
2月24日、ロシアがウクライナに侵攻しました。それも当初の予想とは違って、首都のキエフの制圧を目指す大規模なものになりました。つまり、プーチンはウクライナ全土を支配下におく侵略戦争に舵を切ったのです。
今回のウクライナ侵攻に対して、アメリカは積極的に情報公開を行なってきました。そのなかには軍事機密まで含まれており、それは今までの戦争にはなかったアメリカの変化だと言われています。
でも、それは、もう自分には介入する気持も力もないので、同盟国に「みんなで一緒に抗議しましょう」と呼びかけているようにしか見えませんでした。そこにあるのは、超大国の座から転落した惨めなアメリカの姿です。それが老いぼれたバイデンの姿と二重映しになっているのでした。
今回のウクライナ侵攻が衝撃だったのは、核を振りかざす狂気の指導者の前には世界は無力だという冷厳な事実です。核戦争を怖れて誰も手出しができないという核の世界の現実です。
ロシア軍が真っ先にチェルノブイリの原発を制圧したのは、キエフに攻め入る近道であるという理由以外に、プーチンが再三口にしていた核兵器使用の脅しと同様、いざとなれば石棺で閉じ込められている放射性物質を拡散することもできるんだぞという脅しの意味合いもあるように思えてなりません。
バイデンは「ロシアのプーチン大統領は、破滅的な人命の損失をもたらす戦争を選んだ」と言ったそうですが、それはアメリカも同じでしょう。アメリカは今まで何度「破滅的な人命の損失をもたらす戦争を選んだ」んだ?と皮肉を言いたくなりました。しかも、バイデンはウクライナから8千キロ離れたワシントンで、まるで評論家のように、そう論評(!)するだけなのです。
経済制裁も多分に後付けで腰が引けたものです。現在言われている制裁ではどれだけ効果があるか疑問です。侵攻前の制裁でロシアの銀行の資産を凍結すると発表しましたが、制裁の対象になった銀行はロシアでは3番目とか4番目の規模の銀行に過ぎないそうです。1番目や2番目の銀行は侵攻したあとのカードとして残すということだったのかもしれませんが、それって侵攻するのを待っていたようにしか思えません。
ここにきて、制裁の目玉であると言われているSWIFT(国際決済ネットワーク)からロシアの銀行を排除する措置を欧米が検討しはじめたというニュースがありましたが、侵攻して市民の犠牲者が出たあとでは遅きに失した感を抱かざるを得ません。しかも、あくまで「一部の銀行」に限った話で、全ての銀行を対象にするものではないのです。ヨーロッパ(特にドイツやイタリア)にとって、ロシアは天然ガスの重要な輸出国(供給元)なので、ロシアの金融機関をSWIFTから完全に排除することにためらいがあるのでしょう。つまり、ここに至ってもなお、数万人の無辜の民の命より国家や資本の論理を優先する考え方から自由になれないのです。新型コロナウイルスでは自国民の命を守るために各国はロックダウンを行いましたが、それに比べると、ウクライナの国民の命はそんなに軽いものなのかと思ってしまいます。
ロシア軍は48時間以内に侵攻する。ロシア軍はミサイルを160発使用した。ロシア軍はキエフ近郊の空港を制圧した。アメリカ政府はそうやってメディアのように戦火の拡大を発表するだけで、完全に傍観者に徹しているのでした。でも、裏を返せば、それはウクライナを見殺しにするということでもあります。
ウクライナのゼレンスキー大統領は、世界に向けた演説で「ウクライナは一人で戦っている。世界で一番強い国は遠くから見ているだけだ」と言ってましたが、たしかにバイデンの(口先だけの)大仰なロシア非難とは裏腹に、欧米各国の冷淡さとウクライナの孤立無援な姿が目に付きます。そんな所詮は他人事と見殺しにされたウクライナを見ると、やり場のない怒りとやりきれなさと理不尽さを覚えてなりません。今回の侵攻では、20世紀の世界を”正義の価値”として牽引してきた欧米式のデモクラシーの欺瞞性も同時に露呈されているのです。アメリカやEUの信用はガタ落ちになっており、国際的な地位の下落はまぬがれないでしょう。
侵攻に関して、下記のような記事がありました。
Yahoo!ニュース
wowkorea
ウクライナ外相「米国の安保を信じて28年間 “核放棄”してきた」…「代価を払え」
クレバ外相は22日(現地時間)米フォックス放送に出演し「当時ウクライナが、核放棄の決定をしたのは失敗だったのか」という質問に、先のように答えた。 クレバ外相は「過去を振り返りたくはない。過去に戻ることはできない」と即答を避けた。 しかしその後「当時もし米国が、ロシアとともにウクライナの核兵器を奪わなかったら、より賢明な決定を下すことができただろう」と語った。
(略)
