武蔵小杉駅~立川駅~武蔵五日市駅~「仲の平」バス停~【数馬峠】~【笹ヶタワノ峰】~「浅間尾根登山口」バス停~武蔵五日市駅~立川駅~武蔵小杉駅
※山行時間:約6時間(休憩等含む)
※山行距離:約6.5キロ
※累計標高差:登り約488m 下り約392m
※山行歩数:約18,000歩
※交通費:3,808円
一昨日、奥多摩の笹尾根を歩きました。前回の1年3ヶ月ぶりの山行から既にひと月の間が空いてしまいました。
雨が続いたかと思えば、つかの間の晴れ間は「熱中症警報」が発令されるような酷暑で、山どころではなかったのです。
早朝5時すぎの東横線に乗って武蔵小杉駅。武蔵小杉駅から南武線で立川駅。立川駅から武蔵五日市線の直通電車で武蔵五日市駅。武蔵五日市駅に到着したのは7時すぎでした。そして、駅前から7時20分発の「数馬行き」のバスに乗って、終点の「数馬」のひとつ手前のこのブログではおなじみの「仲の平」(檜原村)のバス停まで行きます。「仲の平」まで約1時間かかりますが、半分も進まないうちに乗客は私だけになりました。これもいつものことです。
実は前日にいったん出かけたのです。武蔵小杉まで行き、南武線の改札口に向っている際、首にサコッシュがかかってないことに気付いたのでした。サコッシュには、財布や健康保険証やクスリなどが入っています。もっとも、普段の移動はモバイルスイカを使っていますので、スマホさえあれば支障はないのですが、とは言え、心はまだアナログ人間なので一抹の不安がありました。それで、山行を中止して自宅に戻ることにしたのでした。ちなみに、翌日の山行では、財布をサコッシュから一度も出すことはありませんでした。
登山口がある「仲の平」のバス停に着くと、外は雨になっていました。それもかなり雨脚が強く、山の方も霧におおわれています。前回(と言っても一昨年)下山で使った道を登ろうと計画していましたので、傘を差してバス停から民家の横の細い道を川の方に下って行きました。その際、民家から出て来たおばさんに出くわしました。
「おはようございます」と挨拶したら、「今から山に登るんですか?」と訊かれたので「そうです」と答えたら、「生憎の雨で大変ですね。気を付けて下さいね」と言われました。
川まで下りると、そこは昔のキャンプ場の跡になっています。朽ちたバンガローが数軒、そのまま残っています。炊事場だったところに屋根があるので、そこで雨宿りを兼ねて山に登る支度をはじめました。
40分以上待ったけどいっこうに雨が止む気配がないので、しびれを切らして雨具を着て登ることにしました。途中の伐採地まで結構な登りが続きます。
私は笹尾根には今まで冬か秋しか来たことがなく、夏は初めてでした。道中は草が繁茂して半分藪漕ぎみたいなところもあり、同じ山だとは思えないくらい様相が変わっていました。もちろん、山行中誰にも会うことはありませんでした。
息が上がり足も重くてなりませんでした。それに雨具を着ているので、外気と湿気で水を被ったように全身汗びっしょりになり、よけい疲労感が増します。雨も止む気配がなく、情け容赦なく叩きつけてきます。
30分近く歩くと、ようやく登りがいったん緩む伐採地に出ることができました。既に疲労困憊でした。でも、山の中なので雨宿りができる建物などあろうはずもありません。
それで、木の下にあった倒木に座って、休憩がてら雨脚が弱くなるのを待つことにしました。天気予報によれば、1~2時間経てば雨が止むはずです。
再び傘を差してうずくまるように座り、おにぎりを頬張っていたら、何だか情けなくて泣きたいような気持になりました。でも一方で、「やっぱりひとりがいいなあ」と心の中で呟いている自分もいました。自己愛の強い私は、そんな孤独な自分が嫌いではないのです。
30~40分待つと、空も明るくなり雨脚も急速に衰えてきました。雨具を脱いで再び歩きはじめたのですが、1年以上のブランクとまだ少し痛みが残っている膝の影響もあって、足を前に進めるのがつらくてなりませんでした。それに、同じ道とは思えないほどの景色の違いにも、心が萎えるばかりでした。全身から吹き出す汗に水も減る一方です。水は2.5リットル持って来ましたが、既に1リットル以上飲んでいました。
