『週刊プレイボーイ』のウェブサイトに、新著の宣伝で大塚英志のインタビュー記事が掲載されていましたが、そのなかで今回のウクライナ侵攻にも言及していました。

ちなみに、大塚英志は、戦時下大衆文化が戦意高揚のために如何に活用されたかという研究をすすめているのですが、新著『大東亜共栄圏のクールジャパン「協働」する文化工作』(集英社新書)もそのシリーズのひとつです。刊行と侵攻が重なったのは、「まったくの偶然」だと言っていました。

大塚英志は、ゼレンスキー大統領の演説について、次のように言っていました。

週プレNEWS
大塚英志氏インタビュー「ウクライナ侵攻から見える戦時の国家宣伝の意図とは」(後編)

大塚   (略)ゼレンスキーが用いている動員の話術みたいなものにも注意が必要です。もちろん、ウクライナのほうが侵略された側だし、対プーチンではゼレンスキーが正しいように見える。それでも、第三者である日本が彼らの宣伝戦に巻き込まれて、今度は自分たちの国の選択を間違えるようではいけない。とくにゼレンスキーの国会での演説が、世論を誘導するためのものとして使われようとしていることには注意すべきです。


大塚   ウクライナ市民が市内にとどまり市街戦のため銃を持つ姿が「美談」として日本でも報じられています。そうした戦争美談報道が、人々の戦争への認識をどう情緒的に作り替え、それが有権者としての政治的選択をどう左右してしまうかについて、私たちは冷静に考えなければいけない。この時代錯誤的な姿が改憲論などに与える影響は大きいでしょう。前提として、戦争に感動を求めたらダメだよという自制が必要だと思いますね。


手前味噌になりますが、これは私自身もこのブログでくり返し書いていることです。しかし、今、私たちの前にあるのは、大塚英志の警鐘も空しく響くような現実です。

ウクライナ(国民)が可哀そうVSプーチン憎しの安直な感情に覆われた日本。まるでウクライナ政府のスポークスマンのような発言をくり返す識者たち。スポーツの試合のように、ロシアは敵、ウクライナは味方の論理で戦況を解説する軍事ジャーナリストたち。そこにあるのは善か悪か、敵か味方かに色分けされた二項対立の身も蓋もない風景です。

そういった「戦時下の言語」によって、非核三原則や専守防衛など戦後この国が堅持してきた平和憲法の理念も、何の躊躇いもなく捨て去ろうとしているのでした。ロシアの振り見て我が振り直せではないですが、侵略戦争の反省もどこかに行ってしまったかのようです。

もちろん、それは、右派の話だけではありません。言い方は多少異なるものの、立憲民主党も含めた野党も同じです。むしろ、彼等こそ、この空気をつくり出していると言ってもいいでしょう。

最近、防衛省の防衛研究所の研究員が頻繁にテレビに出演して戦況を解説するという奇妙な現象がありますが、防衛研究所は防衛省直轄の研究機関です。彼らは、間違ってもフリーハンドで解説しているわけではないのです。そこに国家のプロパガンダがないとは言えないでしょう。

これでは大塚英志のような主張も袋叩きに遭うのがオチです。「言論の自由なんてない、あるのは自由な言論だけだ」と言ったのは竹中労ですが、ウクライナ(国民)が可哀そうVSプーチン憎しの感情に囚われた(ある意味で)「善意」の人々は、みずからの感情に少しでも棹さして逆なでするような異なる意見=自由な言論に対して、いつの間にか「ロシアの手先」「陰謀論」というレッテルを貼り牙を剥きだして襲いかかるほどエスカレートしているのでした。こういうのを「善意のファシズム」というのではないか。

私は、前の記事で、戦争に反対するには人々の個別具体的なヒューマニズムこそが大事だと言いましたが、それと今のウクライナ(国民)が可哀そうVSプーチン憎しの感情は似て非なるものです。何故なら、ウクライナ(国民)が可哀そうVSプーチン憎しの感情のなかには、国家の論理=「戦時の言語化」が混在しているからです。だから、一方で、戦時体制を希求するナショナリズムやロシア人に対するヘイトクライムに向かわざるを得ないのです。何度も言いますが、国家に正義なんてないのです。