クレバ外相は同日、CNNでも「1994年、ウクライナの “核放棄”のかわりに、米国が交わした安全保障の約束を守らなければならない」と求めた。 クレバ外相は「1994年ウクライナは、世界3位規模の核兵器を放棄した。我々は特に米国が提示した安全保障を代価として、核兵器を放棄したのだ」と主張した。
アメリカが唯一の超大国の座から転落した現在、アメリカの核の傘にもう頼ることはできない。ロシアを見てもわかるように、核を保有することは国際政治で大きな力を持つことになる。自衛のための核保有は必要だ。今後、そういう考えが世界を覆うのは間違いないでしょう。これこそが従来の秩序が崩壊し世界が多極化したあとに必然的に立ち現れる、国際政治の末期的な光景です。
日本でも、中国や北朝鮮の脅威から自国を守るためにはアメリカの核の傘に頼っていてはダメだ、核の保有も選択肢に入れるべきだという声が大きくなるに違いありません。
今回のロシアの侵攻に対して、「ベネズエラのマドゥロ、キューバのディアスカネル両政権は22日、(略)ロシアのプーチン大統領の立場に相次いで支持を表明した」(時事ドットコムニュース)そうです。反米左派政権の両国は米国から厳しい経済制裁を受けており、軍事と経済の両面でロシアへの依存を強めているからだそうですが、こういったところにもロシア・マルクス主義の末路が示されているように思います。「国家社会主義ドイツ労働者党」という党名を名乗ったナチスとどう違うのか、私には理解の外です。
最新のニュースではロシア軍がキエフに迫っているそうで、予備役も招集したウクライナ軍との間で市街戦の可能性も高まってきました。5万人の犠牲者が出るという話も俄かに現実味を帯びてきました。
そんななかで、個人的にささやかな希望として目に止まったのは、ロシア国内の反戦デモのニュースです。ロシア各地で反戦デモが行なわれ1700人超が拘束されたそうです。ロシア政府は、いかなる抗議活動も犯罪行為として収監すると表明しており、そのなかで人々は街頭に出て「戦争反対」の声を上げているのです。
私は、ロシア国内の反戦デモに、ロシア革命の黎明期にボリシェヴィキ政府に反旗を翻したクロンシュタットの叛乱さえ夢想しました。革命の変質に憤ったクロンシュタットの水兵たちは、レーニンやトロッキーを革命の裏切者として指弾して蜂起し、鎮圧するために派兵された革命軍=赤軍と二度に渡る戦闘を繰り広げたのでした。叛乱に対して弾圧を指示する党の最高責任者はトロッキーでした。のちに党内の権力闘争に破れて国外に逃亡したトロッキーは、ノルウェー亡命中にかの『裏切られた革命』(岩波文庫)を書いてスターリン体制(主義)を批判。とりわけ世界の若いコミュニストたちに多大な影響を与え、日本でも革命的左翼を自称する新左翼の活動家たちから反スターリン主義の象徴として思想的に神格化されるようになったのでした。しかし、既に革命の黎明期において、トロッキーはクロンシュタットの水兵たちによって、裏切られた革命の当事者として指弾されていたのです。
私が夢想したのは、ロシア軍のなかで、反戦デモに呼応してプーチンに反旗を翻す兵士が出現することです。もしかしたら、それが千丈の堤が崩れる蟻の一穴になるかもしれないのです。
唐突な話ですが、沖縄で高校生がバイクを運転中に警察官の警棒と「接触」して(ホントは叩かれた?)失明した事件でも、若者たちがSNSで集まり警察署に押しかけ直接抗議をしたからこそ、警察もやっと重い腰を上げ、(しぶしぶながら)真相を究明する姿勢を見せるようになったのです。警察に押しかけてなかったら事件は闇に葬られたでしょう。市井の人々が声を上げて行動すると、思ってもみない力を発揮することもあるのです。
ロシアやアメリカなど大国の論理に対して、ウクライナ人もロシア人もアメリカ人も日本人もないという、平和を希求する人々の生の声を上げ続けることが何より大事でしょう。人民戦線とは、本来は共産党の前衛神話を前提とするようなものではなく、そのように民衆の連帯によって自然発生的に生まれる闘いの形態のことを言うのではないでしょうか。現代はスペインの人民戦線を描いたジョージ・オーウェルの『カタロニア賛歌』(岩波文庫)の頃とは時代背景が違うと言う人がいますが、たしかに『カタロニア賛歌』のなかでも批判的に書かれていた共産党の前衛神話を前提とするような党派的な考え方をすれば、そう言えるのかもしれません。しかし、国家や党派とは関係なく民衆の素朴実感的なヒューマニズムの所産として人民戦線を考えれば、本質的には何も変わってないし、その今日的な意味は全然有効なのだと思います。
今までも私たちの日常は大国の核の傘の下にあったわけですが、全体主義の時代は、私たちの日常がウクライナの市民たちと同じように、核の脅威(プーチンのような脅し)に直接晒されることになるのです。その意味でも、今回の蛮行は決して他人事ではないはずです。