山に登ることほど孤独な営為はありません。常に自分と向き合い、自分と葛藤しながら足を出して登っているのです。しかも、その自分は文字通り素の自分です。そこにいるのは、ハァーハァー息を切らし鼻水を垂らしながらネガティブな気持と戦っている、何の後ろ盾もない非力な自分です。
普段の生活のように、自分を強く見せたり、大きく見せたりすることもできないのです。自然の前にいる自分は何と非力で小さな存在なのかとただただ思い知るだけです。
前も書きましたが、ヨーロッパ由来のアルピニズムでは、山は「征服」するものでした。アダム・スミスの研究者である山口正春氏(日本大学教授)が下記の論稿でも指摘しているように、西洋の自然観は『聖書』の「天地創造説」に影響されています。つまり、「神が自然(世界)を創造し、『神の似像』として人間を創り、人間が支配し、食糧とするために自然が与えられている」という考えです。そのように、「元々キリスト教の教義の中には『自然支配』の思想、さらに『人間中心主義』が包含されていた」のでした。
山口正春
西洋の自然観とその問題点
私たちは、「人間中心主義」と言うと、ルネッサンスのような人間賛歌、ヒューマニズムの原点のように思いがちですが、しかし、それは「自然支配」と表裏の関係にあるものにすぎないのです。ヨーロッパ由来のアルピニズムに、軍隊用語がふんだんに使われているのも故なきことではないのです。
それに対して、日本人は古来から自然に対して畏敬の念を持っていました。とりわけ山岳信仰などはその代表的なものでしょう。また、採集経済においては恵みを与えてくれるものとして、そして、畑作や稲作の農耕文化が伝来すると雨乞い信仰の対象として、山を崇拝するようになりました。山は「征服」するものでなく、「ありがたい」ものだったのです。
文字通りほうほうの体で笹尾根上の数馬峠(標高1102メートル)に着いたときは、既に12時をまわっていました。登山アプリのコースタイムより1時間以上多く時間がかかってしまいした。
他の季節だと、数馬峠からは山梨県側の眺望がひらけているのですが、大きく茂った灌木が邪魔をしている上に、まだ水蒸気が下から上に登っている最中だったということもあり、正面にそびえる権現山(標高1312メートル)の大きな山容もほどんど雲に隠れていました。その先には富士山も望めるのですが、もちろん、姿かたちもありません。
笹尾根は、東京都(檜原村)と山梨県(上野原市)の間に延びている、標高1000メートル前後の都県境尾根です。檜原村からは尾根の上に向っていくつも道が伸びています。それこそ、檜原街道沿いのバス停があるところからは大概登山道があるくらいです。そして、尾根の上からは、今度は山梨側に向って道が下っているのでした。さらに尾根上にもそれらをつなぐ道が走っています。
私たちが今登っている道は、昔の人たちの生活道路だったのです。そうやって双方を行き来したり、尾根の上で物々交換をしていたのです。尾根を越えて反対側の集落に嫁ぐ例さえあったそうです。ちなみに、数馬峠というのは東京側の呼び名で、山梨側は「上平峠」と呼ぶみたいです。
私の奥多摩歩きのバイブルである『奥多摩 山、谷、峠、そして人』(山と渓谷社)の中で、著者の山田哲哉氏は、今から110年前の1909年、田部重治が東京帝国大学の先輩である木暮理太郎と二人で、笹尾根を歩いたことを「日本初の縦走路 笹尾根」と題して書いていました。二人は、奥多摩の小仏峠から景信山、陣馬山、和田峠を経て奥多摩に入り、途中、浅間峠のあたりで1泊したあと、西原峠まで笹尾根を歩いたのでした。私も田部重治の『山と渓谷』で、その山行について書かれたエッセイを読みましたが、実は二人の最終目的は笹尾根ではなく、笹尾根を経由して雲取山に登ることだったです。
そのため、三頭山の手前の西原峠から上野原側の郷原へ下山して鶴峠を越え、今の奥多摩湖畔の川野から(恐らく鴨沢ルートで)雲取山に登っているのでした。しかも、田部重治は、それが初めての本格的な登山だったそうです。山田氏は、二人のこの「壮大な山行」が日本で初めての「縦走登山」だったと書いていました。
笹尾根は、広義に解釈して三頭山から高尾山まで40キロ近くの縦走路をそう呼ぶ人もいますが、実際は、三頭山から浅間峠までの20キロあまりを笹尾根と呼ぶのが正しいようです。
山田氏は、笹尾根について、次のように書いています。
