前の記事の続きになりますが、今回のウクライナ侵攻をきっかけに、国家はホントに頼るべきものなのか、できる限り国家から自由に生きるにはどうすればいいのか、ということを考えることが多くなりました。

今のように無定見に身も心も国家に預けたような生き方をしていたら、たとえば、ウクライナのように”国家の災難”に見舞われたとき、私たちは容赦なく国家と運命をともにすることを余儀なくされるでしょう。

国家に命を捧げるのが「英雄」とされ、それを支えた家族の物語が「美談」として捏造され称賛されても、人生の夢や希望が一瞬にして潰えてしまい、家族とのささやかでつつましやかな日常もはかない夢と化してしまうことには変わりがないのです。

そういった考えは、前の戦争のときよりは私たちの中に確実に根付いています。大震災からはじまってコロナ禍、そしてウクライナ侵攻と、国家が大きくせり出している今だからこそ、そんな”身勝手な考え”が大事なように思うのです。

現在、与野党を問わず政治家たちの間で、核武装も視野に敵基地攻撃能力を保有して、ロシアや中国の脅威に対抗しようというような勇ましい言葉が飛び交っていますが、では、誰がロシアや中国と戦うのですか?と問いたいのです。汚れ仕事は自衛隊に任せておけばいいのか。そうではないでしょう。

時と場合によってはロシアや中国と戦争することも覚悟しなけばならないというのは、当然ながら自分の人生や生活より国家の一大事を優先する考えを持つことが必要だということです。国家や家族を守るために、みずからを犠牲にするという考えを持たなければならないのです。

国家の論理と自分の人生、自分の生き方はときに対立するものです。俗な言葉で言えば、利害が対立する場合があります。まして命を賭す戦争では尚更でしょう。当然、そこに苦悩が生まれます。しかし、天皇制ファシズムの圧政下にあった先の大戦においては、そういった苦悩はほとんど表に出ませんでした。むしろ、没論理的に忠君愛国に帰依するような生き方に支配されたのでした。私たちは、のちに第一次戦後派と言われた若い文学者たちが、官憲の目を逃れて人知れず苦悩していたのを僅かながら知るのみです。しかし、現代はそうではありません。ささやかでつつましやかな幸せを一義と考えるような”ミーイズム”が人々の中に当たり前のように浸透しています。

そんな戦争に象徴される国家の論理と自分の生き方との関係性を考えるとき、朝日に掲載されていた次のような記事がとても参考になるように思いました(私は朝日新聞デジタルの有料会員なので、どうしても朝日の記事が中心になってしまいますがご容赦ください)。

最初は、過酷な引き揚げ体験を持つ五木寛之氏のインタビュー記事です。

朝日新聞デジタル
国にすてられ、母失った五木寛之さん 「棄民」の時代に問う命の重さ

五木氏は、現在は「棄民の時代」だと言います。そして、次のように言っていました。

 ――「はみ出した人々」ですか。初期のころから使ってこられたフランス語の「デラシネ」という言葉も印象的です。

 「デラシネとは『流れ者』じゃない。すてられた国民のことなんですよ。今の言葉だと、まさに難民です。これからの世界で、難民の問題がとても大きくなっていくでしょう。どうも、デラシネ、根無し草というと流れ者のような感じで、自分から故郷を出て行ってフラフラしている人っていうイメージを持つ人もいるんですが、ぜんぜん違う。たとえば、スターリン時代に、まさにウクライナなどから強制的に移住させられてシベリアへ移った大勢の人たちもそうです。政治的な問題や経済的な問題で、故郷を離れざるを得なかった人たちのことをデラシネだと僕は考えている」

 「私自身が難民であり、国にすてられた人間でした。敗戦の時に、日本の政府は、外地にいた650万人もの軍人や居留民が帰ってきては食料問題などもあって大変だと考えたんでしょうが、『居留民はできるだけ現地にいろ。帰ってくるな』という方針を打ち出していたのです。それを知ったときには怒り心頭に発しました。一方で当時の軍の幹部や官僚、財閥などの関係者といった人々は、私たち一般市民と違って、戦争が終わる前から家財道具と一緒に平壌から逃げ出していたのですから」

