
ノンフィクション作家の佐野眞一氏が9月26日に亡くなった、というニュースがありました。
私が佐野氏の本の中で印象強く残っているのは、何と言っても『東電OL殺人事件』(新潮社)です。事件が発生してから15年後に再審請求が認められ、服役していたネパール人男性の無罪が確定するというドラマチックな展開もあって、事件のことを書いた私のブログの記事に、一日で4万を越えるアクセスが殺到したという出来事もありました。
佐野氏の著書でベストスリーをあげれば、『東電OL殺人事件』の他に、『あんぽん 孫正義伝』(小学館)と大宅ノンフィクション賞を取った『旅する巨人 宮本常一と渋沢敬三』(文藝春秋)です。
佐野氏は、民俗学者の宮本常一に私淑しており、宮本常一に関する本を多く書いています。ノンフィクションを「現代の民俗学」とも言っていました。宮本の聞き書きは、ルポルタージュの取材と通じるところがあり、そういった宮本の取材方法に惹かれるところがあったのかもしれません。
佐野氏は、著書で、ノンフィクションは「固有名詞と動詞の文芸である」と書いていたそうですが、佐野氏の特徴は、仮にテーマが事件や企業であっても、その中心に人物を据え、その人物を通してテーマの全体像を描写していることです。そのスタイルは終始一貫していました。だから一方で、橋下徹を扱った「ハシシタ・奴の本性」(週刊朝日)のような勇み足を招いてしまうこともあったのだろう、と思います。
また、私もこのブログで、木嶋佳苗のことを何度も書いていますが、彼女に対する記事に関しても、トンチンカンな感じは免れずがっかりしたことがありました。
佐野氏のようなスタイルでノンフィクションを書くと、どうしても主観的な部分が表に出てしまうので、ときに氏の粗雑で一方的な人間観が露呈することもあったように思います。
もちろん、溝口敦氏の記事を盗用・剽窃したような負の部分も見過ごしてはなりません。「ノンフィクション界の巨人」という呼び方もいささかオーバーな気もしました。
竹中労は、『ルポライター事始』(ちくま文庫)で、「車夫・馬丁・ルポライター」と書いていました。そして、彼らに向けて、次のようにアジっていました。
ピラニアよ、狼よ群れるな! むしろなんの保証も定収入もなく、マスコミ非人と蔑視される立場こそ、もの書きとしての個別自由な生き様、死に様はあるだろう。
佐野氏は、大手出版社に囲われている”大家”のような感じがありましたので、竹中労が言うような一匹オオカミのルポライターのイメージとはちょっと違っていました。それが、夜郎自大な盗用・剽窃事件にもつながったのかもしれません。
佐野氏自身、橋下徹に対する”筆禍事件”で筆を折ると言っていましたので(個人的には、筆を折るほどのことではなかったと思いますが)、最近どんな活動をしていたのかわかりませんが、しかし、昨今の言論をとりまく状況には、古くからの書き手として忸怩たるものがあったはずです。
たまたまYouTubeで竹中労の動画を観ていたら、竹中労が、『失楽園』で有名な17世紀のイギリスの詩人、ジョン・ミルトンが書いた『アレオパジティカ』の中の次のような言葉を紹介しているのが目に止まりました。
「言論は言論とのみ戦うべきであり、必ずやセルフライティングプロセス(自動調律性)がはたらいて、正しい言論だけが生き残り、間違った言論は死滅するであろう。私たちものを書く人間が依って立つべきところは他にない」
『言論・出版の自由 アレオパジティカ』が出版されたのは1644年ですが、同書は、当時、政府による検閲と出版規制が復活したことに対して、それを批判するために書かれた、言論・出版の自由に関する古典的な名著です。
ミルトンは、「Free and Open Market of Ideas」という言い方をしていますが、開放された自由な市場(場)で、喧々諤々の議論を戦わせれば、偽り(fake)は放逐され真実(truth)が勝つ。おのずと、そういった自律的な調整が行われる、と言っているのです。それが自由な言論ということです。
しかし、最近は、特にネットにおける言論に対して、規制を求める声が大きくなっています。メディア自身がそういった主張をしているのです。その声を受けて、10月1日からプロバイダ責任制限法が改正、施行されました。それに伴い、インターネットの発信者情報の開示に非訟手続が新設されて、手続きが簡略化されることになりました。これによって、誹謗中傷などを訴える際のハードルが低くなったと言われています。
ミルトンは、検閲がカトリック教会の“異端狩り”の中から生まれた概念であることを解き明かした上で、次のように言っています。
人は真理においても異端者でありうる。そして単に牧師がそう言うからとか、長老の最高会議でそう決まったからとかいうだけで、それ以外の理由は知らないで物事を信じるならば、たとえ彼の信ずるところは真実であっても、なお彼の信ずる真理そのものが異端となるのである。
また、竹中労は、同じ動画で、フランスの劇作家のジャン・ジロドゥが書いた『オンディーヌ』の中の「鳥どもは嘘は害があるとさえずるのではなく、自分に害があるものは嘘だと謡うのだ」という言葉も紹介していました。
どこまでが誹謗中傷で、どこまでが批判(論評)かという線引きは、(極端な例を除いては)きわめて曖昧です。というか、そもそもそういった線引きなど不可能です。
私も、このブログを17年書いていますが、私のような人間でさえ自由がどんどん狭められているのを感じます。この17年間でも、息苦しさというか、自然と忖度するような(させられるような)空気が広がっているのをひしひしと感じてなりません。
自分たちが他人を誹謗中傷しながら、二言目には名誉棄損だと言い立てるような「水は低い方に流れる」言説がネットには多く見られます。自分と異なる意見に対して、「言論でのみ戦う」のではなく、「異端審問官」の力を借りてやり込めようとするような「自分で自分の首を絞める」愚劣なやり方が、当たり前のようにまかり通っているのです。その最たるものがスラップ訴訟でしょう。
ユヴァル・ノア・ハラリなどが指摘していたように、新型コロナウイルスのパンデミックをきっかけに、国家の庇護や生活の便利さと引き換えに、自分たちの基本的権利を何のためらいもなく国家や企業に差し出すような、身も蓋もない風潮がいっそう加速されました。国家の側にも、政治的には中国を敵視する一方で、国家運営においては中国のようなIT技術を使った人民管理をお手本とするような本音が垣間見えるのでした。行政官の目には、中国のような徹底的に効率化された行政システムは理想に映るでしょう。
ネットの時代は、「総表現社会」の到来などと言われましたが、その言葉とは裏腹に、不自由な空気ばかりが広がっているような気がしてなりません。ネット社会は、文字通り“異端狩り”が常態化・日常化した社会でもあるのではないか、と思わざるを得ません。
今やYahoo!ニュースのようなネットのセカンドメディアをおおっているのは、手間とお金をかけない、子どもでも書けるようなコタツ記事ばかりです。ネットメディアだけでなく、スポーツ新聞や週刊誌のような旧メディアも、最後の悪あがきのように、ネット向けにコタツ記事を量産しています。それは、みずからが淘汰される運命にあることを認めたようなものでしょう。
不謹慎な言い方ですが、佐野眞一氏は、今の言論をとりまく惨憺たる状況の中で、亡くなるべくして亡くなった、と言っていいのかもしれません。彼のようなライターが書く場は、もうほとんど残ってないのです。
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