何だかみんな死んでいくという感じです。

先達と呼んでもいいような、若い頃にその著書を読んでいたような人たちの訃報がこのところ相次いでいるのでした。最近はその著書なり映像なりに接する機会はありませんでしたので、なつかしさとない混ざったかなしくせつないしみじみとした気持になりました。もちろん、私よりはるかに年上で、しかも多くは90歳を越したような長寿の方ばかりです。

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森崎和江
6月15日逝去、享年95歳

詩人でノンフィクション作家の森崎和江氏は、総資本と総労働の戦いと言われた三井三池争議をきっかけに、谷川雁とともに筑豊の炭住(炭鉱労働者用の住宅)に移住し、同人誌『サークル村』などを発刊して、炭鉱夫たちへの聞き書きをはじめたのでした。その聞き書きは、『まっくら  女坑夫からの聞き書き』(岩波文庫)などに発表されています。また、『サークル村』は、のちに『苦海浄土』を書いた石牟礼道子氏や上野英信氏などのすぐれた記録文学も生み出しています。

森崎和江氏は、谷川雁との道ならぬ恋が有名ですが、その体験もあって、ボーヴォワールを彷彿とするような『第三の性 はるかなるエロス』や『闘いとエロス』(ともに三一書房)など女性性に関する著書も残しています。また、九州から東南アジアに娼婦として出稼ぎに行った女性たちの足跡を辿った『からゆきさん』(朝日文庫)というルポルタージュも多くの人に読まれました。

結局、敗北した闘争の総括をめぐって谷川雁と別れることになるのですが、一方、「東京に行くな」と言っていた谷川雁は、九州を捨てて上京してしまい、闘争に関係した人たちの顰蹙を買うことになります。

『原点が存在する』というのは谷川雁の著書ですが、森崎和江氏は、文字通り九州で「原点」を見続けた表現者だったのです。また、谷川雁は、『工作者宣言』で「大衆に向かっては断乎たる知識人であり、知識人に対しては鋭い大衆である」という有名な箴言を残したのですが、それを生涯実践したとも言えるように思います。

尚、上京した谷川雁は、役員として招かれた語学教育の会社の労働争議で、社員だった平岡正明と対立することになります。また、「連帯を求めて孤立を恐れず」という谷川雁の箴言は、10年後に東大全共闘のスローガンに用いられ話題になりました。

前に韓国を旅行した際、慶州を訪れるのに、『慶州は母の叫び声』(ちくま文庫)という本を読んだ記憶もあります。尚、私が最後に読んだのは、中島岳志氏との共著『日本断層論』でした。

関連記事:
『消えがての道』 九州に生きる

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山下惣一
7月10日逝去、享年86歳

山下惣一氏は、佐賀県在住の農民作家です。私は九州にいた頃、仕事で身近に見て来た農業や農村の現状について自分なりに考えることがあり、農や農村を考える集会などによく出かけていました。山下惣一氏は、そこで何度か会ったことがあります。著書ではユーモアを交えた飄々とした感じがありましたが、講演では、当時「猫の目農政」と言われた”理念なき農政”に対する怒りがふつふつと伝わってくるような話しぶりが印象的でした。その静かな怒りの背景にあるのは、”諦念の哀しみ”みたいなものもあったように思います。

私もその後、九州をあとにして再度上京することになったのですが、そのとき私の中にあったのも、田舎に対する同じような感情でした。

訃報に際して、朝日新聞の「天声人語」が山下氏を「田んぼの思想家」と称して、次のように書いていました。

朝日新聞デジタル
(天声人語)田んぼの思想家

  農作業を終え、家族が寝静まった後、太宰治やドストエフスキーを読み、村と農に思いをめぐらせる。きのう葬儀が営まれた農民作家山下惣一さんはそんな時間を愛した▼(略)山下さんは佐賀県唐津市出身。中学卒業後、父に反発し、2回も家出を試みる。それでも農家を継ぎ、村の近代化を夢見た。減反政策に応じ、ミカン栽培に乗り出すが、生産過剰で暴落する。「国の政策を信じた自分が愚かだった。百姓失格」と記した


谷川雁と山下惣一氏に接点があったのかどうかわかりませんが、「農作業を終え、家族が寝静まった後、太宰治やドストエフスキーを読み、村と農に思いをめぐらせる」その後ろ姿には、まぎれもなく「大衆に向かっては断乎たる知識人であり、知識人に対しては鋭い大衆である」山下氏の生きざまが映し出されていたように思います。

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鈴木志郎康
9月8日逝去、享年87歳

鈴木志郎康氏は、私自身が何故かずっと気になっていた詩人でした。何故、そんなに気になっていたのか、このブログでも書いています。

私が気になっていた「亀戸」の詩は、鈴木氏がまだNHKに勤務していた頃の作品ですが、「亀戸」という地名が当時九州で蟄居していた私の心に刺さるものがあったのだと思います。九州の山間の町の丘の上にあるアパートの部屋で、その詩を読んだ当時の私を思い出すと、今でも胸が締め付けられるような気持になるのでした。

関連記事:
「亀戸」の詩

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ジャンリュック・ゴダール
9月13日、享年91歳

もちろん、私は、ヌーヴェルヴァーグの旗手と言われた頃のゴダールを同時代的に観ているわけではありません。ただ、予備校の授業をほっぽり出してアテネ・フランセの映画講座に通っていた私は、当然ながらゴダールの作品も観ていました。

ゴダールと言えば、トリュフォーとともに「カンヌ国際映画祭粉砕」を叫んで会場に乗り込んだ話が有名ですが、海外の映画祭で受賞することばかりを欲して、いじましいような映画ばかり撮っている今の風潮を考えると、あの時代は遠くなったんだなと思わざるを得ないのでした。

私はまだ10代でしたが、アテネ・フランセの上映会で、足立正生監督の『赤軍 PFLP・世界戦争宣言』を観たとき、ゴダールに似ているなと思ったことを覚えています。その際、ゲストで来ていた監督に対して、カメラの目の前でパレスチナの兵士が撃たれたらどうするか、カメラを置いて銃を取るのか、というような質問があったのですが、それからほどなく監督はパレスチナに旅立ったのでした。

ある日、新宿の紀伊国屋書店に行ったら、ゴダールの映画ポスターの販売会のようなものをやっていて、階段の上に、買ったばかりの「中国女」だったかのポスターを持ち、もう片方の手に缶ピー(缶入りのピース)を持った長髪の同世代の若者が、物憂げに座っていたのが目に入りました。その姿が妙にカッコよく見えたのを覚えています。

あの頃は、論壇にもまだ新左翼的な言説が残っていたということもあって、近所で幽霊屋敷と呼ばれるような実家に住んでいると噂された小川徹が編集長の『映画芸術』や松田政男の『映画批評』なども、過激で活気がありました。まさに、缶ピーが似合う時代でもあったのです。

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たしかに”時代の意匠”というのはあるのだと思います。大塚英志ではないですが、私たちの時代、厳密に言えば、私たちより前の時代は、今では信じられないくらい「人文知」が幅をきかせる(ことができた)時代だったのです。そんな時代の残り火を追い求めていた私は、間違いなくミーハーだったと言っていいでしょう。でも、そんなことがミーハーになれる時代だったのです。
2022.09.16 Fri l 訃報・死 l top ▲