エリザベス女王の国葬の模様が連日、歯の浮いたような賛辞とともにテレビで放送されています。まるで大英帝国の残虐な侵略の歴史を、忘却の彼方に追いやったかのようなお追従のオンパレードです。
今の時代に国王なんてあり得ないだろう、などと言おうものなら、それこそひねくれものの戯言のように言われかねないような雰囲気です。
イギリスの立憲君主制は昔の王政とは違うんだ、特別なんだ、という声が聞こえてきそうですが、でも、それってただ君主制を延命させるための方便にすぎないのではないか、と思ってしまいます。
そうまでしてどうして君主制を延命させなければならないのか。そう言うと、イギリスは連邦国家なので、国民を統合する象徴が必要なんだ、などとどこかで聞いたことのある台詞が聞こえてきそうです。
もっとも、イギリス連邦というのは、大英帝国の侵略史の残り滓みたいなものでしょう。やはり、イギリス国民の中には、左右を問わず、未だに”過去の栄光”を捨てきれない気持があるんじゃないか、と思ったりします。EU離脱も、同じ脈絡で考えると腑に落ちる気がします。
またぞろこの国の左派リベラルのおっさんやおばさんたちの中から、安倍元首相の国葬はノーだけど、エリザベス女王の国葬はイエスだ、という声が出て来ないとも限らないでしょう。
何故か日本には、イギリスは法の支配が確立した立憲主義の元祖のような国なので、今のような理想的な立憲君主制が生まれたのだ、と言う人が多いのですが、そのためか、二大政党制を志向する政治改革だけでなく、”開かれた皇室”など天皇制のあり方などにおいても、日本はイギリスをお手本にしているフシがあります。
しかし、イギリス王室の血塗られた歴史を見てもわかるとおり、君主制は所詮君主制であって、民主主義にとって不合理且つ不条理な存在であるのは否定すべくもないのです。それに、イギリス連邦も日本で見るほど一枚岩ではなく、スコットランドの独立も現実味を帯びつつあると言われています。
一方、日本でも1週間後に、エリザベス女王とは比ぶべくもない「反日カルト」の木偶みたいな人物の国葬を控えていますが、安倍派の世耕弘成参院幹事長は、先日の同派の会合で、国葬について、憲政史上最長の8年8カ月間、首相の地位を担った「その地位に対する敬意としての国葬だ」と強調したそうです。
日本国憲法は、第14条に、「すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」と謳っていますが、世耕氏が言うような理由で、国費を使って国葬を行うのは、まさに法の下の平等に反する行為と言ってもいいでしょう。学校の授業で、子どもから憲法との整合性について疑問が出されたら、教師はどのように説明するつもりなのか、と心配になりました。
余談ですが、ひろゆきは、いくら反対だからと言って、葬式のときくらいは静かに見送るべきだ、とトンチンカンなことを言ってましたが、葬儀は既に7月12日に増上寺で終えているのです。国葬と言っても、実際は「お別れ会」のようなものです。そもそも賠償金を踏み倒したことを得意げに語るような人物から、冠婚葬祭の礼節を説かれる筋合いはないでしょう。何だか説教強盗に遭ったような気持になるのでした。
もうひとつ余談を言えば、自民党の村上誠一郎元行政改革担当相は、国葬に欠席する旨をあきらかにした上で、安倍元首相について、「財政、金融、外交をぼろぼろにし、官僚機構まで壊した。国賊だ」と批判していました。どこぞの痩せたソクラテスになれない肥った豚や仔犬も笑ってる愉快なサザエさんに聞かせてやりたい話です。二人は、村上氏の爪の垢でも煎じて飲んだ方がいいでしょう。(※この部分はあとで追記しました)
時事ドットコムニュース
安倍氏国葬を欠席へ 自民・村上氏
岸田首相は、今回の国葬について、内閣府設置法を根拠に決定した、と言っていますが、しかし、今回の国葬は、同法が定める「内閣の儀式・行事」ではなく、岸田首相自身も明言しているように「国の儀式」なのです。であるならば、どう考えても、「天皇の国事行為」を模したとしか思えません。岸田首相は、政治=統治権力の外部にある、天皇制という「法の下の平等」を超越した擬制の中から、国葬の理屈を引っ張り出して、自分たちに都合がいいように解釈したにすぎないのでしょう。