このブログにもたびたび出て来るように、私は笹尾根が好きで、今までも何度も歩いています。
前も書きましたが、田部井淳子さんも冬の笹尾根を歩くのが好きだったそうです。今の笹尾根は、檜原街道を挟んで反対側にある浅間尾根に比べると歩く人が少ないのですが、たまたま山中で一緒になった女性ハイカーに話を聞くと、やはり田部井さんの足跡を辿って歩いている人も多いようです。
数馬峠には、たしかベンチが二つあったはずです。ところがベンチが見当たりません。一瞬、「エッ、これが数馬峠?」と思ってしまいました。よく見ると、ベンチは原型をとどめないくらい朽ちて崩壊していました。私はその荒れように少なからずショックを受けました。
仕方なくベンチの残骸の上に腰を下ろすと、バリバリと木が折れてさらに崩壊してしまいました。ザックからおにぎりを出して食べようとすると、コバエが集まって来て食べるどころではありませんでした。しかも、どこからか蟻も這い出てきてスタッフバッグの上を我が物顔に徘徊しているのでした。そのため、ザックに戻すのにくっ付いた蟻をいちいち払い落さなければなりませんでした。
雨のあがった夏空からは強烈な陽光が容赦なく照り付けています。じっとしていても汗が吹き出して、ひっきりなしに水を飲みました。
と、そのときでした。山梨側の方から「オッ、オッ」というようなやや甲高い鳴き声が聞こえてきたのでした。山梨側にも道が通っているはずですが、藪に覆われて踏み跡も判明しないほどかなり荒れていました。最初、猟犬かと思いましたが(山中でGPSのアンテナを装着した猟犬に遭遇すると腰をぬかすほどびっくりしますが)どうも犬の鳴き声のようには思えません。何だろうと思っていたら、ふと、山の中で「おーい、おーい」と人を呼ぶような声が聞こえたら注意した方がいいという話を思い出したのでした。
「おーい、おーい」というのは、仔熊が母熊を呼んでいる鳴き声なのだそうです。私は、首から下げている笛を「ピーピー」と吹きました。しかし、鳴き声は止みません。それで、あわててザックを背負うとその場をあとにしたのでした。あとで気付いたのですが、その際、カメラのレンズのキャップを落としたみたいです。
冷静になって考えると、熊だったという確証はなく、いつものひとり芝居だったのかもしれないと思いました。誰にも会わずにひとりで山の中を歩くのが好きだと言いながら、このように過剰に熊に怯える自分もいるのでした。前方にある枯れ木や岩が熊に見えることもしょっちゅうです。そんなときは枯れ木や岩に向って懸命に笛を吹いているのでした。
当初の予定では数馬峠から7キロくらい先にある浅間峠から下る予定でしたが、時間が押していたので計画を変更して、数馬峠の先にある笹ヶタワノ峰(標高1121メートル)から「浅間尾根登山口」のバス停に下りることにしました。
「浅間尾根登山口」は「仲の平」から三つ手前のバス停です。2年前も反対側の浅間峠から歩いて来て下りたことがありますし、また、浅間尾根(浅間嶺)に登る際に下車したこともありました。
下の方は「中央区の森」になっているため道も整備され、2年前はそれこそ鼻歌交じりで下りたものですが、今回は痛い方の膝をかばうように歩いたので、前回の倍くらい時間がかかりました。そのため、鼻歌どころではなく、やたら時間が長く感じて苦痛を覚えるばかりでした。
バス停に下りたのが15時すぎで、武蔵五日市駅行きのバスは出たばかりでした。15時台のバスはないので、次は16時すぎです。1時間以上も待たねばなりません。仕方なくバス停のベンチにひとりぽつんと座ってバスを待ちました。もちろん、やって来たバスには乗客は誰も乗ってなくて、来たときと同じ私ひとりだけでした。
武蔵五日市駅からは朝と逆コースを帰りましたが、電車の連絡がスムーズに行ったので、横浜の自宅に帰り着いたのは19時半すぎでした。
翌日はオミクロン株BA.5の感染爆発に怖れをなしてワクチン接種に行ったのですが、太腿に筋肉痛はあったものの、接種会場の階段を下りる際、セサミンのテレビCMに出ているおばさんのようにトントントンと下ることができたので、自分でもびっくりしました。
関連記事:
田部重治「高山趣味と低山趣味」
若い女性の滑落死と警鐘
※オリジナルの画像はサムネイルをクリックしてください。