「あまりにひどい」として、ネットで袋叩きに遭った『アエラ』(3/21号)の的場昭弘神奈川大副学長と伊勢崎賢治東京外語大教授の対談「糾弾だけでは停戦は実現せず」を読みましたが、どこが「ひどい」のかまったくわかりませんでした。

伊勢崎   (略)(NATOは)軍事支援はするものの、届ける確証のないまま、外野席からの「戦え、戦え」という合唱ばかりでウクライナ人だけに戦わせている。非常に歪な構造です。何故「停戦交渉」を言わないのか。
的場   (略)ゼレンスキーのほうはショーをやってしまっている。ぼろぼろの服を着て、追い込まれて大変だという雰囲気を醸し出しながら、民衆には「武器を持って戦え」と。国家同士なら状況次第で降伏しますが民衆は降伏しませんから、どんどん犠牲者が増えてしまう。民衆には絶対銃を渡しちゃだめなんです。そこを煽れるのが彼が役者出身だからというのが皮肉な話ですが。


このように、両人は、どうすれば「一日も早く停戦を実現」できるかについて、至極真っ当な意見を述べているに過ぎません。その前にどっちが悪いか、どっちが敵でどっちが味方かはっきりしろ、と言う方が異常なのです。

的場    私は、ウクライナは中立化するしか生きる道はないと思います。地理的にさまざまな国や民族が行き来し、ときに土足で踏みつけられてきた「ヨーロッパの廊下」のような存在です。ロシアにとってNATO、EU(欧州連合)との緩衝国家(クッション役の果たす国家)でもあります。さらにウクライナを流れるドニエプル川、ドネツ川はロシアへつながり、黒海から入った船はこれらを上がってロシアへ行く。ウクライナがここを「占領」することは難しく、中立化して「開けて」おかないといけないんです。
伊勢崎   そこは国民の意思を越えたところでの「宿命」ですね。ウクライナは緩衝国家を自覚するしかない。西、東、どちらに付くかで、市民は死んではならないのです。日本でも「ウクライナを支持する」として「反戦」を訴えている人がいます。私は違和感がある。悲惨な敗戦を経験した国民なら、なぜ「国家のために死ぬな」と言えないのか。


政治家たちはさかんに「ウクライナに寄り添う」「日本はウクライナとともにある」と言ってますが、そういった扇動(文字通りの動員の思想)は、一方で、この対談にあるような”客観的な視点”はいっさい許さないという、日本社会特有の同調圧力(感情の強要)を誘発しているのでした。

伊勢崎氏は、(日本国民は)「国家のために死ぬな」となぜ言えないのかと言ってましたが、「ウクライナに寄り添う」「日本はウクライナとともにある」と言う政治家たちは、「国家のために死ぬことは美しいのだ」と言いたいのがミエミエです。

某軍事ジャーナリストは、みずからのツイッターで、「ヨーロッパの廊下」や「宿命」ということばだけを切り取ってこの対談に罵言を浴びせていましたが、それも同調圧力に便乗したきわめてタチの悪いデマゴーグと言うべきでしょう。戦争は、軍事ジャーナリストにとってバブルのようなものなので、「勝ったか負けたか」「敵か味方か」を煽ることで自分を売り込んでいるつもりかもしれませんが、それが彼らをしておぞましく感じる所以です。

案の定、ヤフコメなどは、軍事ジャーナリストの口真似をした俄か軍事評論家たちによる、”鬼畜露中”の痴呆的なコメントで溢れているのでした。戦争のような悲惨なニュースであればあるほど、それをバズらせてマネタイズすることしか考えてないYahoo!ニュースはニンマリでしょうが、これではどっちが”鬼畜”かわからないでしょう。
2022.04.13 Wed l ウクライナ侵攻 l top ▲