それは、国葬だけではありません。そのときどきに、政治=統治権力の外部にある天皇制という”治外法権”の中から都合のいい理屈を引っ張り出して来るのが、日本の政治、統治の特徴です。そして、その先にあるのが丸山眞男が言う日本特有の無責任体制です。
丸山眞男は、日本の近代政治における無責任体制の原型を明治憲法に見るのですが、そのメカニズムは、当然ながら戦後憲法下にも貫かれています。
つまり、日本人が好きな「連帯責任」みたいなものは、いつでも無責任(体制)に反転し得るということです。「みんなで渡れば怖くない」というのは、集団の中に埋没して「誰も責任を取らない」日本人の精神性を表しているのです。
今回の国葬は、莫大な税金を使った文字通りの”お手盛り”と言えるでしょう。そこにあるのは、国家を私物化する政権与党の世も末のような醜態です。それはまた、「愛国」を唱えながら「反日カルト」に「国を売っていた」「保守」政治家たちの”国賊”行為にも通底するものです。(ブルーリボンのバッチを胸に付け)日の丸に拝礼して、「天皇陛下バンザイ」とか「日本バンザイ」と叫んでおけば、どんなことでも許されるという無責任体制。
その傍らでは、下記に書いているように、人知れず亡くなり、誰も立ち会う人もなく荼毘に伏され、無縁仏として「処理」される人々もいます。同じ国の国民とは思えないこの天と地の違い。国葬には、そんな「社会的身分」や「門地」で差別される、国家の構造が露わになっているように思えてなりません。でも、政治家はいわずもがなですが、家畜化された国民も、「自己責任だ」「自業自得だ」などとアホ丸出しで天に唾するようなことを言って、その国家の構造を見ようとはしないのです。
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今の時代に国王なんてあり得ないだろう、などと言おうものなら、それこそひねくれものの戯言のように言われかねないような雰囲気です。
イギリスの立憲君主制は昔の王政とは違うんだ、特別なんだ、という声が聞こえてきそうですが、でも、それってただ君主制を延命させるための方便にすぎないのではないか、と思ってしまいます。
そうまでしてどうして君主制を延命させなければならないのか。そう言うと、イギリスは連邦国家なので、国民を統合する象徴が必要なんだ、などとどこかで聞いたことのある台詞が聞こえてきそうです。
もっとも、イギリス連邦というのは、大英帝国の侵略史の残り滓みたいなものでしょう。やはり、イギリス国民の中には、左右を問わず、未だに”過去の栄光”を捨てきれない気持があるんじゃないか、と思ったりします。EU離脱も、同じ脈絡で考えると腑に落ちる気がします。
またぞろこの国の左派リベラルのおっさんやおばさんたちの中から、安倍元首相の国葬はノーだけど、エリザベス女王の国葬はイエスだ、という声が出て来ないとも限らないでしょう。
何故か日本には、イギリスは法の支配が確立した立憲主義の元祖のような国なので、今のような理想的な立憲君主制が生まれたのだ、と言う人が多いのですが、そのためか、二大政党制を志向する政治改革だけでなく、”開かれた皇室”など天皇制のあり方などにおいても、日本はイギリスをお手本にしているフシがあります。
しかし、イギリス王室の血塗られた歴史を見てもわかるとおり、君主制は所詮君主制であって、民主主義にとって不合理且つ不条理な存在であるのは否定すべくもないのです。それに、イギリス連邦も日本で見るほど一枚岩ではなく、スコットランドの独立も現実味を帯びつつあると言われています。
一方、日本でも1週間後に、エリザベス女王とは比ぶべくもない「反日カルト」の木偶みたいな人物の国葬を控えていますが、安倍派の世耕弘成参院幹事長は、先日の同派の会合で、国葬について、憲政史上最長の8年8カ月間、首相の地位を担った「その地位に対する敬意としての国葬だ」と強調したそうです。
日本国憲法は、第14条に、「すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」と謳っていますが、世耕氏が言うような理由で、国費を使って国葬を行うのは、まさに法の下の平等に反する行為と言ってもいいでしょう。学校の授業で、子どもから憲法との整合性について疑問が出されたら、教師はどのように説明するつもりなのか、と心配になりました。