 「平壌はソ連兵に占領され、母を失い、収容所での抑留生活を余儀なくされました。戦後2年目に、私たちはそこから脱北しました。妹を背負い、弟の手を引いて、徒歩で38度線を越え、南の米軍キャンプにたどり着いたのです。国にすてられた棄民という心の刻印は一生消えません」

 「デラシネの基本思想だと私が思っているのは、評論家の林達夫さんの指摘です。移植された植物の方が、そこに原生の植物より生命力があると。最初からその地に生まれ育ったものより、無理やり移されたものには、『生命力』や『つよさ』があるというのです。もちろん例外はあるでしょうが、僕はそれを頼りにして生きてきました」

 「難民として世界に散らばって生きていかざるをえない人々が日々たくさん生まれていますが、その境遇をマイナスとだけ捉えないで、どうかプラスとして考えて生きていって欲しいと思います」


「棄民」というのは、文字通り国家に棄てられたという意味です。「難民」も似たような意味ですが、しかし一方で、「棄民」の方が国家との関係性において積極的な意味があるような気がします。国家に棄てられたというだけでなく、みずから国を棄てた(棄てざるを得なかった)というような意味もあるような気がするからです。だったら、五木氏が言うように「棄民の思想」というのがあってもいいのではないかと思うのです。

今の日本にも、「難民」ではなく、実質的に「移民」と呼んでもいいような人たちが政府の建前とは別に存在します。彼らは、ときに日本人から眉をしかめられながらも、逞しく且つしたたかに生きているのは私たちもよく知っています。そんな彼らの中に、私は「棄民の思想」のヒントがあるような気がするのです。

ロシアや中国に対抗するというのなら、国の一大事か自分たちの幸せかの二者択一を迫られる日が、再び来ないとも限りません。今のウクライナを見てもわかるように、国家というのはときにそんな無慈悲な選択を迫ることがあるのです。それが国家というものなのです。

話が脇道に逸れますが、健康保険証を廃止してマイナンバーカードに一本化するという政府の方針も、たとえば国家が国民の健康状態を一元管理できれば、医療費の抑制だけでなく、いざ徴兵の際に迅速に対応できるという安全保障上の思惑もなくはないでしょう。もちろん、そうやってマイナンバーカードが義務化されれば、GooglePayどころではないさまざまな個人情報を紐付けることも可能で、ジョージ・オーウェルも卒倒するような超監視社会の到来も”夢”ではないのです。

たまたま今、『AI監獄 ウイグル』(新潮社)という本を読んでいるのですが、著者のジェフリー・ケインは、本の中で、中国政府はウイグル自治区を「ディストピア的な未来を作り上げる最先端の監視技術のための実験場に変えた」と書いていました。その先兵となったのが、アメリカのマイクロソフトと中国のIT企業が作った合弁企業です。それを著者は「不道徳な結婚」と呼んでいました。

もちろん、その監視技術は、コロナウイルス対策でも示されたように、ウイグルだけでなく、既に中国全土に広がっているのです。そうやって超監視社会に進む中国の現実は、私たちにとっても決して他人事ではないのです。と言うか、日本政府は中国に対抗するために、中国のようになりたいと考えているようなフシさえあるのでした。国民の個人情報を一元管理して迅速で効率的な行政運営をめざす日本の政治家や官僚たちにとって、もしかしたら中国共産党や中国社会こそが”あるべき姿”なのかもしれないのです。

