安倍元首相の国葬が火曜日(27日)に行われますが、それに合わせて都内の駅ではゴミ箱が使えないように封がされ、車内でも「ゴミはお持ち帰り下さい」という放送がくり返し流されていました。ここは山か、と思いました。
トイレも警察官が定期的に見まわっているようですが、だったらどこかの山のように、簡易トイレ持参で「糞尿もお持ち帰り下さい」と放送すればいいんじゃないか、と思いました。
この分では登山帰りに大きなザックを背負って歩いていると、職務質問されないかねないような雰囲気です。また、駅の構内でも各所に警察官が配備され、あたりに鋭い視線を走らせています。彼らの目には、目の前を行き交う国民がみんなテロリストに見えているのかもしれません。
全国から2万人の警察官が動員された「厳戒体制」というのは、さながら戒厳令下にあるようなものものしさですが、そうやって恫喝まがいの国家の強い意志を私たちに示しているのだと思います。
一方、テレビ各局も当日は特集番組を組んでいるそうです。国家の要請に従って、「歴史的な一日」を演出するつもりなのでしょう。
どんなに反対意見が多かろうが、最後は国家が求める”日常”に回収されるのです。自民党の二階俊博元幹事長は、「(オリンピックと同じように)終わったら反対していた人たちも、必ずよかったと思うはず」と発言していましたが、そうやって「必ずよかったと思う」ように仕向けるのでしょう。実際に、オリンピックも最後には「やってよかった」という意見が多数になったのでした。
国民なんて所詮そんなものという声が、どこからか聞こえてくるようです。二階は別に耄碌なんかしていないのです。彼の大衆観は間違ってないのです。
『ZAITEN』の今月号のコラムで、古谷経衡氏は、次のように書いていました。
安倍元首相が「反日カルト」と一心同体だった、「保守」や「愛国」が虚構だった、という事実を彼らは何としてでも否定しなければならないのです。でないと、自分たちの存在理由がなくなってしまいます。
しかし、旧統一教会が「反日カルト」であることは、もはや否定しようもない事実です。安倍家が三代にわたって旧統一教会と深い関係にあったのも、否定しようがないのです。彼らが依拠する「愛国」や「反共」も、「反日カルト」からの借り物でしかなかったことがはっきりしたのです。だったら、とりあえず現実を「黙殺」して、「安倍さん、ありがとう」と引かれ者の小唄のように虚勢を張って、その場を取り繕うしかないのでしょう。
もとより、旧統一教会や旧統一教会と政治の関わりを叩くことは、山上容疑者の犯罪を肯定することになるという、ネトウヨや三浦瑠麗や太田光などにおなじみの論理も、きわめて歪んだ話のすり替えにすぎません。彼らは、もはやそんなところに逃げ込むしかないのです。
そんな彼らにとって、たとえば、27日の国葬に合わせて公開される映画「REVOLUTION+1」などは、とても看過できるものではないでしょう。その苛立ちは尋常ではありません。
今の20数年ぶりの円安もアベノミクスの負の遺産ですが、国家ともども長い間“安倍の時代”に随伴し、我が世の春を謳歌してきた者たちにとって、”安倍の時代”の終わりはあまりにもショッキングで受け入れがたいものだったはずです。
何度も言うように、山上徹也容疑者の犯行がなかったら、安倍元首相と「反日カルト」の関係が白日の下に晒されることもなかったのです。旧統一教会めぐる問題が、こんなにメディアに取り上げられることもなかったのです。山上容疑者の犯行をどう考えようが、そのことだけは否定しようのない事実でしょう。
ただ、旧統一教会をめぐる問題でも、有象無象の人間たちが蠢いているという話もあり、(変な言い方ですが)一筋縄ではいかないのです。別に旧統一教会に限りませんが、なにせ相手はお金を持っている宗教団体なのでアメとムチはお手のものです。
前も書きましたが、信仰二世の問題も、言われるほど単純な問題ではないように思います。カルトに反対しているからとか、脱会運動をしているからというだけで、”正義”だとは限らないのです。
笑えないお笑い芸人もいますが、一方で、カルトをお笑いにして(嘲笑して)お金を稼いでいる反カルトもいます。今は、そんなミソもクソも一緒くたになった状況にあることもたしかでしょう。
また、国葬は国民を「分断」する愚行だという識者の声も多く聞かれます。たとえば、朝日の「国葬を考える」という特集でも、「『国葬』が引き起こした国民の分断」とか「国葬で人々はつながれるのか 岸田首相に求められる『包摂の言葉』」などという見出しに象徴されるように、「分断」を危惧する声が目立ちました。
