元『週刊現代』編集長の元木昌彦氏がPRESIDENT Onlineに連載する下記の記事に、旧統一教会に関して「衝撃的」とも言えるようなことが書かれていました。それは、情報誌『エルネオス』(休刊)の2018年4月号で行われた、樋田毅氏との対談の中の話です。

PRESIDENT Online
だから「生ぬるい追及」しかできない…朝日新聞が認めない「統一教会側との談合」という信じがたい過去

一連の赤報隊事件の中で、朝日新聞阪神支局の記者2名が銃撃されたのは1987年5月3日ですが、当時、『朝日ジャーナル』は、霊感商法で多くの被害者を出している統一教会(当時)に対して、詐欺商法を糾弾するキャンペーンを行っていました。そのため、「社員のガキをひき殺す」という脅迫状が届いたり、朝日新聞に国際勝共連合の街宣車が押しかけたりしていたそうです。

樋田氏によれば、「朝日ジャーナル誌上で霊感商法批判の記事を書いた記者は、信者とみられる複数の男たちによって四六時中監視されていたし、娘さんが幼稚園に通う際、これらの男たちが付きまとうので、家族や知人が付き添っていた時期」もあったそうです。また、赤報隊事件の3日後には、東京本社に「とういつきょうかいのわるぐちをいうやつはみなごろしだ」という脅迫状が届き、その中には「使用済みの散弾容器二つが同封されていた」こともあったそうです。

朝日の大阪本社は赤報隊事件のあと専従取材班を組んで、事件の真相に迫るべく「地を這はうような取材」を行なうのですが(樋田氏はのちに専従取材班のキャップになる)、対談では次のような話が出て来ます。

【元木】  (略)襲撃事件の前に、対策部長と名乗る男が、「サタン側に立つ誰かを撃ったとしても許される」と、信者の前で言っていたとも書かれています。

統一教会は、当時、全国に二十六の系列銃砲店を持ち、射撃場も併設していた。樋田さんたちは、「勝共連合の中に秘密軍事部隊が存在していた」と話す信者にも会っていますね。

【樋田】  (略)秘密軍事部隊のほうは、脱会した元信者の紹介で、学生時代の仲間で、やはり脱会していた夫婦から、「三年前に脱会する直前まで秘密軍事部隊にいて、銃の射撃訓練も受けていた」と打ち明けていたというので会いましたが、朝日の記者と名乗って話を聞いていないので、当時は記事にできませんでした。


当時、旧統一教会が全国に銃砲店を持っていたとは驚きです。こんな宗教団体があるでしょうか。当時から旧統一教会の中に、ヨハネの黙示録に出てくる「鉄の杖」を「銃」と解釈する”裏教義”があったかもしれません。それが、今の七男が設立したサンクチュアリ教会に引き継がれているのではないか。

また、元木氏は次のようなことも書いていました。

  警察は新右翼の捜査は熱心にやってくれたようだが、統一教会への捜査は及び腰だったという。

  樋田氏はこうも話してくれた。

「明治大学の吉田忠雄教授から聞いた話ですが、元警察官僚で総理府総務副長官の経験もあった弘津恭輔氏が『勝共連合が少々むちゃをしても、共産党への対抗勢力だから許される』と発言したと聞いています」

  こういう警察側の姿勢が、統一教会を追い詰められなかった大きな要因ではなかったか、そうした疑問は残る。


ところが、さらに驚くべき話があります。記者たちが多くの脅迫や嫌がせにもめげず取材にかけまわっている中で、朝日新聞の上層部は統一教会との手打ちを模索し、事件から2年後の1988年に、統一教会と朝日新聞の幹部たちの間で実質的な「手打ち」をしていたことが判明したのでした。

統一教会と「内通」していたベテラン編集委員の仲介で、「広報担当の役員と東京本社編集局の局次長の二人が、世界日報の社長や編集局長らと会食」していたのです。会食は2回行われたそうです。

旧統一教会と政治、特に政権与党がズブズブの関係を築き、政治の深部まで旧統一教会に蚕食されたその傍らで、メディアや警察も、まるで政治に歩調を合わせるかのように、旧統一教会に対する姿勢をトーンダウンしていたのです。そうやって「保守」政治家たちが、「愛国」を隠れ蓑にして、「反日カルト」に「国を売っている」「日本終わった」現実が隠蔽されたのです。

