一昨日、今回の安倍晋三元首相銃撃事件に関連して、朝日新聞デジタルに、下記のような宮台真司氏のインタビュー記事が掲載されていました。
宮台真司氏は、近代化により(中間共同体が消滅して)むき出しになった個人が、近代合理主義(=資本主義)のシステムと直接向き合わなければならなくなり、その結果「寄る辺なき個人」が大量に生まれた、そのことが今回の事件の背景にあると言うのです。そして、「寄る辺なき個人をいかに社会に包摂するかを考えていくことが大切だと指摘」するのでした。
朝日新聞デジタル
(元首相銃撃 いま問われるもの)バラバラな人々に巣くう病理 宮台真司さん
それは、オウム真理教の事件の際に出版された『終わりなき日常を生きろ』(ちくま文庫)に書かれていることのくり返しで、正直言って「またか」という気持を持ちましたが、言っていることはよくわかるのでした。たままた本棚を整理していたら『終わりなき日常を生きろ』が出て来ましたので、もう一度読み返してみようかなと思ったくらいです。
宮台氏は次のように言います。
前に書いた『令和元年のテロリズム』に出て来るような事件を、宮台氏は「国家を呼んでも応えないがゆえの自力救済」だと言います。それと「剥き出しの個人の不安」は「類似」していると。でも、私には、「類似」というより表裏の関係のように思いました。
そんな「寄る辺なき生」に、カルトは「確かな物語」(大きな物語)を携えてやって来ます。『令和元年のテロリズム』を読むと、登場する人物たちがカルトとすれすれのところで生きていることがよくわかります。
ただ、それは今回の事件の一面にすぎません。今までの報道を見る限り、容疑者はカルトに取り込まれたわけではないのです。容疑者にとって「大きな物語」は、ネトウヨの陰謀論であり、その延長にある安倍政治に随伴することだったのです。
なのに容疑者は安倍を撃ったのです。統一教会によって家庭がメチャクチャにされた積年の恨みが、「本来の敵ではない」安倍に向けられたのです。たとえイデオロギーと関係がなくても、行為自体はきわめて政治的なものと言っていいでしょう。
もしかしたら、ネトウヨを自認する容疑者には、安倍元首相に対して「可愛さ余って憎さ百倍」のような感情があったのかもしれません。安倍元首相は、国内向けには嫌韓的なポーズを取りながら、その裏では、サタンの日本人は「アダムの国」の韓国に奉仕すべきだと主張する韓国のカルト宗教と三代に渡って親密な関係を続けてきたのです。そのジキルとハイドのような二つの顔を知ったことが、安倍元首相をターゲットにする”飛躍”につながったのではないか。そう考えなければ今回の事件は理解できません。
宮台氏の言説に従えば、あの腰の座った覚悟の犯行も「自己救済」ということになります。私はむしろ逆ではないかと思っていました。ロープシンの『蒼ざめた馬』のような”虚無のテロリスト”さえ幻視していたのです。一発目が逸れたあと、容疑者はためらうことなくさらに前へ進み、致命傷となる二発目を命中させているのです。容疑者にとって、「本来の敵ではない」安倍元首相は「呼んでも応えない」国家だったのか。あるいは、国家を呼び出すために安倍を撃ったのか。警察発表の犯行動機を理解するためには、私たちもまた、”飛躍”が必要なのです。
一方で、宮台氏も言うように、既に「心の平穏に向けた物語化」がはじまっているのでした。ワイドショーの電波芸者 たちの言動にも、そういった空気の変化が反映されています。メディアも、統一教会と政治の関係に言及するのを避けるようになっているそうです。
これから「国葬」に向けて、死者の悪口を言わないという”日本的美徳”のもと、安倍政治を賛美する声が益々大きくなっていくのでしょう。そして、今回の事件も、容疑者個人の一方的な「思い込み」で起きたことにして幕が下ろされるに違いありません。
朝日の記事のタイトルのように「病理」と言うなら、個人の心より政治、特に安倍元首相を含めたこの国の「愛国」者たちの”二律背反”こそそう呼ぶべきなのです。間違っても(記事のタイトルに含意されているような)「個人的な思い込みによる事件」として回収させてはならないのです。
関連記事:
『令和元年のテロリズム』
追記:(7/21)
事件の政治的な側面ということで言えば、宮台氏もインタビューでは統一教会と自民党の関係に言及していたそうです。しかし、J-CASTニュースによれば、朝日新聞が掲載に当たってその部分を削除したのだとか。宮台氏もTwitterでそれを認めています。
Yahoo!ニュース
J-CASTニュース
宮台真司氏「掲載中止よりもマシ、Twitterで捕捉」 朝日新聞がインタビューから削除した「重要なポイント」
削除された「重要なポイント」について、J-CASTニュースは次のように書いていました。
別に目新しい話ではなく、正直言って、そんなに騒ぐことなのかと思いました。自民党に忖度したと言えばそう言えないこともありませんが、私には穿ちすぎのような気がしました。
