外国為替市場の円相場で、とうとう1ドル=150円の大台に乗りました。これは32年ぶりの円安水準だそうです。
調べてみると、30年前の1990年の大納会の日経平均株価は2万3千848円71銭でした。前年(1989年)の大納会の株価は、3万8千915円87銭で、1年で約39%も下落しています。
つまり、1990年はバブルが崩壊した年であり、日本経済の「失われた30年」がはじまった年でもあったのです。
国税庁の「民間給与実態統計調査」によると、1990年の平均給与は425万2千円です。最新の2020年(令和2年)は433万円で、この30年間ほとんど上がってないことがわかります。
「鈴木俊一財務相は21日の閣議後の記者会見で、為替介入の可能性について、『過度な変動があった場合は適切な対応をとるという考えは、いささかも変わりない』と述べ、従来の発言を繰り返し、市場を牽制(けんせい)した」(朝日の記事より)そうです。
しかし、朝日の別の記事では、「政府の為替政策の責任者である財務官を務めた」渡辺博史・国際通貨研究所理事長の次のような発言を紹介していました。
朝日新聞デジタル
1ドル150円「国力低下を市場に見抜かれている」 元財務官の憂い
この円安は、日米の金利差によるものであることはたしかですが、ただ、それだけではないということです。てっとり早く言えば、「日本売り」でもあるのです。
ドルが実質的な世界の基軸通貨の役割を果たしていたことを考えれば、通貨安が、アメリカが唯一の超大国の座から転落して、世界が多極化するその副産物であるのは今さら言うまでもないでしょう。とりわけ、対米従属を国是とする日本はその影響が大きいとも言えますが、日本はアメリカの属国みたいな存在であるがゆえに多極化後の世界で生きる術がない、ビジョンを描けてない、という深刻な事情があります。渡辺博史・国際通貨研究所理事長が上記の記事で、「日本の国力全体に対する市場の評価が落ちてきている」というのは、そのことを指しているのだと思います。
鈴木俊一財務大臣が、いくら為替介入の可能性を示唆して市場を牽制しても、1日1千兆円の取引がある世界の為替市場の中で、円ドルの取引はわずか125兆円にすぎず、しかも、円安介入の原資である外国為替資金特別会計(外為特金)=外貨準備高は180兆円しかないのです。これでは、鈴木財務大臣の発言が、一時のマネーゲームに使われるだけなのは当然でしょう。介入が「砂漠に水をまくようなものだ」というのは、言い得て妙だと思いました。
一方で、日本と同じように対米従属の度合いが高いフィリピンやタイやマレーシアや韓国などの通貨も下落しており、アジア通貨危機の再来も懸念されています。前回と違って今回の通貨危機では、日本は主役のひとりになるのでしょう。
何度も言いますが、日本が先進国のふりをしていられるのは、2千兆円という途方もない個人の金融資産があるからです。もちろん、それは見栄を張るために食い潰されていくだけです。しかも、誰もがその恩恵にあずかることができるわけではありません。その恩恵にあずかれない人たちは、先進国とは思えないような生活を強いられ下のクラスに落ちていくしかないのです。
コロナ禍で企業も個人も、ものの考え方が大きく変わりました。私のまわりでも、会社を辞めて別の道を歩むという人間もいます。東京の生活が異常だということに気づいた、という声も聞くようになりました。電車が来てもないのに、駅の階段を駆け下りて行くような日常の異常さ、空しさに気づいたということでしょう。何だかそれは自己防衛のようにも思います。今の経済システムに身も心もどっぷりと浸かっていると、ドロ船と一緒に沈むしかないのです。
コロナ禍の前まで、中国人観光客はマナーが悪くて迷惑だなどと言っていたのに、コロナ禍を経て入国規制が緩和された途端、中国が一日も早くゼロコロナ政策を転換して中国人観光客が戻って来るのを、首を長くして待ちわびているようなことを言いはじめているのでした。岸田首相も、今国会の所信表明演説で、訪日外国人旅行者の消費額の目標を「年5兆円超」と掲げるなど、円安に対してもはやインバウンドしか頼るものがないような無為無策ぶりをさらけ出したのですが、それも訪日外国人旅行者の消費額の40%強を占める中国人観光客次第なのです。