閉鎖されたキャンプ場の炊事場


途中の伐採地から



数馬峠からの眺望

数馬峠の朽ちたベンチ


笹ヶタワノ峰から下る


途中の大羽根山(標高992メートル)

「中央区の森」の中のヌタ場
※沼田場(ヌタ場)とは、イノシシやシカなどの動物が、体表に付いているダニなどの寄生虫や汚れを落とすために泥を浴びるぬたうちを行う場所のこと。(ウィキペディアより)

「中央区の森」の中にある炭焼き小屋
※体験用の炭焼き小屋です。

「浅間尾根登山口」バス停

反対側のバス停
バス停の上から下りて来ました。
※山行時間:約6時間(休憩等含む)
※山行距離:約6.5キロ
※累計標高差:登り約488m 下り約392m
※山行歩数:約18,000歩
※交通費:3,808円
一昨日、奥多摩の笹尾根を歩きました。前回の1年3ヶ月ぶりの山行から既にひと月の間が空いてしまいました。
雨が続いたかと思えば、つかの間の晴れ間は「熱中症警報」が発令されるような酷暑で、山どころではなかったのです。
早朝5時すぎの東横線に乗って武蔵小杉駅。武蔵小杉駅から南武線で立川駅。立川駅から武蔵五日市線の直通電車で武蔵五日市駅。武蔵五日市駅に到着したのは7時すぎでした。そして、駅前から7時20分発の「数馬行き」のバスに乗って、終点の「数馬」のひとつ手前のこのブログではおなじみの「仲の平」(檜原村)のバス停まで行きます。「仲の平」まで約1時間かかりますが、半分も進まないうちに乗客は私だけになりました。これもいつものことです。
実は前日にいったん出かけたのです。武蔵小杉まで行き、南武線の改札口に向っている際、首にサコッシュがかかってないことに気付いたのでした。サコッシュには、財布や健康保険証やクスリなどが入っています。もっとも、普段の移動はモバイルスイカを使っていますので、スマホさえあれば支障はないのですが、とは言え、心はまだアナログ人間なので一抹の不安がありました。それで、山行を中止して自宅に戻ることにしたのでした。ちなみに、翌日の山行では、財布をサコッシュから一度も出すことはありませんでした。
登山口がある「仲の平」のバス停に着くと、外は雨になっていました。それもかなり雨脚が強く、山の方も霧におおわれています。前回(と言っても一昨年)下山で使った道を登ろうと計画していましたので、傘を差してバス停から民家の横の細い道を川の方に下って行きました。その際、民家から出て来たおばさんに出くわしました。
「おはようございます」と挨拶したら、「今から山に登るんですか?」と訊かれたので「そうです」と答えたら、「生憎の雨で大変ですね。気を付けて下さいね」と言われました。
川まで下りると、そこは昔のキャンプ場の跡になっています。朽ちたバンガローが数軒、そのまま残っています。炊事場だったところに屋根があるので、そこで雨宿りを兼ねて山に登る支度をはじめました。
40分以上待ったけどいっこうに雨が止む気配がないので、しびれを切らして雨具を着て登ることにしました。途中の伐採地まで結構な登りが続きます。
私は笹尾根には今まで冬か秋しか来たことがなく、夏は初めてでした。道中は草が繁茂して半分藪漕ぎみたいなところもあり、同じ山だとは思えないくらい様相が変わっていました。もちろん、山行中誰にも会うことはありませんでした。
息が上がり足も重くてなりませんでした。それに雨具を着ているので、外気と湿気で水を被ったように全身汗びっしょりになり、よけい疲労感が増します。雨も止む気配がなく、情け容赦なく叩きつけてきます。
