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自民党へすり寄る立民と国民民主。立憲民主党は、国民民主党や連合に先を越されて焦っているのかもしれません。

野田佳彦のようなゾンビが未だに徘徊している立憲民主党は、国民民主党とどう違うのか、それを説明できる人なんていないでしょう。

浅田彰は、田中康夫との対談で、野田佳彦の安倍追悼演説は「噴飯ものだった」と、次のようにこき下ろしていました。

現代ビジネス
「憂国呆談」第5回 Part1
安倍追悼演説で野田がダメダメだった理由を、改めて明かそう《田中康夫・浅田彰》

浅田 (略)「再びこの議場で、あなたと、言葉と言葉、魂と魂をぶつけ合い、火花散るような真剣勝負を戦いたかった」とか言って自分で感動してたけど、安倍との最後の党首討論では一方的に押しまくられて衆議院解散・総選挙に追い込まれ、結果、安倍自民党に政権を譲り渡しただけ。あの醜態のどこが「言葉と言葉、魂と魂をぶつけ合う真剣勝負」なの?


一方、田中康夫は、「追悼演説はとても素晴らしかった」と礼賛した『週刊朝日』の室井佑月のコラムを、次のようにやり玉に上げていました。

田中 (略)「『勝ちっ放しはないでしょう、安倍さん』という言葉に、微(かす)かに勝てる兆しが見えた気がした。野党というか、野田さんはまだ諦めていない。野党を応援しているあたしも、『よっしゃまだまだこれから』という気分になった。一部、野党の偉い人が、野田さんの演説に対し『とても男性のホモソーシャル的な演説だと思った』といっていたが、足を引っ張るのはやめていただきたい」との文章には絶句したよ。


翼賛体制へと突き進む野党ならざる野党の醜悪は、政党の問題だけではないのです。彼らに随伴する「野党共闘」の市民団体も同じです。

田中のやり玉は続きます。

田中 (略)それにしても、「れいわとかあんなもん野党じゃない」と大宮駅前の街頭演説で絶叫する動画が話題となった枝野幸男は、「総選挙で時限的とは言え『消費税減税』を言ったのは政治的に間違いだった。2度と『減税』は言わない」と自分のYouTubeで平然と“広言”した(略)。
それを山口二郎チルドレンのような存在の千葉商科大学の田中信一郎が、「野党全体に立ち位置と戦略の再考を突き付けた。その意味を各党が受け止められるかどうかで、今後の日本が変わる」と牽強付会(けんきょうふかい)な見出しを付けて朝日新聞の「論座」で、「自民党とは異なる経済認識に基づく、経済政策の選択肢を明確に打ち出す」 「枝野発言は『個人重視・支え合い』の国家方針に拠る」と語るに至っては、イヤハヤだ。


私も、「論座」の田中信一郎氏の投稿を読みましたが、「語るに落ちた」という感想しか持てませんでした。

家庭用電気料金は、NHKの調べでは昨年の秋以降、既に20%上がっているそうですが、さらに電力各社は、来年の1月以降30%以上の値上げを申請しています。政府が支給する「支援金」で、1月から料金が下がると言われていますが、その一方でさらなる値上げも予定されているのです。

さらに、防衛費の増額も私たちの生活に大きくのしかかろうとしています。また、次の2023年4月~2027年3月の「中期防衛力整備計画」では、2019年4月~2023年3月までの27兆円から大幅に増額され、最大43兆円になると言われています。財源については「当面先送り」となっていますが、「国民が広く負担する」消費税増税で賄われるのは既定路線です。所得税や法人税は、あくまでめくらましにすぎません。本音は消費税増税なのです。そのために(翼賛的な増税体制を作るために)、自民党は立民や国民民主を取り込もうとしているのでしょう。

生活必需品を含む物価の高騰もとどまるところを知りません。これでは、弱者はもう「死ね」と言われているようなものです。日本の生活保護の捕捉率(受給資格がある人の中で実際に受給している人の割合)は20%程度で、受給者は人口の1.6%にすぎません。残りの1千万人近い人たちは、生活保護の基準以下の生活で何とか生を繋いでいるのです。

しかも、メディアや世論は、生活保護を「我慢」しているのが偉くて、生活保護を受給するのは「甘え」のように言い、心理的に申請のハードルを高くしているのでした。僅か0.7%程度の不正受給を大々的に報道して、生活保護を受けるのが”罪”であるかのようなイメージさえふりまいているのでした。それが孤独死や自殺などの遠因になっていると言われているのです。メディアや世論の生活保護叩きは、もはや犯罪ださえ言えます。