インバウンドだけでなく、対中貿易が日本の生命線であることは統計を見てもあきらかです。財務省の資料によれば、2021年度の対外貿易額において、輸出・輸入ともにトップなのは中国です。アメリカがトップだったのは、輸出・輸入ともに2000年までです。ここでもアメリカの没落が如実に示されているのでした。そのくせ、一方で、相変わらず対米従属にどっぷりと浸かったまま、アメリカの尻馬に乗って米中対立を煽っているのですから、何をか言わんやでしょう。
台湾をめぐる米中対立が「危機的」と言われるほど深刻化したのは、アメリカがペロシの台湾訪問などで中国を挑発したからです。アメリカが怖れているのは、中国の経済力です。前も書きましたが、石油のアメリカから次の100年のレアメタルの中国に覇権が移ることに抵抗しているからです。特に目玉になっているのが半導体です。半導体不足で新車の納期が数年待ちなどと異常な状況が言われていますが、それもアメリカが中国企業との取引きを規制する、いわゆるデカップリング戦略を取ったからです。台湾が半導体の一大生産地であることを考えれば、台湾をめぐる米中対立の背景も見えてくるでしょう。
しかし、レアメタルの中国に覇権が移ることは、資本の「コンセンサス」なのです。資本は、自己増殖することが使命であり、そのためには国家などどこ吹く風なのです。「プロレタリアートに国境はない」と『共産党宣言』は謳ったのですが、当然ながら資本にも国境はないのです。今、取り沙汰されている「危機」なるものは、言うなればアメリカの悪あがきのようなものです。
アメリカが唯一の超大国の座から転落するのは、前からわかっていたはずです。でも、日本は対米従属に呪縛されたまま、何の戦略的な思考を持つこともなかったし、持とうともしませんでした。アメリカの尻馬に乗って軍事的に中国と直接対峙したら、日本は政治的にも経済的にも破滅するのはわかっていながら、漫然と対米従属を続けてきた(続けさせられた)のです。
日本維新の会との連携を進める立憲民主党の泉健太党首は、今日の昼間、都内で行われた講演で、改憲を掲げる日本維新の会とは、「実はそんなに差がないと思っている。憲法裁判所、緊急事態条項は、我々も議論はやっていいと思っている」「必要であれば憲法審で議論すればいい」と発言したそうですが、私は、その(下記の)記事を見て、「それ見たことか」と言いたくなりました。
朝日新聞デジタル
立憲・泉代表「9条も必要なら憲法審で議論すればいい」
仮に軍事的緊張が高まっているとしても、無定見にその流れに乗るのは米中対立の中で貧乏くじを引く(引かされる)だけだ、ということさえ、胸にブルーリボンのバッチを付けたこの野党の党首はわかってないのかもしれません。その意味ではネトウヨと同じです。前から何度もくり返していますが、そもそも立憲民主党は野党ですらないのです。
米中が軍事衝突したら、台湾には米軍基地がないので、沖縄の基地から出撃するしかありません。そうなれば、当然、敵国から攻撃の対象になるでしょう。なのに、どうしてわざわざそのための(戦争の当事者になるための)準備をしなければならないのか。憲法9条は戦争にまきこまれないための最後の砦だったはずです。また、軍事費が増大すれば、国家が経済的に疲弊してにっちもさっちもいかなくなります。ましてや、最大の貿易相手国を失うのです。憲法9条はその歯止めにもなっていたはずなのです。
経済再生大臣の目をおおいたくなるような醜態に象徴されるように、私たちの国家は経済再生なんてただの掛け声で、もはや打つ手もなく当事者能力を失くしているようにしか思えませんが、それは経済だけでなく政治も同じです。
また、今の円安に関しては、世界の多極化という大状況だけでなく、アベノミクスの負の遺産という側面があることも見逃せません。アベノミクスが「日本再生」のために掲げた三本の矢のひとつである、円安を誘導する「大胆な金融施策」が、日本だけがマイナス金利政策から抜け出せない無間地獄を招いてしまったのです。そして、それが「日本売り」の要因になっているのです。その意味でも、安倍元首相は、経済政策においても「国賊」だったと言ってもいいでしょう。
抜本的な改革をしなければ再び「強い経済」が戻って来ない、と識者はお題目のように言いますが、抜本的な改革なんてあるのでしょうか。とてもあるようには思えません。「強い経済」が戻って来ることはもうないのではないか。
