
2013年12月19日、「餃子の王将」を運営する「王将フードサービス」の社長・大東(おおひがし)隆行氏が、銃撃されて殺害された事件に関して、10月28日、福岡刑務所に服役中の田中幸雄容疑者が、殺人の容疑で京都府警に逮捕されました。これにより、「餃子の王将」社長射殺事件」は、事件から9年目にしてようやく「実行犯の逮捕」という新たな局面を迎えたのでした。
田中幸雄容疑者は、北九州の小倉に本部を置く工藤会の二次団体石田組の幹部です。どう見てもヒットマンとしか思えず、「王将フードサービス」と北九州のヤクザ組織との間をつないだのは誰なのか、関心が集まっているのでした。
工藤会は、2012年の改正暴対法によって、「特定危険指定暴力団」に指定された全国で唯一の暴力団で、それこそ泣く子も黙るような武闘派の組織として知られています。
私も子どもの頃、「小倉は怖い」という話を母親から聞いたことがあります。母方の祖母は福岡の若松か戸畑だったかの出身で、母親も祖父の仕事の関係で北九州で生まれたのですが、親戚を訪ねて行ったのか、私が中学生の頃、母親が叔母とともに北九州に出かけたことがありました。
そして、帰って来て、父親と話をしているのを私は横で聞いていたのですが、小倉駅で電車を待っていたとき、駅にヤクザみたいな男たちがたむろしていて怖かった、小倉があんな怖いところとは知らなかった、と言っていました。
もちろん、工藤会なんて名前は知る由もありませんが、私は何故かそのときの話を今も忘れずに覚えているのでした。後年、赴任先の街でたまたま入ったスナックに小倉出身の女性がいて、その話をしたら、彼女も小倉はヤクザが跋扈する怖い街だ、と言っていました。
実際に工藤会は、暴力団排除の運動をしていた市民を襲撃するなど、一般市民や企業を標的にした数々の暴力事件を起こしています。工藤会に“及び腰”と言われた福岡県警も、改正暴対法や警察庁の後押しなどもあって、2014年に16年前の元漁協組合長殺害容疑でトップの野村悟総裁とナンバー2の田上不美夫会長の逮捕に踏み切り、組織の壊滅に向けた“頂上作戦”を開始したのでした。
ちなみに、大東社長が射殺された翌月(2014年1月)には、16年前に殺害された元漁協組合長の実弟で、兄のあとに漁協組合長を務めていた人物が、同じように早朝、ゴミ出しするために家を出たときに何者かにようって射殺されています。その捜査の過程で、16年前の兄の事件で、野村悟総裁と田上不美夫会長の関与(指示)が判明したので逮捕したと言われています。でも、何だかあわてて逮捕したような感じもしないでもありません。
尚、殺害された漁協組合長の兄弟に関しても、その後も孫の歯科医や息子の会社の女性従業員が襲われ刺傷するなど、執拗な攻撃が加えられているのでした。福岡県警はどこで何をしていたのかというような話なのです。
工藤会が行った事件については、ウィキペディアに詳しく書かれていますが、90年代後半以降の主な事件を列記するだけでも下記のようになります。
工藤会が博徒として結成されたのは戦前ですが、工藤会が暴力団として狂暴化したのは1960年代に山口組との抗争を経てからだと言われています。しかも、抗争相手の山口組系の組織とは、のちに稲川会の会長の仲介で合併しているのでした。工藤会は、カタギであろうが誰であろうが見境がなく、野村総裁の局部を大きくする手術をした病院の看護婦や、暴力団担当の元刑事まで襲われているのでした。それで怯んだのか、福岡県警が工藤会に“及び腰”だったのは誰が見てもあきらかでした。
1988年
・みかじめ料の要求を断った健康センターに殺鼠剤を撒布。150人が中毒症状。
1988年
・在福岡中華人民共和国総領事館を散弾銃で攻撃。
1988年
・福岡県警元暴力団担当警部宅を放火。
1994年
・パチンコ店や区役所出張所など17件前後銃撃。
1998年
・港湾利権への介入を断られた報復で北九州元漁協組合長を射殺。
2000年以後
・暴力団事務所撤去の運動に取り組んでいた商店を車で襲撃。
・暴力追放を公約に掲げて当選した中間市長の後援市議を襲撃。
