いつもの床屋政談ですが、更迭した寺田総務相のあとに就任した松本剛明新総務相に関しても、就任早々、共産党の赤旗が、政治資金パーティーで収容人数が400人の会場にもかかわらず、1000人分のパーティー券を販売した”疑惑”を報じたのでした。パーティーに出席しない人の購入分は、政治資金規正法では寄付に当たるのですが、松本総務相の資金管理団体は「寄付」と報告してないそうで、政治資金規正法違反の疑いがあるというものです。

普段なら赤旗を無視する大手メディアも、さっそく食いついて大きく報道しています。そのため、岸田首相も「本人から適切に説明すべきだ」と発言をせざるを得なくなったのでした。あきらかに岸田首相に、メディアの前で“弁明”させるように仕向けた“力”がはたらいているように思えてなりません。まるで次は松本新総務相だと言わんばかりです。

さらに追い打ちをかけるように、国会の予算委員会の大臣席で、何故か水を飲むためにマスクを外した写真ばかりが掲載されている秋葉賢也復興相についても、公設秘書2人に対して、選挙期間中、給料とは別に運動員としての報酬を支払っていたことを「フライデー」が報じ、公職選挙法違反の疑いが指摘されているのでした。秋葉復興相については、他に、次男を候補者のタスキをかけて街頭に立たせていたという、とんでもない”影武者”疑惑も持ち上がっています。まさに際限のないドミノ倒しの様相を呈していると言えるでしょう。

そして、きわめつけ、と言うかまるでトドメを刺すように、岸田首相についても、文春オンラインが、昨年の衆院選における選挙運動費用収支報告書で「宛名も但し書きも空白の白紙の領収書94枚を添付」していたことが判明し、これは「目的を記載した領収書を提出することを定めた公職選挙法に違反する疑いがある」と報じたのでした。私たちが若い頃は、文春は内調(内閣情報調査室)の広報誌とヤユされていました。それが今や「文春砲」などと言われて、やんやの喝采を浴びているのです。

言うまでもなく、その背後に、自民党内の権力闘争が伏在しているのは間違いないでしょう。衆参で絶対的な勢力を持ち、しかも、向こう3年間選挙がない「黄金の3年」だからこそ、選挙を気にせず思う存分権力闘争に注力できるという裏事情も忘れてはならないのです。

SAMEJIMA TIMESの鮫島浩氏によれば、岸田首相の足をひっぱっているのは、自民党の茂木敏充幹事長、萩生田光一政調会長、麻生太郎副総裁、それに、松野博一官房長官だそうです。それがホントなら、岸田首相はもはや四面楚歌と言っていいでしょう。岸田政権のダッチロールが取り沙汰されるのは当然です。

SAMEJIMA TIMES
倒閣カウンドダウン「岸田降ろし」が始まった!

岸田首相は来年5月のG7広島サミットまで何とか総理大臣の椅子にしがみつくのではないか、と鮫島氏は言ってましたが、広島サミットを花道にするなどという、そんな予定調和の権力闘争なんてあるんだろうか、と思いました。その前に、一部で観測されているように、岸田首相が伝家の宝刀を抜いて、起死回生の解散総選挙に打って出る可能性だってあるかもしれません。そうなったら、選挙後には、鮫島氏が言う”増税大連立”構想が(もし事実なら)俄然現実味を帯びてくるでしょう。

「またぞろ国民そっちのけの権力闘争」というお定まりの声が聞こえてきそうですが、しかし、そこには、衆愚政治に踊らされ、何ががあっても自民党に白紙委任する日本の有権者の愚鈍な姿も二重映しになっているのです。愚鈍な有権者のお陰で、政治家たちは心置きなく高崎山のボス争いのような権力闘争に心を砕くことができるのです。

昔、「田舎の年寄り」が自民党を支えているという話がありました。「田舎の年寄り」というのは、日本の後進性を体現する、言うなれば”寓意像アレゴリー”としてそう言われたのでした。しかし、世代が変わって、都会生まれの若者が年寄りになっても、何も変わらなかったのです。相も変わらず国家はお上なのです。