むしろ、”強くない経済”の中で、どう生きていくか、どう自分らしく生きていくか、ということを考えるべきではないか、と思います。たとえば、今まで生活するのに30万円必要だったけど、15万円でも生活できるようにするというのも、大事な自己防衛でしょう。もとより、私たちにはその程度のことしかできないのです。しかし、少なくとも電車が来てもないのに駅の階段を駆け下りて行くサラリーマンなんかより、自分の人生に対しても、社会に対しても、はるかにまともな感覚を持つことができるでしょう。それが生きる術につながるのだと思います。
奴隷の30万円では、いざとなればポイ捨てされるだけです。コロナ禍に加え、円安によって失われた30年が可視化されたことで、多くの人たちは、自分たちの人生が砂上の楼閣であることに気づいたはずです。「年金はもうあてにできない」とよく言いますが、じゃあ年金をあてにしない生き方はどうすればいいのかと訊くと、みんな口を噤むだけです。今必要なのは、「日本を、取り戻す」(自民党のキャッチフレーズ)ことではなく、「自分の生き方を、取り戻す」ことなのです。
私の知り合いも、家庭の事情で田舎に帰って介護の仕事をしていますが、彼女は「東京で介護の仕事をするのは精神的にしんどいかもしれないけど、田舎だと張り合いを持ってできるんだよね」と言っていました。そういった言葉もヒントになるように思います。私は、彼女の言葉を聞いて、”地産地消の思想”ということを考えました。地産地消は食べ物だけの話ではないのです。
まるでコロナが終わったかのように、全国旅行支援で遊びまわろう、遊ばにゃ損、みたいな報道ばかりが飛び交っており、ともすればそういった皮相な部分に目を奪われがちですが、私たちの社会や人生の本質は、もうそんなところにないのだ、ということを自覚する必要があるのではないでしょうか。
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調べてみると、30年前の1990年の大納会の日経平均株価は2万3千848円71銭でした。前年(1989年)の大納会の株価は、3万8千915円87銭で、1年で約39%も下落しています。
つまり、1990年はバブルが崩壊した年であり、日本経済の「失われた30年」がはじまった年でもあったのです。
国税庁の「民間給与実態統計調査」によると、1990年の平均給与は425万2千円です。最新の2020年(令和2年)は433万円で、この30年間ほとんど上がってないことがわかります。
「鈴木俊一財務相は21日の閣議後の記者会見で、為替介入の可能性について、『過度な変動があった場合は適切な対応をとるという考えは、いささかも変わりない』と述べ、従来の発言を繰り返し、市場を牽制(けんせい)した」(朝日の記事より)そうです。
しかし、朝日の別の記事では、「政府の為替政策の責任者である財務官を務めた」渡辺博史・国際通貨研究所理事長の次のような発言を紹介していました。
朝日新聞デジタル
1ドル150円「国力低下を市場に見抜かれている」 元財務官の憂い
「いまの円安は、日米の金利差でもっぱら説明されているが、私は今年進んだ円安の半分以上は日本の国力全体に対する市場の評価が落ちてきていることが要因だと考えている。実際、日本企業をM&A(合併買収)するのに、1年前の実質2割引きであるにもかかわらず、そうした動きはほぼない。日本の企業や産業技術に対する過去に積み上げられた権威がだんだんなくなっている」
「日本はもともとエネルギーや食料を輸入に頼る資源小国で、原材料を買い、日本で加工・組み立て、それを輸出し、生き抜いてきた。ところが、自動車を除けば電機などは海外に抜かれ、IT(情報技術)などの成長分野では米中に後れをとった。この10年ほどで日本の貿易収支は赤字が多くなり、投資を含む経常収支の黒字も小さくなってきている。(略)」
「一方向に為替が動くと皆が思っているときに、介入をしても、砂漠に水をまくようなものだ。世界の為替市場は1日1千兆円の取引があり、うち円ドルだけでも125兆円。政府の外貨準備高が180兆円あるといっても、相場を維持することは無理筋だ。(略)」
この円安は、日米の金利差によるものであることはたしかですが、ただ、それだけではないということです。てっとり早く言えば、「日本売り」でもあるのです。
ドルが実質的な世界の基軸通貨の役割を果たしていたことを考えれば、通貨安が、アメリカが唯一の超大国の座から転落して、世界が多極化するその副産物であるのは今さら言うまでもないでしょう。とりわけ、対米従属を国是とする日本はその影響が大きいとも言えますが、日本はアメリカの属国みたいな存在であるがゆえに多極化後の世界で生きる術がない、ビジョンを描けてない、という深刻な事情があります。渡辺博史・国際通貨研究所理事長が上記の記事で、「日本の国力全体に対する市場の評価が落ちてきている」というのは、そのことを指しているのだと思います。