もうひとつは、明治大学教授(現代思想研究)の重田園江氏が書いた、映画監督セルゲイ・ロズニツァをめぐる言説の記事です。

朝日新聞デジタル
体制に同意せざる者の行き場は 映画監督セルゲイ・ロズニツァに思う

ちなみに、セルゲイ・ロズニツァは、「1964年、ベラルーシ(当時のソ連)に生まれ、幼少期に一家でキーウに移住した。コンピューター科学者として勤務した後、モスクワの全ロシア映画大学で学んだ。サンクトペテルブルクで映画を制作し、今はベルリンに移住している」映画監督で、文字通り五木寛之氏が言う「デラシネ」のような人です。

彼は、ウクライナ侵攻後、ロシア非難が手ぬるいとしてヨーロッパ映画アカデミー(EFA)をみずから脱退したのですが、ところが翌月、今度はウクライナ映画アカデミー(UFA)から追放されたのでした。UFAがセルゲイ・ロズニツァを追放した理由について、重田氏は次のように書いていました。

UFA側の言い分はこうだ。ロシアによる侵略以来、UFAは世界の映画団体にロシア映画ボイコットを求めてきた。あろうことかロズニツァはこれに反対している。彼はロシア人の集団責任を認めていないのだ。ロズニツァは自らを「コスモポリタン(世界市民)」と称している。だが戦時下のウクライナ人に望まれるのは、コスモポリタンではなくナショナル・アイデンティティーなのだ、と。


ここにも今の戦時体制下にあるウクライナの全体主義的な傾向が見て取れるように思います。さらに重田氏はこう書いていました。

 ロズニツァは、コスモポリタンであることを理由に人を非難するのはスターリニズムと同じだという。スターリンは晩年、「反コスモポリタン」を旗印にユダヤ人迫害を強めたからだ。ロシア、そして世界の至るところに「ディセント=体制に同意せざる者」がいる。映画を通じて体制への疑念や物事の多様な見方を表現する者たちは、世界から排除されれば行き場を失うだろう。

(略)

 国家に住むのは人びとである。彼らは多様な感情と思想を持って生きている。悲惨な戦争のさなかにあっても、ナショナル・アイデンティティーに訴えて少数者や異端者を排除するのは危険である。ロズニツァはそれを誰よりも理解している。

 芸術家は、ハンナ・アーレントがエッセー「真理と政治」において示した、真理を告げる者である。政治は権力者によるうそをばらまくことで、大衆を操作し動員してきた。これに対し、芸術家は政治の外に立って、人びとが真理とうそを区別するための種をまく。政治がコスモポリタンたる芸術家を排除し、うそと真理を自在に作り変えるなら、真理はこの世界から消え去るだろう。後に残るのは政治的意見の相違だけだ。

 私たちは戦争をめぐるうそを聞かされすぎた。いまは世界を蝕(むしば)むこうした言葉を聞くべき時ではない。真理とうその区別がなおも世界に残ることを望むなら、その種を芸術と歴史のうちに探すべき時だ。


敵か味方かという戦時の言葉に席捲された世界。それは芸術においても例外ではないのです。もちろん、戦争当事国であるかどうかも関係ありません。

いくら侵略された被害国だからと言って、コスモポリタンであることを理由に非難され追放されるような社会、そんな国家(主義)を私たちはどう考えるかでしょう。だったら、「棄民の思想」を対置してそれをよすがに逞しく且つしたたかに生きていくしかないのではないか。そんな人々と「連帯」することが大事ではないのかと思います。

もっとも、UFAのような愚劣な政治の言葉は、ウクライナだけではありません。先日、国家の憎悪を一身に浴び20年の刑期を終えて出所したS氏(どっかのブログを真似てイニシャルで書いてみた)に対する、日本共産党や立憲民主党に随伴する左派リベラル界隈の人たちから浴びせられた罵詈雑言も同じです。愚劣な政治の言葉でひとりの人間の存在を全否定する所業は、昔も今も、左も右も、ウクライナも日本も関係ないのです。S氏の短歌のファンである私は、衣の下から鎧が覗いたような彼らの寒々とした精神に慄然とさせられたのでした。
2022.06.04 Sat l ウクライナ侵攻 l top ▲