日本がバカだから戦争に負けた


とうとう角川歴彦会長に司直の手が伸びました。私は意地が悪いので、「ザマー」みたいな気持しかありません。

その前に、文春オンラインの次の記事が目に止まりました。

文春オンライン
「絶対に捕まらないようにします」元電通“五輪招致のキーマン”への安倍晋三からの直電

記事は、『文藝春秋』10月号に掲載されているジャーナリスト西崎信彦氏の「高橋治之・治則『バブル兄弟』の虚栄」の一部を転載したものですが、その中に次のような語りがあります。

  安倍政権が肝煎りで推進した五輪招致のキーマンとなる男は、当時の状況について知人にこう話している。

「最初は五輪招致に関わるつもりはなかった。安倍さんから直接電話を貰って、『中心になってやって欲しい』とお願いされたが、『過去に五輪の招致に関わってきた人は、みんな逮捕されている。私は捕まりたくない』と言って断った。だけど、安倍さんは『大丈夫です。絶対に高橋さんは捕まらないようにします。高橋さんを必ず守ります』と約束してくれた。その確約があったから招致に関わるようになったんだ」


この「五輪招致のキーマンとなる男」とは、言うまでもなく、先月17日に受託収賄容疑で東京地検特捜部に逮捕された、東京オリンピック・パラリンピック大会組織委員会の元理事の高橋治之容疑者です。

と言うことは、この事件も安倍案件だったのか。安倍元首相が亡くなってことによって、重しが取れて今までのうっぷんを晴らすかのように検察が動き出したのかもしれない。そんなことを考えました。

ここに来て、公安調査庁や警視庁公安部が、ひそかに旧統一教会を監視していたという話が出ています。ウソかホントか、週刊誌には、警視庁公安部が旧統一教会と安倍首相(当時)の関係を監視していた、という話さえ出ているのでした。

上記の「大丈夫です。絶対に高橋さんは捕まらないようにします。高橋さんを必ず守ります」という安倍首相の生々しい発言がホントなら、一連の摘発は、まさに検察・警察の(安倍元首相に対する)意趣返しとみることもできなくはないのです。もしかしたら、権力内部にそんな暗闘が生まれているのかも、などと思ったりもしました。

前の記事でも紹介した『日本がバカだから戦争に負けた  角川書店と教養の運命』(星海社新書)で、著者の大塚英志氏は、次のように書いていました。

  ぼくはプラットフォームを中世の楽市のような「無縁」的空間に譬えることができると思います。
「無縁」とは、それぞれのコミュニティ全てに対して「外部」です。この「外部」で物と物が流通するわけで、それが「市」です。これは世俗の外にあるのだけれど、同時に世俗の権力に拮抗する別の権力に支えられなくてはいけないわけです。(略)
  プラットフォームが既存のメディアや流通の外部で「自由」でありながら、しかしこの自由を誰が担保するのか、という問題ですね。今の日本のプラットフォーム企業はこれを「政権与党」に担保してもらうことを求めたわけです。プラットフォームの側は公共性の形成ではなく、マネタイジングを目的とし、与党に権力への同調圧力の装置を提供することで相互的関係を結んだからです。「楽市楽座」という無縁の場は、信長っていう新しい権力の庇護によって始めて可能になった。何が言いたいのかと言うと「無縁」という「外部の公共性」は旧権力からは自由ですが新しい権力の庇護がいる、ということです。それがwebという「無縁」と、「新しい権力」としての安倍以降の与党との「近さ」でも現れている。


そう言えば、ドワンゴが主催する「ニコニコ超会議」にも、2013年と2014年の2回、安倍首相が来場しています。また、夏野剛社長は、2019年に安倍首相によって、内閣府規制改革推進会議の委員に任命されています(2021年8月からは議長に指名)。

角川歴彦会長は、兄の角川春樹氏と確執があり、いったんは角川書店を追い出されたのですが、春樹氏がコカイン密輸事件等によって逮捕されたのに伴い、角川書店に戻ると、70年代からはじまった文化の「オタク化」「サブカルチャー化」を背景に、いっきにメディアミックス路線に舵を切り、ドワンゴとの合併にまで進むのでした。大塚英志氏は、それを「人文知」から「工学知」への転換だと言っていました。角川歴彦会長には、もともと「工学知」しかなく、だから、川上量生と馬が合ったのだと言うのです。