・警察官舎敷地内の乗用車に爆弾を仕掛ける。
・九州電力の松尾新吾会長宅に爆発物を投擲。
・西部ガスの田中優次社長宅への手榴弾投擲、及び同社関連会社と同社役員の親族宅を銃撃。
・暴力団追放運動の先頭に立つクラブに手榴弾を投擲。
・安倍晋三の下関市の自宅と後援会事務所に火炎瓶を投擲。
・大林組従業員ら3名を路上で銃撃。
・トヨタ自動車九州の小倉工場に爆発物を投擲。
・工藤会追放運動を推進していた自治会長宅を銃撃。
・工藤会追放運動を推進していた建設会社役員を射殺。
・中間市の黒瀬建設社長を銃撃。
・清水建設従業員を銃撃。
・元工藤会担当県警警部を銃撃。
他にみかじめ料を断ったパチンコ店や飲食店などを襲撃多数。
(Wikipedia参照)
この中で、今回逮捕された田中幸雄容疑者が関係したのは、2008年1月に、大林組従業員ら3名が乗っている車を銃撃した事件です。しかし、動機は不明で、判決文でもそう書かれています。田中容疑者が口が堅いと言われるのも、そのあたりから来ているのでしょう。田中容疑者は、同事件の実行犯として逮捕され、懲役10年の判決を受けて福岡刑務所に服役していました。ただ、同事件でも、逮捕されたのは事件発生から10年後でした。
田中容疑者は、福岡の大牟田出身で、地元の高校から田中康夫の『なんとなく、クリスタル』の主人公が通った、原宿の表参道の先にあるキリスト教系のオシャレな大学に進学。大学を中退したあといくつかの会社に勤め、30代半ばまではカタギのサラリーマンだったそうです。そして、仕事上のトラブルに巻き込まれたときに、工藤会に助けて貰ったことでヤクザの道に入ったと言われています。
また、北九州元漁協組合長を射殺した事件等で、殺人や組織犯罪処罰法違反などの罪に問われたトップの野村悟総裁とナンバー2の田上不美夫会長に対して、福岡地裁は2021年8月に、それぞれ死刑と無期懲役を言い渡しています。その際、退廷する野村総裁は、裁判長に向かって「あんた後悔するよ」と捨て台詞を吐いたそうです。
田中幸雄容疑者に関しては、当初から捜査線上にのぼっていたと言われていますが、逮捕に至るまで9年の歳月を要したのはどうしてなのか。事件の背後に、私たちがうかがい知れない”闇”が存在していたような気がしてなりません。
キャスターの辛坊治郎氏は、事件が起きてすぐに京都府警から事情聴取されていたそうで(実際は情報提供を求められただけのようですが)、ラジオ番組で事件の不可解さについて、次のように語っていました。
Yahoo!ニュース
ニッポン放送
「王将」社長射殺事件 辛坊治郎が事情聴取を受けていた「容疑者とは言われませんでしたが……」
それにしても、謎だらけの事件です。今回逮捕された暴力団幹部が事件に関わっていたという見方はかなり初期の段階からありました。殺害現場近くでたばこの吸い殻が発見され、 DNA型鑑定が出ていたんですよ。なぜ、そんなはっきりとした証拠があるにもかかわらず、そのルートを洗っていかなかったのだろうと不思議です。
(略)
いずれにしても、容疑者がもっと早く逮捕されていてもおかしくない事件です。ここまで時間がかかったことに、何かものすごく深い闇のようなものを感じています。
(上記記事より)
事件の背景については、東証一部上場(移行)を前にして会社が設置した第三者委員会が、2016年3月に公表した調査報告書に注目が集まっています。調査報告書は、下記の毎日新聞の記事に書いているとおり、当初は東証一部上場(13年7月)後の13年11月に公表されるはずでした。しかし、何故か公表されず、役員たちにも報告書の内容が共有されなかったそうです。そして、その1ヶ月後の12月に大東社長が殺害されたのでした。調査報告書が公表されたのは、さらにそこから3年4か月後でした。このように調査報告書のの公表ひとつをめぐっても、実に不可解なのです。
