
(笹尾根)
久し振りに登山に関するYouTubeを観たら、登山ユーチューバーの中で既にやめていたり、休止状態のユーチューバーが結構いることがわかり、妙に納得できました。
登山ユーチューバーというのは、単に趣味で登山動画を上げている人のことではありません。直近の1年間で動画の総再生時間が4000時間を超えているとか、チャンネル登録者数が1000人以上など一定の条件を満たして、Googleからアドセンスなどの広告収益を得ている人たちです。
私も一時よくYouTubeの動画を観ていましたが、最近は観ることがめっきり少なくなりました。それはどのジャンルでも同じかもしれませんが、動画をあげるユーチューバーたちのあざとさみたいなものが透けて見えるようになったからです。でも、それは、上のGoogleから与えられた条件を満たすためには仕方ない一面もあります。
もともと他のジャンルに比べると、登山人口はそんなに多くありません。むしろ、ニッチのジャンルと言ってもいいでしょう。同じアウトドアでも、キャンプなどに比べると雲泥の差です。現在、アウトドアブームと言われていますが、それはキャンプに代表されるように、あくまで山の下の話なのです。
最近の世代は、デジタルネイティブと言われるように、生まれたときからデジタル機器に親しんでいたということもあり、コスパやタムパ(タイムパフォーマンス)を重視する傾向があり、スマホで動画を観る際も、早送りして観たり(=倍速視聴)飛ばしながら観たり(=スキップ再生)するのが特徴だと言われています。
そういったコスパやタムパを重視する世代にとって、登山なんて効率の悪い典型のような趣味です。実際に山に登るとわかりますが、登山は、倍速視聴やスキップ再生のような感覚とは対極にある、自分の体力とスキルと判断力しか頼るものがない、アナログで愚直で、それでいて文化的な要素もある、(スポーツとも言えないような)きわめて対自的な「スポーツ」です。どうしてわざわざあんなにきつくて、へたすれば怪我をするようなことをするのか理解できません、と言われたことがありますが、バカの高登りと言われれば、たしかにその通りなのです。
しかも、登る山は限られています。そのため、毎年紅葉シーズンになると、涸沢など人気の山にユーチューバーがどっと押しかけて、似たような動画があがることになるのです。私の知る限り、登山ユーチューバーが本格的に登場したのは、ここ3~4年くらいですが、紹介される山は既に一巡も二巡もしており、飽きられるのは当然と言えば当然なのです。
そもそも彼らの多くは、俄か登山愛好家にすぎません。普通はもっと時間をかけてステップアップするものです。私が山で会った女性は、登山歴は5年以上になるけど、尾根を歩くのが好きだったので、最初の2年くらいは頂上に登らないで尾根ばかり歩いていた、と言っていました。私も尾根が好きで、昔、地図で尾根や峠を探してはそこを訪ねて行くようなことをやっていましたので、その気持がよくわかりました。
紙の地図を見てあれこれ想像力をはたらかせる楽しみも、デジタルの時代になって失われました。「どんな鳥も想像力より高く飛べる鳥はいない」というのは、寺山修司の言葉ですが、「好き」という感覚には、必ず想像力(妄想)が付随するものです。それは山も同じです。そもそも登山というのは、どこかに人生が投影された非常に孤独な営為です。だから、登山が人を魅了するのでしょう。
私は、人が多い山が嫌いなので、平日しか山に行きませんが、ほとんど人に会うこともなくひとりで山を歩き、途中、疲れたのでザックをおろして地面に座り、水を飲みながらまわりの景色(と言ってもほとんどが樹林だけど)を眺めていると、突然、胸の奥から普段とは違った感情が込み上げてくることがあります。そんなとき、”身体的”ということを考えざるを得ません。ロックは外向的だけどジャズは内向的な音楽だ、とよく言われますが、その言い方になぞらえれば、登山はきわめて内向的な(スポーツならざる)「スポーツ」と言えるように思います。”身体”というのは、内に向かうものだということがよくわかるのでした。