30分近く歩くと、ようやく登りがいったん緩む伐採地に出ることができました。既に疲労困憊でした。でも、山の中なので雨宿りができる建物などあろうはずもありません。
それで、木の下にあった倒木に座って、休憩がてら雨脚が弱くなるのを待つことにしました。天気予報によれば、1~2時間経てば雨が止むはずです。
再び傘を差してうずくまるように座り、おにぎりを頬張っていたら、何だか情けなくて泣きたいような気持になりました。でも一方で、「やっぱりひとりがいいなあ」と心の中で呟いている自分もいました。自己愛の強い私は、そんな孤独な自分が嫌いではないのです。
30~40分待つと、空も明るくなり雨脚も急速に衰えてきました。雨具を脱いで再び歩きはじめたのですが、1年以上のブランクとまだ少し痛みが残っている膝の影響もあって、足を前に進めるのがつらくてなりませんでした。それに、同じ道とは思えないほどの景色の違いにも、心が萎えるばかりでした。全身から吹き出す汗に水も減る一方です。水は2.5リットル持って来ましたが、既に1リットル以上飲んでいました。
山に登ることほど孤独な営為はありません。常に自分と向き合い、自分と葛藤しながら足を出して登っているのです。しかも、その自分は文字通り素の自分です。そこにいるのは、ハァーハァー息を切らし鼻水を垂らしながらネガティブな気持と戦っている、何の後ろ盾もない非力な自分です。
普段の生活のように、自分を強く見せたり、大きく見せたりすることもできないのです。自然の前にいる自分は何と非力で小さな存在なのかとただただ思い知るだけです。
前も書きましたが、ヨーロッパ由来のアルピニズムでは、山は「征服」するものでした。アダム・スミスの研究者である山口正春氏(日本大学教授)が下記の論稿でも指摘しているように、西洋の自然観は『聖書』の「天地創造説」に影響されています。つまり、「神が自然(世界)を創造し、『神の似像』として人間を創り、人間が支配し、食糧とするために自然が与えられている」という考えです。そのように、「元々キリスト教の教義の中には『自然支配』の思想、さらに『人間中心主義』が包含されていた」のでした。
山口正春
西洋の自然観とその問題点
私たちは、「人間中心主義」と言うと、ルネッサンスのような人間賛歌、ヒューマニズムの原点のように思いがちですが、しかし、それは「自然支配」と表裏の関係にあるものにすぎないのです。ヨーロッパ由来のアルピニズムに、軍隊用語がふんだんに使われているのも故なきことではないのです。
それに対して、日本人は古来から自然に対して畏敬の念を持っていました。とりわけ山岳信仰などはその代表的なものでしょう。また、採集経済においては恵みを与えてくれるものとして、そして、畑作や稲作の農耕文化が伝来すると雨乞い信仰の対象として、山を崇拝するようになりました。山は「征服」するものでなく、「ありがたい」ものだったのです。
文字通りほうほうの体で笹尾根上の数馬峠(標高1102メートル)に着いたときは、既に12時をまわっていました。登山アプリのコースタイムより1時間以上多く時間がかかってしまいした。
他の季節だと、数馬峠からは山梨県側の眺望がひらけているのですが、大きく茂った灌木が邪魔をしている上に、まだ水蒸気が下から上に登っている最中だったということもあり、正面にそびえる権現山(標高1312メートル)の大きな山容もほどんど雲に隠れていました。その先には富士山も望めるのですが、もちろん、姿かたちもありません。