朝日新聞デジタル
国葬を考える
でも、そういった論理は、結局、二階が言うような「(オリンピックと同じように)終わったら反対していた人たちも、必ずよかったと思うはず」という国家が求める”日常”に回収されるだけの、日本の新聞特有のオブスキュランティズムの言葉でしかありません。宮台真司が言う「現実にかすりもしない言葉」にすぎないのです。識者たちは、新聞のフォーマットに従ってものを言っているだけなのです。
そんな中で、どこまで事件が掘り下げられているのかわかりませんが、この映画のような”直球”は貴重な気がします。「国葬反対」と言っても、こういった国家と正面から向き合う”直球”の言葉はきわめて少ないのです。
未だに左翼だとか右翼だとか、そんな思考停止した言葉しか使うことができない不自由な人間も多くいますが、映画でも文学でも、表現するということが、世の中の公序良俗に盾突くことは当然あるでしょうし、表現者なら、それを躊躇ってならないのは言うまでもありません。
2万人の警察官に守られて挙行される国葬に、ひとりの老映画監督がみずからの作品を対置するという(不埒な)行為こそ、自由な表現の有り得べき姿が示されている、と言っても過言ではないのです。
ネットには、映画の公開を前にメイキング動画がアップされていました。
企画・脚本は井上淳一。撮影監督は三谷幸喜作品にも名を連ねるあの高間賢治。音楽はドラマ「あまちゃん」の大友良英。予算わずか700万円の映画であっても、足立正生監督の心意気に、こんな豪華なメンバーが集まったのです。
今回上映されるのは、未編集のラッシュで、正式な劇場公開は年末だそうです。都内の上映会に予約しようとしたら、いづれもSOLDOUTでした。
トイレも警察官が定期的に見まわっているようですが、だったらどこかの山のように、簡易トイレ持参で「糞尿もお持ち帰り下さい」と放送すればいいんじゃないか、と思いました。
この分では登山帰りに大きなザックを背負って歩いていると、職務質問されないかねないような雰囲気です。また、駅の構内でも各所に警察官が配備され、あたりに鋭い視線を走らせています。彼らの目には、目の前を行き交う国民がみんなテロリストに見えているのかもしれません。
全国から2万人の警察官が動員された「厳戒体制」というのは、さながら戒厳令下にあるようなものものしさですが、そうやって恫喝まがいの国家の強い意志を私たちに示しているのだと思います。
一方、テレビ各局も当日は特集番組を組んでいるそうです。国家の要請に従って、「歴史的な一日」を演出するつもりなのでしょう。
どんなに反対意見が多かろうが、最後は国家が求める”日常”に回収されるのです。自民党の二階俊博元幹事長は、「(オリンピックと同じように)終わったら反対していた人たちも、必ずよかったと思うはず」と発言していましたが、そうやって「必ずよかったと思う」ように仕向けるのでしょう。実際に、オリンピックも最後には「やってよかった」という意見が多数になったのでした。
国民なんて所詮そんなものという声が、どこからか聞こえてくるようです。二階は別に耄碌なんかしていないのです。彼の大衆観は間違ってないのです。
『ZAITEN』の今月号のコラムで、古谷経衡氏は、次のように書いていました。
(略)現在の右派界隈を総覧すると、統一教会と自民党(安倍家・清話会)との関係については、黙殺とする姿勢が多数を占めている。それは統一教会には一切触れずに、ひたすら安倍時代を回顧するというノスタルジー的姿勢で、実際に今年9月号の『WiLL』『Hanada』両誌は事前協定でもあったかのように「安倍回顧・ありがとう特集」を組み、表紙は揃って安倍晋三氏である。
(『ZAITEN』10月号・「『政治と宗教』で返り血を浴びる言論人」)
安倍元首相が「反日カルト」と一心同体だった、「保守」や「愛国」が虚構だった、という事実を彼らは何としてでも否定しなければならないのです。でないと、自分たちの存在理由がなくなってしまいます。
しかし、旧統一教会が「反日カルト」であることは、もはや否定しようもない事実です。安倍家が三代にわたって旧統一教会と深い関係にあったのも、否定しようがないのです。彼らが依拠する「愛国」や「反共」も、「反日カルト」からの借り物でしかなかったことがはっきりしたのです。だったら、とりあえず現実を「黙殺」して、「安倍さん、ありがとう」と引かれ者の小唄のように虚勢を張って、その場を取り繕うしかないのでしょう。