調査報告書によれば、創業家と福岡の企業グループとの間で、取締役会にも通さない不適切な取引きが行われ、それは1995年から2005年までの10年間に総額260億円にものぼり、そのうち170億円が回収不能になっているというのです。その多くは不動産取引で、企業グループから市場価格とかけ離れた不当に高い金額で購入し、大きな売却損を出して処分するということをくり返していたのです。調査報告書は、「福岡の企業グループは反社ではない」と書いていましたが、やり口は反社のそれと同じです。
そのため、「王将フードサービス」は業績不振に陥り、三代目の社長だった創業者の加藤朝雄氏の長男と、財務担当の専務だった次男が事実上のクーデーターで退陣し、創業者の義弟の大東氏が社長に就任したのでした。
「王将フードサービス」は東証一部上場をめざしていましたが、取締役会にもはからない不適切な取引きによって、「企業経営の健全性」や「企業のコーポレート・ガバナンスおよび内部管理体制の有効性」といった上場要件(審査基準)を満たせず、早急な企業体質の改善が求められていました。そのため、大東社長がみずから表に立って、福岡の企業グループとの関係を精算しようとした矢先に殺害されたのでした。
そのあたりの経緯について、毎日新聞が具体的に書いていました。
毎日新聞
王将社長射殺 不適切取引相手の企業グループ 関係者を参考人聴取
00年4月に社長に就任した大東さんは当初、企業グループとの債権回収の交渉を、創業者の親族に任せていた。しかし経営危機に直面し、03年7月ごろからは自身が直接交渉。14件については清算を終えたが、企業グループとの関係を解消しきれなかったという。
これらの内容は、同社が東証移行を前に設置した再発防止委員会が13年11月にまとめた報告書に記されたが、公表はされなかった。大東さんが殺害されたのは、その1カ月後だった。
(上記記事より)
記事によれば、京都府警の捜査本部は、田中容疑者の逮捕に伴って、不適切な取引きをしていた「企業グループを経営していた70代の男性から、参考人として任意で事情を聴いたことが判明した」そうです。
しかし、ここに至っても、メディアは「福岡の企業グループ」という言い方をするだけで、社名等いっさいあきらかにせず、奥歯にものがはさまったような言い方に終始しているのでした。それは、安倍元首相銃撃事件のあと、旧統一教会のことを「ある宗教団体」とか「特定の宗教団体」と言っていたのと似ています。
一方で、リテラが、2015年に具体的に企業名や経営者の名前を出して記事にしており、翌年にも第三者委員会の調査報告書の発表を受けて、その記事を再掲しています。
リテラ
「餃子の王将」が調査報告書でひた隠しにする260億円不正取引の相手は“部落解放同盟のドン”の弟だった!
「部落解放同盟のドン」というのは、1982年から1996年5月に肝不全で亡くなるまで部落解放同盟の4代目の中央執行委員長を務めた上杉佐一郎氏で、その「弟」というのは、上杉佐一郎氏の異母弟の上杉昌也氏です。
同和対策事業特別措置法が10年の時限立法として制定されたのが1969年で、その後何度が延長され(法律の名称も変わって)、終了したのが2002年です。33年間で約15兆円の国家予算が費やされたと言われています。
部落解放同盟が、最も活発に活動していたのもその期間です。
上杉昌也氏自身は部落解放運動には直接関係してなかったようですが、彼の事業に「部落解放同盟のドン」と言われた上杉佐一郎氏の威光がはたらいていたのは想像に難くありません。同対法の終了と関係あるのか、事業の多くは2006年から2011年にかけて破綻しています。
警察の捜査が遅々として進まなかったのも、大手メディアが未だに奥歯にものがはさまったような言い方に終始しているのも、「同和タブー」があるからではないか。そう思えてなりません。
創業者の加藤朝雄氏が、1967年12月に「餃子の王将」を創業したのは京都四条大宮ですが、福岡(飯塚市)出身だった加藤氏は、同郷の上杉兄弟と1977年頃知り合ったと言われています。そして、全国展開する上での資金300億円は上杉佐一郎氏が調達した、と言われているのです。
