昨夜、テレビでサンドイッチマンやバナナマンが出ている番組を観ていたとき、ふと先日自殺した渡辺裕之のことが頭に浮かびました。
ちょうど自殺のニュースが出る前日だったと思いますが、たまたま観ていた深夜の通販番組に彼が出演していたのです。深夜の通販番組に出演しているのは、こう言っては何ですが、既に旬を終え、しかも結婚してそれなりに年を取ったタレントが多いので、家族のために仕事を選んでおれないんだろうなと思ったりするのでした。
ただ渡辺裕之の場合は、売れなくなったという印象はなかったので意外でした。通販番組独特のわざとらしい空気にまだ慣れてないのか、観ているとどこかぎこちない感じがありました。しかも、胸に大きなエンブレムが付いたおせいじにも趣味がいいとは言い難いポロシャツの通販でしたが、「実は僕もこれを着ているんですよ。どうですか? いいでしょ」とブレザーを脱いでそのポロシャツをひけらかすシーンでは、日頃ダンディを売り物にしているだけに何だか痛々しささえ覚えました。
勝手な推測ですが、そんな場違いな仕事と自死がどこかでつながっているのではないか。自殺のニュースを聞いて、ふとそう思ったのでした。
で、お笑い芸人の番組でどうして渡辺裕之の自殺を思い出したのかと言えば、芸能人でみずから死を選ぶのは、渡辺だけでなく神田沙也加や竹内結子や三浦春馬の例を見てもわかる通り、歌手や俳優が多く、お笑い芸人はあまりいないなと思ったからです。お笑い芸人というのは、そういった行為とは遠い存在のような気がしたのです。サンドイッチマンやバナナマンのどうでもいいようなお笑いとそのはしゃぎぶりを観ていたら、そんな偏見に囚われたのでした。
ところが今朝、ダチョウ倶楽部の上島竜平が自死したというニュースが流れてびっくりしました。
私は一時、仕事で四谷三丁目に日参していた時期があり、四谷三丁目は太田プロが近かったので、太田プロのタレントもよく見かけました。迎えの車を待っているのか、四谷三丁目の交差点に、耳にイヤホンをはめた某宗教団体の”私設公安”の傍で、人待ち顔で立っている彼を見かけたことがありますが、それはどこにでもいるようなちょっと崩れた感じのおっさんでした。ハンチング帽にアロハシャツの恰好で地下鉄の駅から出て来たのに遭遇したこともありますが、どう見ても街中をうろついている職業不詳のオヤジ風で、芸能人のオーラなど微塵もありませんでした。
あの身体を張ったリアクション芸の裏に、こんな孤独な心があったのかと思うと、余計痛ましく、そして切なく思えてなりません。コロナ禍でリアクション芸の機会が失われ、このまま自分の出番が失くなっていくことを感じ取っていたのかもしれません。あるいは、芸能界の恩人と言って憚らなかった、志村けんの死のショックを未だ引き摺っていたのかもしれないと思ったりもしました。
コロナ禍をきっかけに、飛沫感染の怖れがあるからなのか、ドリフのDNAを受け継いだような身体を張ったギャグは、すっかりテレビの世界から姿を消しました。でも、コロナ禍はあくまできっかけにすぎなかったように思います。もうあんな大仰なリアクション芸で笑いを誘う時代ではなくなったのです。
ある日突然、自分の仕事が失くなるというのは、芸能界だけでなく、いろんな職業についても言えることです。ペストやスペイン風邪のときも、同じようなことが起きているのです。「新しい生活様式」なる国家が強制する”ファシスト的日常性”とは別に、パンデミックによって世の中の慣習や嗜好が変わるのは、当然あり得る話でしょう。それとともに、用をなさない仕事も出て来るでしょう。同じように仕事を失ったり、あるいは先行きに不安を抱いたりして、暗い日々を過ごしている人も多いはずです。
私たちは「芸能界」と一括りに呼んでいますが、しかし、その中にはさまざまなジャンルがあり、さらにそのジャンルの中でも芸の分担が細分化されているのです。潰しのきかない芸能界にあって、自分の得意芸の出番がなくなる不安は想像に難くありません。
一方で、いつの間にか、情報番組の司会やコメンテーターにお笑い芸人が起用されるようになっています。彼らに求められているのは、頭の中身は二の次に、機を見るに敏な状況判断とバランス感覚、ボキャブラリーの貧弱さを補って余りあるような口達者、それにお笑い芸人特有の毒を消して”好い人”を演じられる器用さです。
「竜兵会」の後輩芸人たちも、みんなそうやって時流に乗り、人気芸人になっています。同じリアクション芸人の出川哲郎も、”好い人”へのイメージチャンジに成功し、好感度もアップしました。何だか不器用な上島竜平だけが、仲間内で取り残されたような感じでした。
さらにコロナ禍だけでなく、ウクライナ侵攻をきっかけにした戦争の影も私たちを覆うようになりました。そんなえも言われぬ憂鬱さの中に、今の私たちはいるのです。私もそのひとりです。
こんな時代だからこそ笑いが必要だと業界の人間は言いますが、それは強がりやカラ元気みたいなものでしょう。テレビにはお笑い芸人たちが溢れていますが、しかし、現実は呑気にお笑いが溢れるような時代の気分ではないのです。