にもかかわらず、今なお旧統一教会に対する批判に対して、政治と宗教は分けて考えるべきだ、信教の自由は尊重すべきだ、感情的になって解散を求めるのは極論だ、旧統一教会なんかよりもっと大事な政治案件がある、教団を「絶対悪」と見ること自体がカルト的思考だ、教団を叩くことは信仰二世の社会復帰を拒むことになる、などという声が出ているのでした。旧統一教会から見れば、そういったカルトの本質から目をそらした訳知り気な声は、願ってもない「利用価値のあるもの」と映るでしょう。実際に、そういった訳知り気な声は、「宗教弾圧」だと抗議する教団の論拠と多くの部分が重なっているのでした。どこまでトンマな「エバ国家」なんだろうと思います。

カルトである彼らは、バッシングが続いていても怯むことなどあり得ません。手を変え品を変え、いろんなダミー団体を使って活動を続けており、最近のキーワードは、「平和」「SDGs」「医療従事者支援」だそうです。自治体や公的な団体が後援しているからと言って油断はできないのです。

問題なのは、カルトが何たるかも考えずに、「リベラル」や「ヒューマニズム」の建前論を振りかざして、結果的にカルトに抜け道を与えているような人たちです。カルトはときに「リベラル」や「ヒューマニズム」を利用することもあるのです。そのことにあまりにも鈍感すぎるのです。

口幅ったい言い方をすれば、自分たちの自由を脅かす存在とどう向き合うか、自由を奪う存在にどこまで寛容であるべきか、旧統一教会をめぐる問題が、そういった「自由と寛容」という重いテーマを私たちに突き付けているのはたしかでしょう。

それは、私たち自身が、自分たちにとってカルトとは何かを問うことなのです。そのためには、まずカルトを知ることでしょう。その上で、自分たちの自由のリスクも勘案しながら、国家に対して「解散命令」なりを要求することなのです。

あの足立正生監督が、山上徹也容疑者を描いた映画を、国葬の日の公開に合わせて突貫工事で撮っているというニュースがありましたが、映画を撮ろうと思った動機について、「この事件は事件として扱われて、半年ぐらい1年ぐらいで忘れられる可能性すらある」ので、「そういったことにしちゃいけないと思った」からだと言っていました。また、「俺は山上徹也の映画を撮る。徹底的に山上のフォローに回る。公開は断固国葬の日にやる。これが俺の国家に対するリベンジだ」とも語っていたそうです。その言やよしと思いました。

足立正生監督が言うように、30年前のように大山鳴動して鼠一匹で終わらせてはならないのです。今また、当時と同じように、信教の自由や感情論を方便に、元の鞘に収めようとする言説が出始めているように思えてなりません。あまり騒ぐと信者や信仰二世が孤立して戻って来る場所がなくなるという、その手の言説は別に目新しいものではないのです。

じゃあ、ほとんど叩かれることがなかったこの30年の間に、信仰二世は孤立することなく社会に戻って来ることができたのか、と言いたいのです。どうして、山上徹也のような人物が出て来たのか、出て来ざるを得なかったのか。「リベラル」や「ヒューマニズム」の建前論をかざして事足りとするような人たちは、その根本のところをまったく見てないような気がしてなりません。

旧統一教会に関しては、信仰二世の問題だけではありません。政治との関係もあります。それらを貫くカルトの問題があります。「リベラル」や「ヒューマニズム」の身も蓋もない建前論でカルトに抜け道を与えた挙句、「統一教会はもう飽きた」「いつまで統一教会の話をしているんだ?」となったら元も子もないのです。それでは結局、信仰二世の問題も現状のまま置き去りにされることになりかねないでしょう。

カルトの規制に関して、フランスの「反カルト法」がよく引き合いに出されていますが、フランス在住のジャーナリストの広岡裕児氏が、『紙の爆弾』10月号で「反セクト法」について書いていました。

「反カルト法」は信教の自由を侵す危険性があるという主張がありますが、それについて、広岡氏は、フランスの「反セクト法」=「アブー・ピカール法」は、(カルトを)「精神操作(マインドコントロール)とそれを使う危険な団体と定義」しているにすぎず、「宗教とは関係ない」と書いていました。

  統一教会問題の本質は精神操作(マインドコントロール)である。ところが、宗教学者たちはいまでも宗教団体における精神操作(マインドコントロール)を認めていない。これを認めると、宗教には自由意思で入るという彼らの学問の基礎が崩れてしまうからだ。
  日本で四十年来議論が進まず統一教会が跋扈している責任の一端は宗教学者にある。
  いま提起されている統一教会と政治の関係は、「宗教(団体)」と政治の関係ではなく、「重大または繰り返しの圧力、またはその人の判断を変質させるのに適した技術の結果心理的または肉体的な服従の状態を創造し利用する団体」と政治の関係なのだ。
  宗教問題ではないから宗教団体の規制とは無縁である。既成宗教は何の心配もいらない。本質をみきわめて犠牲者を減らすことを考えるべきだ。
(『紙の爆弾』10月号・広岡裕児「『反カルト法』とは何か」)