ちなみに、日弁連の「今、ニッポンの生活保護制度はどうなっているの?」というパンフレットには、次のような各国の比較表が載っていました。ちょっと古い資料ですが、これを見ると、日本が福祉後進国であることがよくわかります(クリックで拡大)。

生活保護捕捉率

この物価高の中で、貧困に喘ぐ人々は今後益々苦境に陥るでしょう。それは“格差”なんていう生易しいものではないのです。文字通り生きるか死ぬかなのです。

日本は30年間給料が上がらず、そのためデフレスパイラルに陥り、”空白の30年”を招いたと言われていましたが、さすがに最近は大企業を中心に賃上げの動きが出ています。でも、それは一部の人の話なのです。賃上げに無縁な人たちにとって、物価高は真綿で首を絞められているようなものです。

国税庁の令和3年(2021年)の「民間給与実態統計調査」によれば、給与所得者の平均は433万円です。その中で、正規(正社員)は508万円、非正規は197万円ですが、正規(正社員)が占める割合は令和2年で僅か37.1%にすぎません。

何度もしつこく言いますが、右か左かではないのです。上か下かなのです。それが今の政治のリアルなのです。“下”を代弁する政党、党派の登場が今こそ待ち望まれているときはないのです。

「世界内戦」の時代は民衆蜂起の時代でもある、と笠井潔は言ったのですが、文字通り「世界内戦」の間隙をぬって、イランや中国では民衆が果敢に立ち上がっているのでした。また、ミャンマーでは、軍事政権に対して、若者たちが銃を持って抵抗しています。他には、モロッコやモンゴルでも、物価高に対して大規模な抗議デモが発生しています。

イランや中国の民衆が「Non」を突き付けているのは、「ヒジャブ」や「ゼロコロナ政策」ですが、しかし、それはきっかけアイコンにすぎません。一見、巨像に蟻が挑むような無謀な戦いのように見えますし、欧米のメディアもそういった見方が一般的でした。日本の”中国通”の識者たちも、習近平政権は、デモが起きたからと言って、共産党のメンツに賭けても政策を変えることあり得ない、としたり顔で言っていました。ところが、イランのイスラム政権も中国の習近平政権も、予想に反して「道徳警察」の廃止やゼロコロナ政策の緩和など、一部の”妥協”を余儀なくされているのでした。まるで肩透かしを食らったような感じですが、それは、独裁者たちがデモの背後にある民衆のネットワークを怖れているからでしょう。中国で立ち上がったのは、習近平が言うように学生たちが中心ですが、しかし、学生の背後にネットを通して一般の民衆が存在することを習近平もわかっているからでしょう。

民衆の離反が瞬く間に広がって行くネットの時代では、私たちが思っている以上に、独裁政権はもろいのかもしれません。暴力装置による恐怖政治も、前の時代ほど効果がないのではないか。ネットを媒介にした民衆の連帯の前では、文字通り張り子の虎にすぎないのではないか。

今のようなグローバルな時代では、海外に出ることが当たり前のようになっています。日本だけでなくアメリカやヨーロッパに留学した学生たちは、ネットを通して中国本土の学生たちとリアルタイムに連帯することも可能になったのです。香港の民主化運動で話題になった、中心のない分散型の抵抗運動「Be Water」もネットの時代だからこそ生まれたスタイルですが、今回の中国の民衆蜂起でも、国の内外を問わずそれが生かされているのでした。

それは、イランも同じです。先日、在日イラン人たちが「イスラム体制打倒」を掲げてデモをしたというニュースがありましたが、イラン人たちが国の根幹であるイスラム教シーア派による神権政治を「否定」するなど、本来あり得ないことです。でも、海外に出たイラン人たちは、さまざまな価値観に触れることで、絶対的価値による”思考停止”を拒否したのです。そうやって拷問や死刑になるのも厭わずに、「自由」を求めて本国で蜂起した同胞に連帯しているのです。それもネットの時代だからです。

厚生労働省の「2019年国民生活基礎調査」によれば、2018年の貧困線は127万円で、日本の相対的貧困率は15.4%と報告されています。1千万人という数字は、決してオーバーではないのです。

イランや中国の人々は、「自由」という言うなれば形而上の問題で蜂起したのですが、日本にあるのは身も蓋もない胃袋の問題です。「起て、飢えたる者よ」というのは、決して過去の話ではないのです。


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