中には、再生回数が見込める人気の山に登るために、飛び級で北アルプスなどに登っているユーチューバーもいますが、そんなユーチューバーにとって、登山はただお金と称賛を得るためのコンテンツにすぎないのかもしれません。そのため、思うように収益があがらないと、山に登るモチベーションも下がってしまうのでしょう。まるで業界人のように、「撮れ高」とか「尺」とか「視聴者さん」などと言っている彼らを見ると、最初から勘違いしているのではないか、と思ってしまうのでした。
結局、残るのは、若くてかわいい女性の動画だけという身も蓋もない話になるのです。山は二の次なのです。
そんな一部の女性ユーチューバーに、コロナ禍で苦境に陥った登山ガイドや山小屋や登山雑誌などが群がり、人気のおこぼれに預かろうという、あさましく涙ぐましい光景も見られるようになりました。ペストやスペイン風邪がそうであったように、新型コロナウイルスで街の風景も人々の意識も変わりましたが(これからもっと変わっていくでしょうが)、登山をめぐる光景も変わったのです。登山が軽佻浮薄な方向に流れることを”大衆化”と勘違いしているのかもしれませんが、それこそ貧すれば鈍する光景のようにしか思えません。
登山は、生活や人生に潤いや彩りをもたらすあくまで趣味にすぎないのです。あえてそんなクサイ言い方をしたいのです。そして、その中から、山に対する思いが育まれ、自分の登山のスタイルを見つけていくのです。その後ろには、平凡な日常やままならない人生が張り付いているのです。だから、「山が好きだ」と言えるのです。トレイル(道)を歩くことは哲学だ、とロバート・ムーア は言ったのですが、そのように登山というのは、ヒーヒー言って登りながら、自分と向き合い哲学しているようなところがあります。
YouTubeとは違いますが、東京都山岳連盟が実質的に主催し笹尾根をメインコースとするハセツネカップ(日本山岳耐久レース)が、今年も10月9日・10日に開かれましたが、ハセツネカップに関して、国立公園における自然保護の観点から、今年を限りに大会のあり方を見直す方向だ、というようなニュースがありました。
私から言えば、ハセツネカップこそ自然破壊の最たるものです。大会の趣旨には、長谷川恒男の偉業を讃えると謳っていますが、トレランの大会が長谷川恒男と何の関係があるのか、さっぱりわかりません。趣旨を読んでもこじつけとしか思えません。
笹尾根のコース上には、至るところにハセツネカップの案内板が設置されていますが、それはむしろ長谷川恒男の偉業に泥を塗るものと言えるでしょう。それこそ「山が好きだ」というのとは真逆にある、YouTubeの軽薄な登山と同じです。
丹沢の山などが地質の問題も相俟ってよく議論になっていますが、登山者が多く訪れる人気の山には、登山者の踏圧によって透水性が低下し表土が流出することで、表面浸食がさらに進むという、看過できない問題があります。ましてや、2000名のランナーがタイムを競って駆けて行くのは、登山者の踏圧どころではないでしょう。ランナーたちが脇目も振らずに駆けて行くそのトレイルは、昔、武州と甲州の人々が行き来するために利用してきた、記憶の積層とも言える古道なのです。
東京都山岳連盟は、「この、かけがえのない奥多摩の自然を護り育むことは、私どもに課せられた責務である」(大会サイトより)という建前を掲げながら、その問題に見て見ぬふりをして大会を運営してきたのです。都岳連の輝かしい歴史を担ってきたと自負する古参の会員たちも、何ら問題を提起することなく、参加料一人22000円(一般)を徴収する連盟の一大イベントに手弁当で協力してきたのです。
ちなみに、コースの下の同じ国立公園内に建設予定の産廃処理施設も、都岳連と似たような主張を掲げています。これほどの貧すれば鈍する光景はないでしょう。
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