みんながスマホを持つようなネットの時代になっても、昔、政治は二流でも経済は一流と言われたのが、経済までが二流になっても、国民の政治に対する意識は何も変わらず次の世代に引き継がれたのです。これは驚くべきことと言わねばなりません。

「批判するだけでは何も変わらない」と言う人がいますが、批判しないから、批判が足りないから何も変わらないのではないか。無党派層や投票に行かない無関心層を何とかすれば、政治が変わるようなことを言う人がいますが、そんな簡単な話なんだろうか、と思います。そういった政治にアパシーを抱いている人々が投票所に足を運ぶようになったら、逆に、むき出しの全体主義に覆われる怖れだってあるのではないか。彼らは必ずしもリベラルが願うような“賢明な人たち”だとは限らないのです。

昔、「デモクラティック・ファシズム」という言葉がありました。私は、二大政党制を理想視して、労働戦線の右翼的再編=連合の誕生と軌を一にして誕生した旧民主党の存在を考えるとき、(本来の意味とは多少異なりますが)その言葉を思い出さざるを得ないのです。左右の「限界系」を排した中道の道が左派リベラルが歩む道だというような「野党系」の講壇議会主義がありますが、今の立憲民主党を見るにつけ、”中道”を掲げて翼賛体制に突き進む、シャンタル・ムフの指摘を文字通り地で行っているように思えてなりません。私は、「立憲民主党が野党第一党である不幸」ということを口が酸っぱくなるくらい言ってきましたが、それは換言すれば、野党ならざる政党が野党である不幸なのです。

それにしても、立憲民主党に随伴する左派リベラルのお粗末さよ、と言いたくなります。彼らは、立憲民主党が目指しているのが自分たちが求めている政治とは真逆のものだということがどうしてわからないのか、と思います。連合に対しても然りです。

福島第一原子力発電所の事故をきっかけにあれほど盛り上がった反原発運動も、野田佳彦首相(当時)との面会で、風船の空気がぬけるようにいっきにしぼんでしまったのですが、その失敗を安保法制反対の国会前行動でも繰り返したのでした。誰がその足をひっぱってきたのか。

れいわ新選組の長谷川羽衣子氏が鮫島氏との対談で、アメリカのオキュパイ運動を例に出して、社会を変えるには、議会政党も社会運動の中から生まれ、社会運動と共振したものでなければダメなんだ、というようなことを言っていましたが、まったくそのとおりです。私も何度もくり返してきましたが、ギリシャのシリザでもスペインのポデモスでもイギリスのスコットランド国民党でもフランスの不服従のフランスでもイタリアの五つ星運動でもみんなそうです。選挙の結果には紆余曲折があり、必ずしもかつての勢いがあるとは言えませんが、しかし、少なくとも野党というからには、社会運動を背景にし社会運動と共振した政党でなければ野党の役割を果たせないのは自明です。

言うまでもないことですが、松下政経塾や官僚出身の議員や、秘書としてそういった議員から薫陶を受けた議員たちには、東浩紀などと同じように、上から政治のシステムを変えればいいというような、政治を技術論で捉える工学主義やエリート主義があります。その意味では、官僚機構に支えられた政権与党と同じなのです。だから、必然的に財政再建派にならざるを得ず、”増税政党”としての性格を帯びざるを得ないのです。おそらく彼らの頭の中は増税一択なのでしょう。福祉のため、財政再建のためという口実の下、今度は軍備増強のための増税に与するのは目に見えています。

昔、「田舎の年寄り」が支えると言われた政治が、世代を変わっても何も変わらず私たちの上に君臨しているのも、社会運動から生まれた真に変革を志向する政党がないからです。それは、右か左かではありません。上か下かなのです。そして、求められるべきは下を代弁する政党なのです。


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