メディアミックスとオリンピックの公式スポンサーがどう関係あるのか、門外漢には今ひとつわかりませんが、要するに、79歳の鼻マスクの爺さんがネットの守銭奴たちの甘言に乗せられて暴走した挙句、いわくのある人物との闇取引に手を染めて晩節を汚した、という話なのではないか。かえすがえすも「ザマー」としか言いようがないのです。

本のタイトルの「日本がバカだから戦争に負けた」というのは、角川文庫の巻末に掲げられていた創業者・角川源義の「角川文庫発刊に際して」を、著者の大塚英志氏が評した言葉ですが、もっともその「名文」も、角川源義自身のオリジナルな文章ではなく、文豪に委託して書いて貰ったものだそうです。

角川書店と言えば、私たちは高校時代に使っていた漢和辞典の『字源』でなじみが深い出版社ですが、その『字源』も、千代田書院という出版社が大正時代から重ねてきた凸版を買い取ったものにすぎないのだとか。つまり、角川書店は、自社で開発したものは少なく、「リユースの刊行物が中心」の出版社で、今日のプラットフォーム企業としてのKADOKAWAに対しても、もともと整合性が高い企業体質を持っていた、と言っていました。

角川歴彦が好んで口にしていたのは、「ソーシャル社会」という馬が落馬した式のいわゆる重言(重ね言葉)ですが、それは「SNSでつながった社会」という意味です。

でも、大塚氏が言うように、SNSを使うということは、そのプラットホームに無意識のうちに自分自身を最適化する、しなければならない、ということでもあるのです。

その意味では、SNSは「自由な意見や自己表現の場」ではないのです。大塚氏は、アントニオ・ネグリのアウトノミア(自律)という言葉を使っていましたが、SNSは間違っても自律ではなく他律のシステムなのです。Twitterの言葉は、ロラン・バルトが言う「教養」なしでも読める「雑報」なのだと言います。それが「ソーシャル社会」なるものの本質です。

それは、次のように描かれる世界です。

  (略)角川の歴彦(ママ)のことばを借用すると、近代が構築して来た「社会」とは別に、「サブの社会」、今ふうに言えばオルタナティブな社会、あるいは、もう一つの社会、とでもいうべきものがそれぞれの国の中に今や存在しているということだ。それは、従来の階級とは異なったものだから、階級闘争は起きにくく、互いの憎悪によって対立する。貧困の問題も含め、今、起きているのは、階層化というよりは分裂なのである。


前にTwitterで新しい社会運動のスタイルが生まれると言ったリベラル系の”知識人”がいましたが、むしろ私は、SNSに依拠した社会運動の”危うさ”を感じてなりません。イーロン・マスクのTwitter買収問題に一喜一憂する「自由な言論」+社会運動って何なんだ、と言いたいのです。

日本に限っても、ネットと連動したメディアミックスやプラットフォームというと、何だか新しいもののように思いがちですが、しかし、何度も繰り返すように、日本のネット(プラットフォーム)企業には相も変らぬ、お代官様にへいつくばるような事大主義の発想しかないのです。日本のプラットホーム企業の「理念」のなさは「見事なもの」で、そもそもそう批判されても批判だと気づかないほどだ、と言っていましたが、その先にオリンピックの公式スポンサーという俗物根性があったと考えれば、何となく納得ができます(一部にはeスポーツの青田狩りという声もあるようですが)。

また、大塚英志氏は、「『保守』とか『日本』とかいう連中が『参照系』とする『日本』はひどく貧しいわけです」と言っていましたが、彼らにはそんな政治権力にすがる低俗な発想しかないのです。しかも、その「日本」にしても、隣国のカルト宗教が作成したテンプレートをトレースしたものにすぎなかったという散々たる光景を、現在いま、私たちは見せつけられているのです。

私も余計なお節介を言わせて貰えば、ニコニコ動画を根城にするネトウヨたちも、自分たちが安倍を介して「反日カルト」の走狗にさせられていた現実をぼつぼつ認めた方がいいのではないか、と思うのでした。でないと、これから益々「愛国」の始末ができなくなってしまうでしょう。帯にあるように、みんなが「バカ」になった時代の「次」も、やっぱり「バカ」だったではシャレにもならないのです。
2022.09.14 Wed l ネット l top ▲