私は、田中幸雄容疑者の逮捕を受けて、部落解放同盟を舞台にした「飛鳥会事件」を扱った、角岡伸彦氏の『ピストルと荊冠』(講談社)を本棚の奥から引っ張り出して読み返したのですが、何だか両者は共通したものがあるような気がしてなりませんでした。と同時に、未だに「同和タブー」が生きていることに、あらためて驚きを禁じ得なかったのでした。
『ピストルと荊冠』は、「<被差別>と<暴力>で大阪を背負った男」とサブタイトルが付けられているように、山口組の直参組織である金田組の組員でありながら、40年にわたり部落解放同盟の支部長を務め、同和対策事業特別措置法による事業で利権をむさぼってきた小西邦彦(故人)の半生を取り上げた本です。
彼は、同和対策事業で同和地区に建てられた解放会館を根城に、運動団体(部落解放同盟)と財団法人(飛鳥会)と社会福祉法人(ともしび福祉会)のトップを務め、同会館に派遣された市役所職員や三和銀行の職員をあごのように使って、文字通り巨万の富を築いて金満生活を送っていたのでした。また、その一部は所属する金田組に上納されていました。
親しい親分がピストルを隠すために三和銀行の貸金庫が利用できるように便宜をはかったり、山口組の内部抗争の煽りを受けて、解放会館の近くに建てた自社ビルに銃弾が撃ち込まれる、ということもありました。また、山口組4代目組長の竹中正久が跡目争いで射殺された現場になった愛人のマンションは、小西の名義でした。
また、みずからが運営する財団法人の職員として知り合いの組から派遣された元組員を採用したり、知り合いの山口組系の元組長ら3人が社団法人大阪市人権協会の下部組織である飛鳥人権協会の職員であるように装い、3人とその家族分の健康保険証7枚を取得する便宜をはかっていました。3人は、何と1977年から1992年まで健康保険証の更新を続けていたそうです。どうしてそんなことができたのかと言えば、小西が飛鳥人権協会の顧問だったからです。現職のヤクザが人権協会の顧問を務めていたという冗談みたいな話が、当時の大阪では公然とまかり通っていたのです。小西邦彦はのちに詐欺の疑いでも逮捕されています。
同和対策事業関連の予算は、3分の2は国が補助して残りの3分の1は自治体が負担するようになっていましたが、大阪市は同和対策事業特別措置法が続いた33年間で、同和関連事業に6千億円を注いでいます。そのうち「3割強」が建設関連予算だったと言われ、その大半は、部落解放同盟大阪府連が設立した大阪府同和建設協会に加盟する業者が請け負っていました。
小西は、飛鳥地区における業者の選定や工事費の上前をはねることで「少なく見積もっても数億円」を懐に入れた、と『ピストルと荊冠』は書いていました。また、西中島の新御堂筋の高架下を、中高齢者雇用対策ならびに老人福祉対策の一環として駐車場として利用したいという小西の申し出に対して、大阪府は同和対策事業の枠外で市開発公社に占有許可を出し、小西がトップを務める飛鳥会に管理委託させたのでした。それにより、西中島駐車場も小西の懐を潤すことになります。
駐車場の売上げは一日平均六十万円あった。一年間で二億二千万円である。そのうち地代や人件費を差し引いた七千五百万円が小西の懐に入った。
(『ピストルと荊冠』)
同書によれば、18年間で「少なくとも六億円を着服している」そうです。
もちろん、同和対策を利用した土地転がしで億単位の利益も得ていました。本ではそのカラクリについて、不動産業者が次にように証言しています。
「小西が支部長になってから、ここに道ができる、ここには住宅が建つという具合に(地区内の事業計画が)わかるようになった。最初に小西は地区内の土地を千七百万円で買(こ)うた。それを転売したら三千万円くらいで売れた。そこからあいつは金の味を覚えたわけや。
(同上)
解放会館ができた当初、同館には7名の大阪市の職員が常駐していたそうです。小西は、その人事権を握っているだけでなく、本庁の人事や採用にも影響力を持っていたと言われています。実際に、小西の実兄や甥、姪の夫など身内が大阪市に採用されているのでした。