鈴木俊一財務大臣が、いくら為替介入の可能性を示唆して市場を牽制しても、1日1千兆円の取引がある世界の為替市場の中で、円ドルの取引はわずか125兆円にすぎず、しかも、円安介入の原資である外国為替資金特別会計(外為特金)=外貨準備高は180兆円しかないのです。これでは、鈴木財務大臣の発言が、一時のマネーゲームに使われるだけなのは当然でしょう。介入が「砂漠に水をまくようなものだ」というのは、言い得て妙だと思いました。
一方で、日本と同じように対米従属の度合いが高いフィリピンやタイやマレーシアや韓国などの通貨も下落しており、アジア通貨危機の再来も懸念されています。前回と違って今回の通貨危機では、日本は主役のひとりになるのでしょう。
何度も言いますが、日本が先進国のふりをしていられるのは、2千兆円という途方もない個人の金融資産があるからです。もちろん、それは見栄を張るために食い潰されていくだけです。しかも、誰もがその恩恵にあずかることができるわけではありません。その恩恵にあずかれない人たちは、先進国とは思えないような生活を強いられ下のクラスに落ちていくしかないのです。
コロナ禍で企業も個人も、ものの考え方が大きく変わりました。私のまわりでも、会社を辞めて別の道を歩むという人間もいます。東京の生活が異常だということに気づいた、という声も聞くようになりました。電車が来てもないのに、駅の階段を駆け下りて行くような日常の異常さ、空しさに気づいたということでしょう。何だかそれは自己防衛のようにも思います。今の経済システムに身も心もどっぷりと浸かっていると、ドロ船と一緒に沈むしかないのです。
コロナ禍の前まで、中国人観光客はマナーが悪くて迷惑だなどと言っていたのに、コロナ禍を経て入国規制が緩和された途端、中国が一日も早くゼロコロナ政策を転換して中国人観光客が戻って来るのを、首を長くして待ちわびているようなことを言いはじめているのでした。岸田首相も、今国会の所信表明演説で、訪日外国人旅行者の消費額の目標を「年5兆円超」と掲げるなど、円安に対してもはやインバウンドしか頼るものがないような無為無策ぶりをさらけ出したのですが、それも訪日外国人旅行者の消費額の40%強を占める中国人観光客次第なのです。
インバウンドだけでなく、対中貿易が日本の生命線であることは統計を見てもあきらかです。財務省の資料によれば、2021年度の対外貿易額において、輸出・輸入ともにトップなのは中国です。アメリカがトップだったのは、輸出・輸入ともに2000年までです。ここでもアメリカの没落が如実に示されているのでした。そのくせ、一方で、相変わらず対米従属にどっぷりと浸かったまま、アメリカの尻馬に乗って米中対立を煽っているのですから、何をか言わんやでしょう。
台湾をめぐる米中対立が「危機的」と言われるほど深刻化したのは、アメリカがペロシの台湾訪問などで中国を挑発したからです。アメリカが怖れているのは、中国の経済力です。前も書きましたが、石油のアメリカから次の100年のレアメタルの中国に覇権が移ることに抵抗しているからです。特に目玉になっているのが半導体です。半導体不足で新車の納期が数年待ちなどと異常な状況が言われていますが、それもアメリカが中国企業との取引きを規制する、いわゆるデカップリング戦略を取ったからです。台湾が半導体の一大生産地であることを考えれば、台湾をめぐる米中対立の背景も見えてくるでしょう。
しかし、レアメタルの中国に覇権が移ることは、資本の「コンセンサス」なのです。資本は、自己増殖することが使命であり、そのためには国家などどこ吹く風なのです。「プロレタリアートに国境はない」と『共産党宣言』は謳ったのですが、当然ながら資本にも国境はないのです。今、取り沙汰されている「危機」なるものは、言うなればアメリカの悪あがきのようなものです。
アメリカが唯一の超大国の座から転落するのは、前からわかっていたはずです。でも、日本は対米従属に呪縛されたまま、何の戦略的な思考を持つこともなかったし、持とうともしませんでした。アメリカの尻馬に乗って軍事的に中国と直接対峙したら、日本は政治的にも経済的にも破滅するのはわかっていながら、漫然と対米従属を続けてきた(続けさせられた)のです。