もとより、旧統一教会や旧統一教会と政治の関わりを叩くことは、山上容疑者の犯罪を肯定することになるという、ネトウヨや三浦瑠麗や太田光などにおなじみの論理も、きわめて歪んだ話のすり替えにすぎません。彼らは、もはやそんなところに逃げ込むしかないのです。
そんな彼らにとって、たとえば、27日の国葬に合わせて公開される映画「REVOLUTION+1」などは、とても看過できるものではないでしょう。その苛立ちは尋常ではありません。
今の20数年ぶりの円安もアベノミクスの負の遺産ですが、国家ともども長い間“安倍の時代”に随伴し、我が世の春を謳歌してきた者たちにとって、”安倍の時代”の終わりはあまりにもショッキングで受け入れがたいものだったはずです。
何度も言うように、山上徹也容疑者の犯行がなかったら、安倍元首相と「反日カルト」の関係が白日の下に晒されることもなかったのです。旧統一教会めぐる問題が、こんなにメディアに取り上げられることもなかったのです。山上容疑者の犯行をどう考えようが、そのことだけは否定しようのない事実でしょう。
ただ、旧統一教会をめぐる問題でも、有象無象の人間たちが蠢いているという話もあり、(変な言い方ですが)一筋縄ではいかないのです。別に旧統一教会に限りませんが、なにせ相手はお金を持っている宗教団体なのでアメとムチはお手のものです。
前も書きましたが、信仰二世の問題も、言われるほど単純な問題ではないように思います。カルトに反対しているからとか、脱会運動をしているからというだけで、”正義”だとは限らないのです。
笑えないお笑い芸人もいますが、一方で、カルトをお笑いにして(嘲笑して)お金を稼いでいる反カルトもいます。今は、そんなミソもクソも一緒くたになった状況にあることもたしかでしょう。
また、国葬は国民を「分断」する愚行だという識者の声も多く聞かれます。たとえば、朝日の「国葬を考える」という特集でも、「『国葬』が引き起こした国民の分断」とか「国葬で人々はつながれるのか 岸田首相に求められる『包摂の言葉』」などという見出しに象徴されるように、「分断」を危惧する声が目立ちました。
朝日新聞デジタル
国葬を考える
でも、そういった論理は、結局、二階が言うような「(オリンピックと同じように)終わったら反対していた人たちも、必ずよかったと思うはず」という国家が求める”日常”に回収されるだけの、日本の新聞特有のオブスキュランティズムの言葉でしかありません。宮台真司が言う「現実にかすりもしない言葉」にすぎないのです。識者たちは、新聞のフォーマットに従ってものを言っているだけなのです。
そんな中で、どこまで事件が掘り下げられているのかわかりませんが、この映画のような”直球”は貴重な気がします。「国葬反対」と言っても、こういった国家と正面から向き合う”直球”の言葉はきわめて少ないのです。
未だに左翼だとか右翼だとか、そんな思考停止した言葉しか使うことができない不自由な人間も多くいますが、映画でも文学でも、表現するということが、世の中の公序良俗に盾突くことは当然あるでしょうし、表現者なら、それを躊躇ってならないのは言うまでもありません。
2万人の警察官に守られて挙行される国葬に、ひとりの老映画監督がみずからの作品を対置するという(不埒な)行為こそ、自由な表現の有り得べき姿が示されている、と言っても過言ではないのです。
ネットには、映画の公開を前にメイキング動画がアップされていました。
「REVOLUTION+1」コメント動画公開
— 足立正生映画ニュース (@adachigumi22) September 22, 2022
足立正生(監督)「石投げてさざなみが起こって それは必ず大きな輪を描きながら広がるだろう」
タモト清嵐(主演)「誰かがやるなら 自分がやりたかった」 pic.twitter.com/DKbpjLFnGU
企画・脚本は井上淳一。撮影監督は三谷幸喜作品にも名を連ねるあの高間賢治。音楽はドラマ「あまちゃん」の大友良英。予算わずか700万円の映画であっても、足立正生監督の心意気に、こんな豪華なメンバーが集まったのです。
今回上映されるのは、未編集のラッシュで、正式な劇場公開は年末だそうです。都内の上映会に予約しようとしたら、いづれもSOLDOUTでした。