笹尾根は、東京都(檜原村)と山梨県(上野原市)の間に延びている、標高1000メートル前後の都県境尾根です。檜原村からは尾根の上に向っていくつも道が伸びています。それこそ、檜原街道沿いのバス停があるところからは大概登山道があるくらいです。そして、尾根の上からは、今度は山梨側に向って道が下っているのでした。さらに尾根上にもそれらをつなぐ道が走っています。
私たちが今登っている道は、昔の人たちの生活道路だったのです。そうやって双方を行き来したり、尾根の上で物々交換をしていたのです。尾根を越えて反対側の集落に嫁ぐ例さえあったそうです。ちなみに、数馬峠というのは東京側の呼び名で、山梨側は「上平峠」と呼ぶみたいです。
私の奥多摩歩きのバイブルである『奥多摩 山、谷、峠、そして人』(山と渓谷社)の中で、著者の山田哲哉氏は、今から110年前の1909年、田部重治が東京帝国大学の先輩である木暮理太郎と二人で、笹尾根を歩いたことを「日本初の縦走路 笹尾根」と題して書いていました。二人は、奥多摩の小仏峠から景信山、陣馬山、和田峠を経て奥多摩に入り、途中、浅間峠のあたりで1泊したあと、西原峠まで笹尾根を歩いたのでした。私も田部重治の『山と渓谷』で、その山行について書かれたエッセイを読みましたが、実は二人の最終目的は笹尾根ではなく、笹尾根を経由して雲取山に登ることだったです。
そのため、三頭山の手前の西原峠から上野原側の郷原へ下山して鶴峠を越え、今の奥多摩湖畔の川野から(恐らく鴨沢ルートで)雲取山に登っているのでした。しかも、田部重治は、それが初めての本格的な登山だったそうです。山田氏は、二人のこの「壮大な山行」が日本で初めての「縦走登山」だったと書いていました。
笹尾根は、広義に解釈して三頭山から高尾山まで40キロ近くの縦走路をそう呼ぶ人もいますが、実際は、三頭山から浅間峠までの20キロあまりを笹尾根と呼ぶのが正しいようです。
山田氏は、笹尾根について、次のように書いています。
起伏が少なく、山上に広々とした地形をもつ笹尾根は、その尾根自体が生活を支える重要な場所であった。ここ20年ほどの間に広葉樹が繁茂し、かつてのような一面カヤトは少なくなっても、40年ほど前までは、茅葺き屋根の材料だったカヤを得る場所として、明るい展望とともに随所に美しい茅原が広がりを見せていた。今でも、峠道を少し下れば炭焼き窯の跡が点々と残っている。
(『奥多摩 山、谷、峠、そして人』)
このブログにもたびたび出て来るように、私は笹尾根が好きで、今までも何度も歩いています。
前も書きましたが、田部井淳子さんも冬の笹尾根を歩くのが好きだったそうです。今の笹尾根は、檜原街道を挟んで反対側にある浅間尾根に比べると歩く人が少ないのですが、たまたま山中で一緒になった女性ハイカーに話を聞くと、やはり田部井さんの足跡を辿って歩いている人も多いようです。
数馬峠には、たしかベンチが二つあったはずです。ところがベンチが見当たりません。一瞬、「エッ、これが数馬峠?」と思ってしまいました。よく見ると、ベンチは原型をとどめないくらい朽ちて崩壊していました。私はその荒れように少なからずショックを受けました。
仕方なくベンチの残骸の上に腰を下ろすと、バリバリと木が折れてさらに崩壊してしまいました。ザックからおにぎりを出して食べようとすると、コバエが集まって来て食べるどころではありませんでした。しかも、どこからか蟻も這い出てきてスタッフバッグの上を我が物顔に徘徊しているのでした。そのため、ザックに戻すのにくっ付いた蟻をいちいち払い落さなければなりませんでした。
雨のあがった夏空からは強烈な陽光が容赦なく照り付けています。じっとしていても汗が吹き出して、ひっきりなしに水を飲みました。