日本維新の会との連携を進める立憲民主党の泉健太党首は、今日の昼間、都内で行われた講演で、改憲を掲げる日本維新の会とは、「実はそんなに差がないと思っている。憲法裁判所、緊急事態条項は、我々も議論はやっていいと思っている」「必要であれば憲法審で議論すればいい」と発言したそうですが、私は、その(下記の)記事を見て、「それ見たことか」と言いたくなりました。
朝日新聞デジタル
立憲・泉代表「9条も必要なら憲法審で議論すればいい」
仮に軍事的緊張が高まっているとしても、無定見にその流れに乗るのは米中対立の中で貧乏くじを引く(引かされる)だけだ、ということさえ、胸にブルーリボンのバッチを付けたこの野党の党首はわかってないのかもしれません。その意味ではネトウヨと同じです。前から何度もくり返していますが、そもそも立憲民主党は野党ですらないのです。
米中が軍事衝突したら、台湾には米軍基地がないので、沖縄の基地から出撃するしかありません。そうなれば、当然、敵国から攻撃の対象になるでしょう。なのに、どうしてわざわざそのための(戦争の当事者になるための)準備をしなければならないのか。憲法9条は戦争にまきこまれないための最後の砦だったはずです。また、軍事費が増大すれば、国家が経済的に疲弊してにっちもさっちもいかなくなります。ましてや、最大の貿易相手国を失うのです。憲法9条はその歯止めにもなっていたはずなのです。
経済再生大臣の目をおおいたくなるような醜態に象徴されるように、私たちの国家は経済再生なんてただの掛け声で、もはや打つ手もなく当事者能力を失くしているようにしか思えませんが、それは経済だけでなく政治も同じです。
また、今の円安に関しては、世界の多極化という大状況だけでなく、アベノミクスの負の遺産という側面があることも見逃せません。アベノミクスが「日本再生」のために掲げた三本の矢のひとつである、円安を誘導する「大胆な金融施策」が、日本だけがマイナス金利政策から抜け出せない無間地獄を招いてしまったのです。そして、それが「日本売り」の要因になっているのです。その意味でも、安倍元首相は、経済政策においても「国賊」だったと言ってもいいでしょう。
抜本的な改革をしなければ再び「強い経済」が戻って来ない、と識者はお題目のように言いますが、抜本的な改革なんてあるのでしょうか。とてもあるようには思えません。「強い経済」が戻って来ることはもうないのではないか。
むしろ、”強くない経済”の中で、どう生きていくか、どう自分らしく生きていくか、ということを考えるべきではないか、と思います。たとえば、今まで生活するのに30万円必要だったけど、15万円でも生活できるようにするというのも、大事な自己防衛でしょう。もとより、私たちにはその程度のことしかできないのです。しかし、少なくとも電車が来てもないのに駅の階段を駆け下りて行くサラリーマンなんかより、自分の人生に対しても、社会に対しても、はるかにまともな感覚を持つことができるでしょう。それが生きる術につながるのだと思います。
奴隷の30万円では、いざとなればポイ捨てされるだけです。コロナ禍に加え、円安によって失われた30年が可視化されたことで、多くの人たちは、自分たちの人生が砂上の楼閣であることに気づいたはずです。「年金はもうあてにできない」とよく言いますが、じゃあ年金をあてにしない生き方はどうすればいいのかと訊くと、みんな口を噤むだけです。今必要なのは、「日本を、取り戻す」(自民党のキャッチフレーズ)ことではなく、「自分の生き方を、取り戻す」ことなのです。
私の知り合いも、家庭の事情で田舎に帰って介護の仕事をしていますが、彼女は「東京で介護の仕事をするのは精神的にしんどいかもしれないけど、田舎だと張り合いを持ってできるんだよね」と言っていました。そういった言葉もヒントになるように思います。私は、彼女の言葉を聞いて、”地産地消の思想”ということを考えました。地産地消は食べ物だけの話ではないのです。
まるでコロナが終わったかのように、全国旅行支援で遊びまわろう、遊ばにゃ損、みたいな報道ばかりが飛び交っており、ともすればそういった皮相な部分に目を奪われがちですが、私たちの社会や人生の本質は、もうそんなところにないのだ、ということを自覚する必要があるのではないでしょうか。
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立憲民主党への弔辞
田舎の友達からの年賀状で「利他」について考えた
雨宮まみの死