宮台真司氏は、近代化により(中間共同体が消滅して)むき出しになった個人が、近代合理主義(=資本主義)のシステムと直接向き合わなければならなくなり、その結果「寄る辺なき個人」が大量に生まれた、そのことが今回の事件の背景にあると言うのです。そして、「寄る辺なき個人をいかに社会に包摂するかを考えていくことが大切だと指摘」するのでした。
朝日新聞デジタル
(元首相銃撃 いま問われるもの)バラバラな人々に巣くう病理 宮台真司さん
それは、オウム真理教の事件の際に出版された『終わりなき日常を生きろ』(ちくま文庫)に書かれていることのくり返しで、正直言って「またか」という気持を持ちましたが、言っていることはよくわかるのでした。たままた本棚を整理していたら『終わりなき日常を生きろ』が出て来ましたので、もう一度読み返してみようかなと思ったくらいです。
宮台氏は次のように言います。
「既に安倍氏への過度な礼賛や批判が『確かな物語』を求めて増殖中です。それとは別に、『民主主義への挑戦』と批判して済ませる紋切り型も気になります。無差別殺傷事件も政治家を狙った事件も、『剥き出しの個人の不安』と『国家を呼んでも応えないがゆえの自力救済』という類似面があります」
前に書いた『令和元年のテロリズム』に出て来るような事件を、宮台氏は「国家を呼んでも応えないがゆえの自力救済」だと言います。それと「剥き出しの個人の不安」は「類似」していると。でも、私には、「類似」というより表裏の関係のように思いました。
そんな「寄る辺なき生」に、カルトは「確かな物語」(大きな物語)を携えてやって来ます。『令和元年のテロリズム』を読むと、登場する人物たちがカルトとすれすれのところで生きていることがよくわかります。
ただ、それは今回の事件の一面にすぎません。今までの報道を見る限り、容疑者はカルトに取り込まれたわけではないのです。容疑者にとって「大きな物語」は、ネトウヨの陰謀論であり、その延長にある安倍政治に随伴することだったのです。
なのに容疑者は安倍を撃ったのです。統一教会によって家庭がメチャクチャにされた積年の恨みが、「本来の敵ではない」安倍に向けられたのです。たとえイデオロギーと関係がなくても、行為自体はきわめて政治的なものと言っていいでしょう。
もしかしたら、ネトウヨを自認する容疑者には、安倍元首相に対して「可愛さ余って憎さ百倍」のような感情があったのかもしれません。安倍元首相は、国内向けには嫌韓的なポーズを取りながら、その裏では、サタンの日本人は「アダムの国」の韓国に奉仕すべきだと主張する韓国のカルト宗教と三代に渡って親密な関係を続けてきたのです。そのジキルとハイドのような二つの顔を知ったことが、安倍元首相をターゲットにする”飛躍”につながったのではないか。そう考えなければ今回の事件は理解できません。
宮台氏の言説に従えば、あの腰の座った覚悟の犯行も「自己救済」ということになります。私はむしろ逆ではないかと思っていました。ロープシンの『蒼ざめた馬』のような”虚無のテロリスト”さえ幻視していたのです。一発目が逸れたあと、容疑者はためらうことなくさらに前へ進み、致命傷となる二発目を命中させているのです。容疑者にとって、「本来の敵ではない」安倍元首相は「呼んでも応えない」国家だったのか。あるいは、国家を呼び出すために安倍を撃ったのか。警察発表の犯行動機を理解するためには、私たちもまた、”飛躍”が必要なのです。
一方で、宮台氏も言うように、既に「心の平穏に向けた物語化」がはじまっているのでした。ワイドショーの
これから「国葬」に向けて、死者の悪口を言わないという”日本的美徳”のもと、安倍政治を賛美する声が益々大きくなっていくのでしょう。そして、今回の事件も、容疑者個人の一方的な「思い込み」で起きたことにして幕が下ろされるに違いありません。
朝日の記事のタイトルのように「病理」と言うなら、個人の心より政治、特に安倍元首相を含めたこの国の「愛国」者たちの”二律背反”こそそう呼ぶべきなのです。間違っても(記事のタイトルに含意されているような)「個人的な思い込みによる事件」として回収させてはならないのです。
関連記事:
『令和元年のテロリズム』
追記:(7/21)
事件の政治的な側面ということで言えば、宮台氏もインタビューでは統一教会と自民党の関係に言及していたそうです。しかし、J-CASTニュースによれば、朝日新聞が掲載に当たってその部分を削除したのだとか。宮台氏もTwitterでそれを認めています。
Yahoo!ニュース
J-CASTニュース
宮台真司氏「掲載中止よりもマシ、Twitterで捕捉」 朝日新聞がインタビューから削除した「重要なポイント」
削除された「重要なポイント」について、J-CASTニュースは次のように書いていました。
(略)旧統一教会が提唱する原理を学ぶ団体の原理研究会が1970年代末以降どのように活動していたかや、自民党と教会が2000年代末以降にズブズブの関係になっていたことについて、宮台氏の元の原稿では言及されていた。しかし、朝日の担当記者がその記述を残そうと奮闘したにもかかわらず、記事公開に当たって、それらの部分が削除されたという。
別に目新しい話ではなく、正直言って、そんなに騒ぐことなのかと思いました。自民党に忖度したと言えばそう言えないこともありませんが、私には穿ちすぎのような気がしました。