と、そのときでした。山梨側の方から「オッ、オッ」というようなやや甲高い鳴き声が聞こえてきたのでした。山梨側にも道が通っているはずですが、藪に覆われて踏み跡も判明しないほどかなり荒れていました。最初、猟犬かと思いましたが(山中でGPSのアンテナを装着した猟犬に遭遇すると腰をぬかすほどびっくりしますが)どうも犬の鳴き声のようには思えません。何だろうと思っていたら、ふと、山の中で「おーい、おーい」と人を呼ぶような声が聞こえたら注意した方がいいという話を思い出したのでした。
「おーい、おーい」というのは、仔熊が母熊を呼んでいる鳴き声なのだそうです。私は、首から下げている笛を「ピーピー」と吹きました。しかし、鳴き声は止みません。それで、あわててザックを背負うとその場をあとにしたのでした。あとで気付いたのですが、その際、カメラのレンズのキャップを落としたみたいです。
冷静になって考えると、熊だったという確証はなく、いつものひとり芝居だったのかもしれないと思いました。誰にも会わずにひとりで山の中を歩くのが好きだと言いながら、このように過剰に熊に怯える自分もいるのでした。前方にある枯れ木や岩が熊に見えることもしょっちゅうです。そんなときは枯れ木や岩に向って懸命に笛を吹いているのでした。
当初の予定では数馬峠から7キロくらい先にある浅間峠から下る予定でしたが、時間が押していたので計画を変更して、数馬峠の先にある笹ヶタワノ峰(標高1121メートル)から「浅間尾根登山口」のバス停に下りることにしました。
「浅間尾根登山口」は「仲の平」から三つ手前のバス停です。2年前も反対側の浅間峠から歩いて来て下りたことがありますし、また、浅間尾根(浅間嶺)に登る際に下車したこともありました。
下の方は「中央区の森」になっているため道も整備され、2年前はそれこそ鼻歌交じりで下りたものですが、今回は痛い方の膝をかばうように歩いたので、前回の倍くらい時間がかかりました。そのため、鼻歌どころではなく、やたら時間が長く感じて苦痛を覚えるばかりでした。
バス停に下りたのが15時すぎで、武蔵五日市駅行きのバスは出たばかりでした。15時台のバスはないので、次は16時すぎです。1時間以上も待たねばなりません。仕方なくバス停のベンチにひとりぽつんと座ってバスを待ちました。もちろん、やって来たバスには乗客は誰も乗ってなくて、来たときと同じ私ひとりだけでした。
武蔵五日市駅からは朝と逆コースを帰りましたが、電車の連絡がスムーズに行ったので、横浜の自宅に帰り着いたのは19時半すぎでした。
翌日はオミクロン株BA.5の感染爆発に怖れをなしてワクチン接種に行ったのですが、太腿に筋肉痛はあったものの、接種会場の階段を下りる際、セサミンのテレビCMに出ているおばさんのようにトントントンと下ることができたので、自分でもびっくりしました。
関連記事:
田部重治「高山趣味と低山趣味」
若い女性の滑落死と警鐘
※オリジナルの画像はサムネイルをクリックしてください。

閉鎖されたキャンプ場の炊事場


途中の伐採地から



数馬峠からの眺望

数馬峠の朽ちたベンチ


笹ヶタワノ峰から下る


途中の大羽根山(標高992メートル)

「中央区の森」の中のヌタ場
※沼田場(ヌタ場)とは、イノシシやシカなどの動物が、体表に付いているダニなどの寄生虫や汚れを落とすために泥を浴びるぬたうちを行う場所のこと。(ウィキペディアより)

「中央区の森」の中にある炭焼き小屋
※体験用の炭焼き小屋です。

「浅間尾根登山口」バス停

反対側のバス停
バス停の上から下りて来ました。