現在、「フランスでは統一教会はなきに等しくなった」そうです。「でも、それは『反カルト法』で解散させられたからではない。法的根拠ができたために、追及を逃れようとさまざまなセクト的団体は、活動を穏健化させ、金銭的要求などもおさえている」からだそうです。つまり、法律の抑止効果のためなのです。

しかし、私は、カルトを宗教団体に限定せずに、「精神操作(マインドコントロール)とそれを使う危険な団体」と対象を団体一般に広げたことで、民主主義にとってはリスクが大きすぎるように思いました。そう考えると、個人的には、やはり現行法(宗教法人法)で対処するのが適切なように思います。

鈴木エイト氏によれば、今、教団がいちばん怖れているのが「解散命令」だそうですが、消費センターへの接触も、被害届(被害の拡大)を窓口で防ぐという狙いがあるのは明白です。それくらい教団も必死なのです。

「自身が信仰を望まない場合でも宗教活動を強制させられる」、いわゆる「宗教虐待」を受けている「統一教会の祝福2世」の方が、change.orgで、宗教虐待防止のための法律制定を求めるネット署名を立ち上げています。

change.org
【統一教会・人権侵害】宗教虐待防止のための法律制定を求めます。#宗教2世を助けてください #宗教2世に信教の自由を

その中で、「提言」と「問題の概要」について、次のように書かれていました。

【提言】
子供の基本的人権(信教の自由・幸福追求権など)を守るために必要な法律の整備をお願いします。
①虐待の定義に「宗教虐待」の概念を追加
②子供に対する宗教虐待の禁止、刑事罰化
③他者に対して宗教虐待を行うように指導する行為を厳罰化

【問題の概要】
多くの日本の宗教信者の子供(宗教2世)は「自身が信仰を望まない場合でも宗教活動を強制させられる」という問題を抱えています。(以後「宗教虐待」と呼びます。)

これは、宗教組織が存続するために、資金源・労働力となる信者が抜け出せない様な『歪んだ教義』を作り上げている事が大きな原因です。宗教組織が、更なる信者確保のために真っ先に狙うのは信者の子供です。宗教組織(特に新興宗教)が信者の子供を狙うのは常套手段なのです。

しかし、この問題は『非常にセンシティブな家庭内の問題』として日本社会は介入しません。蹂躙され続ける宗教2世の存在を、2世自身が独力のみで家族を捨てて脱会することの厳しさを日本社会は十分に認知せず、問題が存在しないものとして扱われてきました。日本の立法機関や行政機関による「家庭内の問題や宗教活動に対して強く干渉しない姿勢」がこれらの被害を増大させてきました。

宗教2世には、日本国憲法の定める『基本的人権』がありません。日本社会はこの人権蹂躙を許してはいけないと私は強く確信しています。これは宗教組織が仕組んだ『虐待』の問題なのです。

日本では信教の自由が認められているからこそ宗教組織は活動できる。一方その結果、信者の子供たちの人権が侵されています。


社会保障にしても、日本では「世帯」が基本です。まず家庭(家族)による自助努力が前提なのです。行政による援助はその先にしかありません。それは、カルトの問題も同じです。それが日本を「カルト天国」にした所以なのでしょう。

これを読むと、救済のための法整備とともに、教団の活動を規制する必要があるということがよくわかります。専門家の話では、マインドコントロールから脱するには、まず教団との連絡を絶つことが大事だそうです。信仰二世の問題の前には子どもを信仰に縛り付ける親の問題もありますが、いづれにしても本腰で彼らを救済しようと思えば、「解散命令」なりで教団の活動を規制することが前提なのです。そして、教団から引き剥がして、徐々にマインドコントロールを解くことから始めるしかないように思います。

なのに、それがどうして感情論に走るのは危険だとか、信仰二世を孤立させ苦しめるという話になるのか、私には理解できません。そういった主張は、30年前と同じ”元の木阿弥論”のようにしか聞こえないのです。「宗教虐待」を受ける子どもを親と教団に縛り付ける、非情な主張のようにしか思えないのです。もし、そういった”元の木阿弥論”の背景に、自民党と連立を組む公明党=創価学会の意向や忖度が存在しているとしたら、問題はもっと深刻だと言えるでしょう。

カルトは、信教の自由とは別の次元の話です。それを橋下徹や太田光のように、バカのひとつ覚えのように信教の自由で解釈しようとすると、あのようなトンチンカンな醜態を晒してしまうことになるのです。

30年前と同じ愚を繰り返してはならないのです。

※タイトルを変更しました。(9/12)
2022.09.09 Fri l 社会・メディア l top ▲