました。
   東京国税局の監査で日本大学の経理に約二〇億円にも及ぶ使途不明金が判明した新聞記事とともに、不正に抗議する学生たちが集会を開いたとニュースが報じました。
  五月二三日、大学当局に抗議する日大生たちによって「栄光のニ〇〇メートルデモ」が起こります。この日のデモをきっかけに、日本大学の本部と法学部・経済学部の校舎が建つ神田三崎町界隈の路上で、大学当局の不正と不当な教育体制に異議を申し立てる抗議デモが毎日のように繰りかえされました。
  五月二七日、大学校舎の前を通る白山通りの路上で、日本大学全学共闘会議(日大全共闘)の結成が宣言されます。日大全共闘は大学に対し大衆団交による話し合いを要求し、各学部に結成された闘争委員会とともに五月三一日に全学総決起大会を開催しました。
  六月一一日、連日にわたって要求してきた大衆団交を実現しようと、経済学部一号館前での全学総決起集会が呼びかけられます。ところが、集会に参加しようと集まった多くの一般学生たちに向かって、体育会系学生や右翼が大学校舎の階上からガラス瓶や鉄製のゴミ箱などを無差別に投げつける暴行を加えたためけが人が続出します。暴力による弾圧に怒った学生たちは法学部三号館へと移動して校舎をバリケード封鎖し、この日から日大闘争はバリケードストライキ闘争へと一気に突入していったのでした。
(「まえがき」より)


身体を張った熾烈な闘争を担う日大全共闘に対しては、変な話ですがファンも多く、日大全共闘の議長だった秋田明大氏は「アキタメイダイ」と呼ばれてカリスマ的な人気を博していました。

同書では、今は故郷の瀬戸内海の島で自動車整備業を営んでいる秋田明大氏のインタビューも掲載されており、その中で秋田氏は、1967年の経済学部学生会が主催した羽仁五郎の講演会が右翼学生に襲撃されるのを目の前で見て、大学に対して怒りを覚えたと述懐していました。

(略)そりゃ、めちゃくちゃでしたよ。二〇人ぐらいの学生を黒い学ランを着た応援団や右翼の連中が大勢やってきて、会場の大講堂で講演を妨害したうえものすごい暴力を振るったんだよね。


日大闘争は、「アウシュビッツ体制」と言われた学内の暴力との死闘の歴史でもあったのです。YouTubeに上げられている「日大全共闘映画班」が制作した当時の記録映画で、火炎瓶を使うかどうかバリケードの中で激しい議論をしているシーンがありますが、その際、具体的に組の名前を上げて、ヤクザがピストルと日本刀を持って学生に襲いかかって来るのだから、防衛的に使用するのはやむを得ないと主張している学生がいました。日大闘争にはホンモノのヤクザも介入していたのです。それが日大闘争の特殊性でもあったのです。闘争では1600余名の逮捕者と、数は不明ですが相当数の学生に退学(除籍)処分が下されたと言われています。

そんな中、JBpressの記事で「あの田中は学生に向かって建物の上から砲丸投げの球を投げ落したんだ」とOBが証言しているように、田中英寿は「関東軍」を率いてスト破りをした功績が認められ、大学職員として大学に残り、のちに学内に恐怖政治を敷いて絶対的な地位を手にするのでした。

もっとも田中前理事長が権勢を誇ったのも、100万人の会員を擁する同窓会組織「校友会」の支持があったからだと言われています。昔、日大は「右翼の巣窟」と言われていましたが、これでは日大そのものがヤクザまがいの暴力支配を許容するような歪んだ体質を持っている学校だと言われても仕方ないでしょう。実際に、過去には田中元理事長が広域暴力団の会長や組長と写った写真も表に出ているのでした。

今の日大もおそらく集会やデモなど考えられないほど厳しい管理下にあるに違いありません。秋田明大氏は見て見ぬふりはできなかったと言ってましたが、それが今の学生たちと根本的に違うところのように思います。「今の学生(若者)は優しい」という声をよく耳にしますが、それはヘタレだからそう見えるだけで、むしろ見て見ぬふりをする方が賢い、正義感なんて損(貧乏くじを引くだけ)みたいな損得勘定が先に立つのが特徴のような気がします。そのため、SNSなどに見られるように、斜に構えて揚げ足取りをすることだけは長けているのです。今回の不祥事に対しても、「そうしたお金があるなら、学費を安くしてほしい」などと間の抜けた発言をするのが関の山です。

日大闘争はまだ終わってなかったのです。ただ、不正に立ち向かう学生がいなくなっただけです。


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