もちろん、それらの収入は申告していません。「同和」というだけで何のお咎めもなかったのです。それどころか、彼の「人脈は、部落解放運動、行政、政界、警察、国税、銀行、建設業界など各界に広がり、絶大な影響力を持つに至った」(同上)のでした。
彼の金満ぶりについて、『ピストルと荊冠』は次のように書いていました。
支部長に就任して間もないころは、廃車寸前の高級国産車のトヨタ・クラウンを知り合いから二十万円で購入し、乗り回していた。
(略)
金回りがよくなると、クラウンをアメリカの大型高級車・リンカーンコンチネンタルに乗り換え、専属の運転手を据えた。
住居は、一九五〇年代はバラックに、一九六〇年代後半には同対事業によって完成したばかりの3DKの団地型の市営住宅(五十平方メートル)に住んだ。一九七〇年代には奈良市内に自宅を建築したが、その後、妹に譲っている。
一九八〇年代初めに飛鳥会事務所で働いていた事務員との間に二人の娘をもうけると、同じく奈良市内に三億円をかけ、五百五十平方メートルの敷地に地上三階地下一階の豪邸を建てた。電気代だけで月に一ヶ月二十万円もかかったという。
(略)大人になった長男が「車が欲しい」と言うと、「ん、車? ほな買おうか」と千二百万円のベンツを買い与えた。長男は(引用者:障害があって)運転ができないため、運転手兼介助者は、小西の伝手で大阪市に採用された男が務めた。
私も若い頃、浄土真宗の集まりで、部落解放同盟の末端の活動家たちと話をしたことがありますが、彼らは旧統一教会の信者と同じで、純粋に真面目に解放運動に身をささげていました。そのとき会った小学校の若い女性教師は、狭山事件の裁判の抗議のために、同和地区の子どもたちが「狭山差別裁判糾弾」のゼッケンをつけて登校する、いわゆる”ゼッケン登校”について、「子どもたちの気持がわかりますか?」と涙ながらに語っていました。しかし、「裏切られた革命」ではないですが、上の方はこのようにデタラメを究め腐敗していたのです。もちろん、「飛鳥会事件」はその一例にすぎません。
同対法が終了したのが2002年で、小西邦彦が業務上横領と詐欺の疑いで大阪府警に逮捕されたのが2006年です。小西だけでなく、多くの同和団体に捜査が入り、摘発されています。それは、裏を返せば、それまで同和団体が同対法の下でお目こぼしを受けていた、野放しだったとも言えるのです。
しかし、小西邦彦が一方的に同和対策を食いものにしたとは言えないのです。著者の角岡伸彦氏も、同書で次のように書いていました。
小西は、運動団体と財団法人、社会福祉法人のトップを長年務めてきた。小西の一声で公共事業が進展し、様々なトラブルが解決した。人脈は、部落解放運動、行政、政界、警察、国税、銀行、建設業界など各界に広がり、絶大な影響力を持つに至った。
(同上)
言うなれば、持ちつ持たれつだったのです。
話を戻せば、「餃子の王将」も”鬼の研修”などに象徴されるように、従業員にとって「ブラック」な会社だったという声もあります。私もYouTubeにアップされていた、大東氏が社長で現社長の渡邊直人氏が常務だった頃の店長研修の動画を観ましたが、たしかにそう言われても仕方ないように思いました。実際に、2013年には、「餃子の王将」はブラック企業大賞にノミネートされているのでした。
そんな会社の創業家と、「差別解消」や「人権尊重」を謳い、一時は三里塚闘争にも動員をかけるほど新左翼にも接近したりと、きわめてラジカルな運動を展開していた部落解放同盟の幹部が親密な関係を持ち、莫大な金銭を伴う不適切な取り引きを行っていたのです。その構図は「飛鳥会事件」とよく似ています。
社長射殺事件では、それまで何度が商売に失敗している創業者が、どうして部落解放運動のドンと言われた上杉佐一郎の一族と関係を持つに至ったのか。そして、どうして上杉佐一郎氏の力で、300億円の資金を調達して、商売を成功に導くことができたのか。それが事件のポイントのように思います。
