先日、田舎から友人が上京して来たので、久しぶりに会いました。何でも天皇夫妻や三権の長が列席したような集まりに出席するために上京したそうで、警備が凄かった、と言っていました。

「こいつ、そんな役職に就いていたのか」と思いましたが、しかし、会えばいつもの他愛のない(いつまでも成長しない)話をするだけです。私は、山用のTシャツとパンツにスニーカーにリュックを背負った恰好でしたが、さすがに彼はちゃんと紺のスーツを着てネクタイを締めていました。

お土産だと言って田舎のなつかしいお菓子も貰いました。見た目は景気がよさそうだったので、食事もご馳走になりました。

その中で、久住連山の話になりました。彼も子どもの頃からの習慣でときどき山に登るので、自然とそういった話になるのでした。

私も前に書きましたが、久住連山が阿蘇国立公園と一緒になるとき、山の反対側の九重ここのえ町が「俺たちも九重くじゅうだ」と言い出して、折衷案として「阿蘇くじゅう国立公園」とひらがな表記になった話や、最近、久住山や久住連山が「九重山」や「九重連山」と表記されていることを取り上げて、「ホントに頭に来るよな」と言っていました。これは、私たちの田舎の人間に共通する感情です。

私は知らなかったのですが、久住連山とは別に最寄り駅から祖母山への登山バスも出ているそうです。祖母傾山は「おらが山」という感覚はないので意外でしたが、祖母山は日本百名山なので、登山客の便宜をはかっているということでした。「百名山なんて、あんなもん関係ないじゃん」と言ったら、「まあ、まあ、まあ」と言って笑っていました。もっとも、地図上では祖母山も「おらが村」の端っこにあるのです。

私も若い頃、祖母山に登ったことがありますが、そのときは赴任先の町で、役場の職員や学校の教師をしている地元の青年たちが山登りのグループを作っていて、彼らに誘われて一緒に登ったのでした。祖母傾山は、彼らには地元の山でしたが、私自身は、今の奥多摩などと同じように、よその山に登っているような感じでした。私にとっては、やはり久住が地元なのです。中でも大船山が「おらが山」なのです。

祖母山の登山口がある町も、当時、私が担当していた地区だったので、よく車で行っていました。今でも忘れられないのは、登山口の近くにおいしい湧き水が出ているところがあるので、湧き水を飲もうと車を停めて車外に出たら、鮮やかな紅葉が目に飛び込んできて、子どもの頃から紅葉は見慣れているはずなのに、「紅葉ってこんなにきれいなんだ?」と感動したことです。そんなさりげない風景が、一生忘れられない風景になることもあるのです。

これも前に書いたかもしれませんが、地元にいた頃、夜、その友人の家を訪ねて行ったことがありました。友人の家は、私たちの田舎の最寄り駅がある人口が1万人ちょっとの城下町にあります。

私たちの田舎は、ウィキペディア風に言えば、「祖母山・阿蘇山・くじゅう連山の3つの山岳」に囲まれた町で、当時は平成の大合併の前だったので、友人の町は私の実家がある町とは別の自治体でした。大昔は同じ「郡」だったのですが、友人の町が分離して「市」になり、そして、平成の大合併で今度は分離した「市」に統合されたのです。人口が1万ちょっとというのは、合併する前の話で、現在は2万人弱だそうです。

当時、私は、実家とは別に、祖母傾山の大分県側の登山口がある町の隣町の営業所に勤務していました。会社が借り上げたアパートに住んでいたのですが、何故か、ふと思い付いて車で30~40分かかる友人の家を訪ねて行ったのでした。

友人の家は駅の近くの商店街の中にあったのですが、行くとお母さんが出て来て、友人は出かけていると言うのです。1時間くらいしたら帰って来るので、(家に)上がって待っているように言われたのですが、「いいです。ちょっと時間を潰してまた来ます」と言って、町外れにあるパチンコ屋に行ったのでした。

でも、パチンコ屋に入ったらお客は数人しかいませんでした。店内には古い歌謡曲が流れており、うら寂しい雰囲気が漂っていました。

時間が経ったので、再び、友人の家に行き、友人と一緒に近所のホテルの中の小料理屋に行って話をしました。商店街も人通りはまったくなくひっそりと静まり返っていました。もちろん、商店街と言っても、アーケードがあるような立派なものではなく、ただ、昔ながらの店が並んでいるような通りにすぎません。

また、ホテルも、今で言えば民宿やゲストハウスみたいな二階建ての小さな建物です。小料理屋は、おそらく宿泊客が食事をするところなのでしょうが、私たち以外お客は誰もいませんでした。

どうして急に友人の家を訪ねて行ったのかと言えば、たぶん会社を辞めて再び上京することを告げに行ったのだと思います。まるでゴーストタウンのようなひっそりとした町の様子がそのときの自分の心象風景と重なり、それで今でも心に残っているのでしょう。

その頃の私は、仕事はそれなりに順調でしたが、耐えられないほどの寂寥感と空虚感に日々襲われていました。のちに当時の会社の同僚と会ったとき、私がどうして会社を辞めたのか理解できず、みんなで首を捻っていた、と言われたのですが、もとより心の奥底に沈殿するものが他人にわかるはずもないのです。その意味では、私はホントに孤独でした。

私は本を読んだり映画を観たりするのが好きでしたが、当時、私が住んでいた町には本屋は1軒あるだけで、映画館はありませんでした。本屋もめぼしい本は売ってないので、いつも注文して取り寄せて貰っていました。

でも、九州の山奥の人口が2万人足らずの小さな町のアパートで、本を読んでも何だか淋しさを覚えるばかりでした。へたに東京の生活を知っていたので、ミーハーと言えばそうなのですが、新宿の紀伊国屋や渋谷の大盛堂で本を買って、名画座で独立プロのマイナーな映画を観たりするような生活がなつかしくてならなかったのです。そういった空気に飢えていたのでした。

朋あり遠方より来る、そして、旧交を温めるのも、年を取ると何となく淋しさもあります。もう二度と戻って来ない時間が思い出されるからでしょう。

「久住の紅葉を見に帰っちくればいいのに」と言われましたが、「そうだな、今年は無理じゃけん、来年かな」と答えました。でも一方で、来年ってホントに来るんだろうか、と思ったのでした。
2022.10.25 Tue l 故郷 l top ▲