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(2022年11月)

先日、九州から喪中の挨拶のはがきが届きました。それは、私が九州にいた頃に毎日のように通っていた焼き鳥屋の主人からでした。店は夫婦二人でやっていたのですが、そのはがきで、私たちが「ママ」と呼んでいた奥さんが今年亡くなっていたことを知ったのでした。

九州の会社に勤めていた際、営業所に転勤になり、営業所のある町で一人暮らしをしていたのですが、焼き鳥屋はその町にありました。

赴任したのは、新設の営業所だったので、オープンして間もなく営業所のメンバーと親睦会を開いたときに、地元で採用された事務の女の子の提案で初めて行ったのを覚えています。地元の若者たちに人気の店で、いつも夫婦でてんてこまいしていました。

以来、何故か、私は酒も飲めないのに、その焼き鳥屋に通いはじめたのでした。やがて、よほどのことがない限り、ほぼ毎日通うようになりました。そのため、店に行かないと「どうしたの?」と心配して電話がかかってくるほどでした。

コロナ禍前に帰省したときも店に行きましたが、そのときは夫婦とも元気でしたので、はがきが届いてびっくりしました。「ママ」の享年は74歳だったそうです。もうそんな年になっていたとは思ってもみませんでした。

また、はがきには、自分も来年80歳になるので、これを機会に店を畳むことにした、と書いていました。また、年始の挨拶も今年限りで遠慮したいとも書いていました。

何事にも時計の針が止まったままのような感覚の中にいる私は、ショックでした。そんなわけがないのですが、いつまでも何も変わらないように思っていたからです。

同じ町内に、当時の会社の先輩だった人が住んでいるので、電話してみました。その人は、親類の会社を手伝うために、私と入れ替わるように会社を辞めたので、会社にいた頃はほとんど交流はありませんでした。ところが、親戚の会社が営業所と同じ町内にあり、その人ものちに町に転居してきたことで、急速に親しくなったのでした。今でも帰省するたびに会っていますが、癌に侵されて何度も手術をしており、会うたびに「もうこれが最後かもしれないな」と言われるのです。それで、電話するのを一瞬ためらいましたが、しかし、喪中の挨拶が来てないので大丈夫だろうと思って、勇気を奮って電話したのでした。

電話の様子ではまだ元気な様子で安心しました。今年は前立腺癌の手術をしたそうです。その前に胃癌と膀胱癌の手術もしています。それでも、体調がいいと海に魚釣りに出かけている、と言っていました。

話を聞くと、焼き鳥屋の「ママ」は病死ではなく、店の階段を踏み外して転落し、それが原因で亡くなったのだそうです。そんなことがあるのかと思いました。

先輩だった人の親類の会社も、私が上京したあとに倒産して、その際、社長だった義兄がみずから命を絶ったという話も、以前会ったときに聞きました。

その人から見れば甥っ子になる社長の息子二人とは、年齢が近いということもあって一時よく遊んでいたので、彼らのことを訊いたら、何と二人とも癌で亡くなったということでした。それこそいいとこのボンボンで、何不自由のない生活をしていましたが、晩年は倒産と病気で苦労したそうです。

電話で話しているうちに、”黄昏”という言葉が頭に浮かんできました。そうやって、昔親しかった人が次々と亡くなると、何だかひとり取り残されていくような気持になるのでした。年を取るというのはこんな気持になることなのか、と思いました。

翌日、久し振りに奥多摩の山に行ったら、膝が痛くなったということもあるのですが、ふと喪中のはがきや電話したことなどが思い出されて歩く気がしなくなり、途中で下りてきました。こんなことも初めてでした。


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