「王将」は、上記の第三者委員会が公表した調査報告書で示されているように、上杉兄弟との関係を絶つことができなかったのは事実なのです。さらに、そこに九州一の武闘派のヤクザ組織工藤会が絡んできたのです。創業家と上杉兄弟と工藤会がどういう関係にあったのか、まだ多くの”謎”が残っているのでした。もっとも、”謎”にしたのは工藤会に腰が引けていた警察だという声もあります。初動捜査の遅れなどと言われていますが、たしかに、どの事件も”謎”だらけで、容疑者の逮捕までえらく時間がかかっているのでした。
田中容疑者の逮捕を受けて、産経新聞は、匿名ながら次のような記事を載せていました。警察から得た情報なのか、上杉兄弟と「餃子の王将」との関係について、結構踏み込んだ内容が書かれていました。
産経ニュース
㊦背景に200億の「代償」? 事件つなぐキーマンX
平成5年6月に死去した王将の創業者、加藤朝雄氏の社葬に、友人代表として参列するXの姿があった。福岡県を中心にゴルフ場経営や不動産業を手掛けていたXは、王将の取引先で作る親睦団体「王将友の会」の設立にも尽力。王将が全国に店舗を拡大していく際、トラブルの解決に暗躍していた。
Xの兄はある同和団体の「ドン」と呼ばれ、X自身も「政財界や芸能界に顔が広かった」(知人)という。28年3月、王将フードサービスが公表した不適切取引に関する第三者委員会の報告書などによると、同じ福岡県出身の朝雄氏と昭和52年ごろに知り合い、交流を始めた。
王将は全国チェーンへと急成長を遂げたが、各方面に影響力を持つXの水面下での動きが支えになったことは否定できない。各地の出店を支援し、平成元年に大阪・ミナミの店舗で起きた失火では、建物の所有者が死亡した問題の解決も仲介したとされる。
(上記記事)
また、上記のリテラの記事でも取り上げられている一橋文哉氏の『餃子の王将 社長射殺事件 最終増補版』(角川文庫)では、同氏について、「U氏」というイニシャルでその人物像を次のように書いていました。長くなりますが、その箇所を紹介します。尚、本が書かれたのが2014年で、加筆修正されて文庫に収められたのが2016年ですので、一橋氏は、実行犯について、中国人ヒットマンの存在をほのめかしていました。(文中事実誤認の部分もありますが、そのまま掲載します)
U氏は「王将」創業者・加藤朝雄氏と同じ福岡県出身で、京都市内で不動産関係会社・K社を経営している。
K社はバブル経済全盛期に、旧住宅金融専門会社(住専)の大手「総合住金」から百三十二億円の融資を受け、完全に焦げつかせたことで知られる会社だ。「総合住金」多額融資先の第四位にランクされ、一時は「問題企業」として金融業界からマークされていた。さらに、京都・闇社会の「フィクサー」とも「スポンサー」とも言われた山段芳春会長(九九年三月に死亡)率いるノンバンク「キュート・ファイナンス」からも二百数十億円を借り入れ、これも焦げつかせたという不動産業界では、“日く付きの人物”である。
何しろ、その人脈ときたら、戦後最大の経済犯罪である住銀・イトマン事件の主犯として知られる許永中・元被告(韓国移送後に仮釈放)はじめ、山口組や会津小鉄(ママ)など暴力団幹部や、その系列の企業舎弟、政治団体代表ら多彩で、そうした闇社会との交流を活かして、さまざまなアンダーグランドの仕事を請け負い、やり遂げてきた人間なのだ。
U氏はもともとは、京都市に拠点を置く同和系団体の中心人物(故人)の実弟(ママ)という立場だった。そして、山口組三代目田岡一雄組長が亡くなった後、その遺志を継いで美空ひばりをはじめ大物歌手や芸能人の「タニマチ」として応援してきたことでも知られている。
(一橋文哉『餃子の王将 社長射殺事件 最終増補版』・角川文庫)
事件の解明はやっと入口に立ったばかりです。ただ、事件の解明とは別に、ここでも、「飛鳥会事件」であきらかになったような、部落解放運動の腐敗や堕落が垣間見えるのでした。
部落解放同盟と対立する日本共産党は、同和対策事業特別措置法を「毒まんじゅう」と言っていました。当時は「何と反動的な見方なんだ」と思っていましたが、今にして思えば、当たらずといえども遠からじという気がしないでもありません。
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