ちょうど自殺のニュースが出る前日だったと思いますが、たまたま観ていた深夜の通販番組に彼が出演していたのです。深夜の通販番組に出演しているのは、こう言っては何ですが、既に旬を終え、しかも結婚してそれなりに年を取ったタレントが多いので、家族のために仕事を選んでおれないんだろうなと思ったりするのでした。
ただ渡辺裕之の場合は、売れなくなったという印象はなかったので意外でした。通販番組独特のわざとらしい空気にまだ慣れてないのか、観ているとどこかぎこちない感じがありました。しかも、胸に大きなエンブレムが付いたおせいじにも趣味がいいとは言い難いポロシャツの通販でしたが、「実は僕もこれを着ているんですよ。どうですか? いいでしょ」とブレザーを脱いでそのポロシャツをひけらかすシーンでは、日頃ダンディを売り物にしているだけに何だか痛々しささえ覚えました。
勝手な推測ですが、そんな場違いな仕事と自死がどこかでつながっているのではないか。自殺のニュースを聞いて、ふとそう思ったのでした。
で、お笑い芸人の番組でどうして渡辺裕之の自殺を思い出したのかと言えば、芸能人でみずから死を選ぶのは、渡辺だけでなく神田沙也加や竹内結子や三浦春馬の例を見てもわかる通り、歌手や俳優が多く、お笑い芸人はあまりいないなと思ったからです。お笑い芸人というのは、そういった行為とは遠い存在のような気がしたのです。サンドイッチマンやバナナマンのどうでもいいようなお笑いとそのはしゃぎぶりを観ていたら、そんな偏見に囚われたのでした。
ところが今朝、ダチョウ倶楽部の上島竜平が自死したというニュースが流れてびっくりしました。
私は一時、仕事で四谷三丁目に日参していた時期があり、四谷三丁目は太田プロが近かったので、太田プロのタレントもよく見かけました。迎えの車を待っているのか、四谷三丁目の交差点に、耳にイヤホンをはめた某宗教団体の”私設公安”の傍で、人待ち顔で立っている彼を見かけたことがありますが、それはどこにでもいるようなちょっと崩れた感じのおっさんでした。ハンチング帽にアロハシャツの恰好で地下鉄の駅から出て来たのに遭遇したこともありますが、どう見ても街中をうろついている職業不詳のオヤジ風で、芸能人のオーラなど微塵もありませんでした。
あの身体を張ったリアクション芸の裏に、こんな孤独な心があったのかと思うと、余計痛ましく、そして切なく思えてなりません。コロナ禍でリアクション芸の機会が失われ、このまま自分の出番が失くなっていくことを感じ取っていたのかもしれません。あるいは、芸能界の恩人と言って憚らなかった、志村けんの死のショックを未だ引き摺っていたのかもしれないと思ったりもしました。
コロナ禍をきっかけに、飛沫感染の怖れがあるからなのか、ドリフのDNAを受け継いだような身体を張ったギャグは、すっかりテレビの世界から姿を消しました。でも、コロナ禍はあくまできっかけにすぎなかったように思います。もうあんな大仰なリアクション芸で笑いを誘う時代ではなくなったのです。
ある日突然、自分の仕事が失くなるというのは、芸能界だけでなく、いろんな職業についても言えることです。ペストやスペイン風邪のときも、同じようなことが起きているのです。「新しい生活様式」なる国家が強制する”ファシスト的日常性”とは別に、パンデミックによって世の中の慣習や嗜好が変わるのは、当然あり得る話でしょう。それとともに、用をなさない仕事も出て来るでしょう。同じように仕事を失ったり、あるいは先行きに不安を抱いたりして、暗い日々を過ごしている人も多いはずです。
私たちは「芸能界」と一括りに呼んでいますが、しかし、その中にはさまざまなジャンルがあり、さらにそのジャンルの中でも芸の分担が細分化されているのです。潰しのきかない芸能界にあって、自分の得意芸の出番がなくなる不安は想像に難くありません。
一方で、いつの間にか、情報番組の司会やコメンテーターにお笑い芸人が起用されるようになっています。彼らに求められているのは、頭の中身は二の次に、機を見るに敏な状況判断とバランス感覚、ボキャブラリーの貧弱さを補って余りあるような口達者、それにお笑い芸人特有の毒を消して”好い人”を演じられる器用さです。
「竜兵会」の後輩芸人たちも、みんなそうやって時流に乗り、人気芸人になっています。同じリアクション芸人の出川哲郎も、”好い人”へのイメージチャンジに成功し、好感度もアップしました。何だか不器用な上島竜平だけが、仲間内で取り残されたような感じでした。
さらにコロナ禍だけでなく、ウクライナ侵攻をきっかけにした戦争の影も私たちを覆うようになりました。そんなえも言われぬ憂鬱さの中に、今の私たちはいるのです。私もそのひとりです。
こんな時代だからこそ笑いが必要だと業界の人間は言いますが、それは強がりやカラ元気みたいなものでしょう。テレビにはお笑い芸人たちが溢れていますが、しかし、現実は呑気にお笑いが溢れるような時代の気分ではないのです。