ロシア軍によるキエフの掃討作戦(ザチストカ)が目前に迫っていると言われています。キエフのビタリ・クリチコ市長によれば、3月11日現在、人口350万人のうちまだ200万人がキエフにとどまっているそうです(ロイターの記事より)。

常岡浩介氏は、『ロシア 語られない戦争 チェチェンゲリラ従軍記』(アスキー新書)で、次のように書いていました。

国際紛争の場で難民はメディアに取り上げられがちだが、本当に悲劇的な状況に直面しているのは難民よりもむしろ、難民になれず戦争の中に取り残された人たちや、絶望の中で遂に武器をとって立ち上がった人たちだ。難民とは危険な境遇からの脱出に成功した運のいい人たちのことだ。


200万人の市民が残っているキエフで掃討作戦が実行されれば、想像を絶するような惨劇を目にすることになるでしょう。アサド政権支援のためにシリア内戦に参戦したときと同じように、生物・化学兵器の使用も懸念されています。キエフにもサリンが撒かれる可能性があるかもしれません。

ただ、ウクライナにもチェチェンと同じように、「一人が倒れても、次の10人が立ち上がる」(同上)パルチザンの歴史があります。ウクライナの民兵の士気の高さは、メディアなどでも指摘されているとおりです。ロシアにとって、ウクライナはアフガニスタンの二の舞になるのではないかという見方もありますが、その可能性は高いでしょう。仮にロシアがウクライナに傀儡政権を作り、ウクライナを支配しても、ウクライナ人の抵抗がそれこそ世代を越えて続いていくのは間違いないでしょう。

一方、ポーランドがウクライナに戦闘機を供与するという話も、ロシアを刺激するからという理由でアメリカが反対して中止になりました。ロシアが核の使用を公言するなど、あきらかにルビコンの河を渡ったにもかかわらず、アメリカやヨーロッパは旧来の戦略から抜け出せず、世界から失望され呆れられるような怯懦な態度に終始しています。ただ手をこまねいて見ているだけの欧米は、ウクライナに「俺たちのために人柱になってくれ」と言っているようなものでしょう。

バイデンは、ロシアが生物・化学兵器を使えば「重い代償を払うことになる」と警告したそうですが、ワシントンでそんなことを言ってももう通用する時代ではないのです。誰かのセリフではないですが、戦争は現場で起きているのです。

もっとも、(矛盾することを言うようですが)これはあくまで全体主義(ロシア)VS民主主義(ウクライナ)の図式を前提にした話でもあるのです。欧米の腰が重い背景には、核戦争の脅威やNATO加入の有無、天然ガスの供給の問題の他に、もうひとつ別の理由もあるような気がしないでもありません。それは”懸念”と言い換えてもいいかもしれません。もちろん、だからと言って、ロシアの蛮行がいささかも正当化されるわけではありませんし、ウクライナ国民の悲惨な姿から目を逸らしていいという話にはなりません。上にも書いたとおり、パルチザン=人民武装の歴史は正しく継承されるべきだと思いますが、それにまったく”懸念”がないわけではないのです。

いづれにしても、ロシアは後戻りできない状態にまで進んでいるようにしか思えません。ロシア帝国の失地回復(レコンキスタ)は、「ロシアの権力を”シロビキ”と呼ばれる治安機関と軍の出身者で固めて、ソ連時代を上回る秘密警察支配を完成させた」(同上)プーチンにとっても、みずからの権力と命を賭けた責務になっているかのようです。

2008年、プーチンが2期8年でいったん大統領を退いた際、「一旦、権力を渡してしまった秘密警察から、再び権力を取り上げて民主的体制を建設し直すのは困難だし、ことによるとプーチンの身にも危険が及ぶだろう」(同上)と常岡氏は書いていましたが、大ロシア主義というあらたな愛国心に取り憑かれたロシアの暴走をもはや誰も押しとどめることができないのかもしれません。

日本のメディアでは、NATOの東方拡大に対するプーチンの不信感と警戒心が今回の侵攻を引き起こしたというような論調が多く見られますが、多極化を奇貨とした大ロシア主義=ロシア帝国再興の野望に比べれば、それは副次的な問題にすぎないように思います。

下記の朝日の記事もNATOの東方拡大について書かれた記事ですが、その主旨とは別に、今回のロシアの暴走を知る上で参考になるものがあるように思いました。

朝日新聞デジタル
ゴルバチョフは語る 西の「約束」はあったのか NATO東方不拡大(有料記事)

クリントン政権時代に国防長官を務めたウィリアム・ペリー氏は、著書(共著『核のボタン』田井中雅人訳・朝日新聞出版)のなかで、次のように述べているそうです。

「冷戦終結とソ連崩壊は米国にとってまれな機会をもたらした。核兵器の削減だけでなく、ロシアとの関係を敵対からよいものへと転換する機会だ。端的に言うと、我々はそれをつかみ損ねた。30年後、米ロ関係は史上最悪である」


また、米軍将校から歴史家に転じたアンドリュー・ベースビッチ氏は、2020年6月の朝日新聞のインタビューで次のように語っていたそうです。

「ベルリンの壁崩壊を目の当たりにして、米国の政治家や知識人は古来、戦史で繰り返された『勝者の病』というべき傲慢(ごうまん)さに陥り、現実を見る目を失ったのです」


冷戦に勝利した欧米の民主主義がその寛容さを忘れ傲慢になってしまったというのはそのとおりかもしれません。欧米にとって、新生ロシアは、あらたな市場(資本主義世界にとってあらたな外部)の出現であり、収奪の対象でしかなかったのです。その結果、司馬遼太郎が指摘していたような自意識の高いロシアのノスタルジックな大国意識に火を点け、核を盾にした暴走を許すことになったのです。挙げ句の果てには、今のように、暴走するロシアに対して為す術もなく、ただオロオロするばかりなのです。

それは日本も同じです。と言うか、むしろ日本は欧米以上にロシア寄りでした。ロシアの暴走は、2014年のクリミア半島の併合からはじまったのですが、当時、プーチンに肩入れしていた安倍政権はロシアに対する制裁に消極的で、欧米と歩調を合わせようともしなかったのです。それが今になって「暴挙だ」「力による現状変更はとうてい認めることはできない」などとよく言えたものだと思います。

昨日のテレビでも、今回の侵攻は、NATOに加入したかったけど加入できなかったプーチンの個人的な恨みによるものだ、と大真面目に解説しているジャーナリストがいました。また、ロシアに対する経済制裁の影響で、イクラやカニなどの仕入れが難しくなり、「回転ずしにも暗い影を落としそうだ」という新聞記事もありました。能天気な日本人のトンチンカンぶりには、口をあんぐりせざるを得ません。

何度も同じことをくり返しますが、欧米の民主主義は、現在、我々の目の前に姿を現わしつつある「全体主義の時代」にほとんど無力なことがはっきりしたのです。もちろんそれは、アジアの端に連なる日本にとっても、決して他人事ではないはずです。

韓国に”親日”の大統領が当選したからバンザイとぬか喜びしている場合ではないのです。私は嫌韓ではありませんが、僅差とは言え、ミニプーチンような前検事総長を大統領に選ぶ国(国民)の怖さと愚かさをまず考えるべきでしょう。民主主義に対して、あまりにデリカシーがなさすぎると言わざるを得ません。
2022.03.12 Sat l ウクライナ侵攻 l top ▲