余談ですが、ひろゆきは、いくら反対だからと言って、葬式のときくらいは静かに見送るべきだ、とトンチンカンなことを言ってましたが、葬儀は既に7月12日に増上寺で終えているのです。国葬と言っても、実際は「お別れ会」のようなものです。そもそも賠償金を踏み倒したことを得意げに語るような人物から、冠婚葬祭の礼節を説かれる筋合いはないでしょう。何だか説教強盗に遭ったような気持になるのでした。
もうひとつ余談を言えば、自民党の村上誠一郎元行政改革担当相は、国葬に欠席する旨をあきらかにした上で、安倍元首相について、「財政、金融、外交をぼろぼろにし、官僚機構まで壊した。国賊だ」と批判していました。どこぞの痩せたソクラテスになれない肥った豚や仔犬も笑ってる愉快なサザエさんに聞かせてやりたい話です。二人は、村上氏の爪の垢でも煎じて飲んだ方がいいでしょう。(※この部分はあとで追記しました)
時事ドットコムニュース
安倍氏国葬を欠席へ 自民・村上氏
岸田首相は、今回の国葬について、内閣府設置法を根拠に決定した、と言っていますが、しかし、今回の国葬は、同法が定める「内閣の儀式・行事」ではなく、岸田首相自身も明言しているように「国の儀式」なのです。であるならば、どう考えても、「天皇の国事行為」を模したとしか思えません。岸田首相は、政治=統治権力の外部にある、天皇制という「法の下の平等」を超越した擬制の中から、国葬の理屈を引っ張り出して、自分たちに都合がいいように解釈したにすぎないのでしょう。
それは、国葬だけではありません。そのときどきに、政治=統治権力の外部にある天皇制という”治外法権”の中から都合のいい理屈を引っ張り出して来るのが、日本の政治、統治の特徴です。そして、その先にあるのが丸山眞男が言う日本特有の無責任体制です。
丸山眞男は、日本の近代政治における無責任体制の原型を明治憲法に見るのですが、そのメカニズムは、当然ながら戦後憲法下にも貫かれています。
明治憲法において「殆ど他の諸国の憲法には類例を見ない」大権中心主義(美濃部達吉の言葉)や皇室自律主義をとりながら、というよりも、まさにそれ故に、元老・重臣など超憲法的存在の媒介によらないでは国家意思が一元化されないような体制がつくられたことも、決断主義(責任の帰属)を明確化することを避け、「もちつもたたれつ」の曖昧な行為連関(神輿担ぎに象徴される!)を好む行動様式が冥々に作用している。「補弼」とはつまるところ、統治の唯一の正当性の源泉である天皇の意思を推しはかると同時に天皇への助言を通じてその意思に具体的内容を与えることにほかならない。さきにのべた(引用者註:「國體」にみられる「抱擁主義」と表裏一体の)無限責任のきびしい倫理は、このメカニズムにおいては巨大な無責任への転落の可能性をつねに内包している。
(丸山眞男『日本の思想』岩波書店)
つまり、日本人が好きな「連帯責任」みたいなものは、いつでも無責任(体制)に反転し得るということです。「みんなで渡れば怖くない」というのは、集団の中に埋没して「誰も責任を取らない」日本人の精神性を表しているのです。
今回の国葬は、莫大な税金を使った文字通りの”お手盛り”と言えるでしょう。そこにあるのは、国家を私物化する政権与党の世も末のような醜態です。それはまた、「愛国」を唱えながら「反日カルト」に「国を売っていた」「保守」政治家たちの”国賊”行為にも通底するものです。(ブルーリボンのバッチを胸に付け)日の丸に拝礼して、「天皇陛下バンザイ」とか「日本バンザイ」と叫んでおけば、どんなことでも許されるという無責任体制。
その傍らでは、下記に書いているように、人知れず亡くなり、誰も立ち会う人もなく荼毘に伏され、無縁仏として「処理」される人々もいます。同じ国の国民とは思えないこの天と地の違い。国葬には、そんな「社会的身分」や「門地」で差別される、国家の構造が露わになっているように思えてなりません。でも、政治家はいわずもがなですが、家畜化された国民も、「自己責任だ」「自業自得だ」などとアホ丸出しで天に唾するようなことを言って、その国家の構造を見ようとはしないのです。
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