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今回のワールドカップは、暇だったということもあったし、ABEMAが全試合を(しかも無料で)放送したということもあって、ほぼ全試合観ることができました。

結局、アルゼンチンが36年振りにワールドカップを手にすることになったのですが、実は私は延長戦の後半早々に、ゴール前のこぼれ球をメッシが入れた時点で、テレビを消してふて寝したのでした。「ニワカ」ですので、それもありなのです。

ところが、朝起きてテレビのスイッチを入れると、そのあとエンバペがPKを入れて同点に追いついて、最終的にはPK戦になってアルゼンチンが勝ったことを知ったのでした。

どうしてふて寝したのかと言えば、フランスを応援していたということもありますが、メッシが好きではないからです。小柳ルミ子が歓喜のあまり号泣したという記事が出ていましたが、私はその反対です。

メッシの背後にはアルゼンチンの汚いサッカーがあります。自分たちのラフプレーは棚にあげて、すぐ倒れて仰々しくのたうちまわり、そして、審判に文句ばかり言う。アルゼンチンのおなじみのシーンには、毎度のことながらうんざりさせられます。

オランダ戦ほどではなかったものの、アルゼンチンとフランス戦を見ても、マナーの違いは歴然としていました。手段を選ばず「勝てば官軍」という考えは、別の意味で、日本と似たものがあります。メッシは、そんなアルゼンチンのサッカーのヒーローにすぎないのです。

翌日の日本のテレビには、「神の子・メッシ」などという恥ずかしいような賛辞が飛び交い、ここはアルゼンチンかと思うくらい小柳ルミ子ばりの「勝てば官軍」の歓喜に沸いていましたが、何をか言わんやと思いました。

たしかに、メッシのキックの精度は目を見張るものがあったし、こぼれ球などに対する反応は抜きん出ていたと思います。しかし、動きは相変わらず交通整理の警察官みたいだったし、ボールが渡っても奪われるシーンも多くありました。メッシがいることで、アルゼンチンは10人半のサッカーを強いられた感じがありました。

MVPは、むしろメッシ以外のアルゼンチンの選手たちに与えるべきでしょう。彼らは、メッシを盛り上げるために、半人足りないサッカーに徹して勝ち進んで行ったのです。それはそれで凄いことです。

FIFAの不透明な金銭のやり取りや出稼ぎ労働者が置かれた劣悪な労働環境やLGBTに対する差別などに、目を向けて抗議の声をあげたのはヨーロッパの選手たちでした。そんなものは関係ない、「勝てば官軍」なんだと言って目をつぶったのは、日本をはじめ他の国の選手たちでした。

カタール大会の負の部分などどこ吹く風とばかりに、カタールのタミル首長とFIFAのジャンニ・インファンティーノ会長からトロフィを渡されて満面の笑みを浮かべるメッシの姿は、全てをなかったことにするよこしまな儀式のようにしか見えませんでした。

また、アルゼンチンの優勝を自国のそれのように報道する日本のメディアは、ハイパーインフレに見舞われているアルゼンチンが、サッカーどころではない状況にあることに対しては目を背けたままです。アルゼンチンからカタールまで遠路はるばるやって来て応援しているサポーターは、インフレなどものともしない超セレブか全財産を注ぎ込んでやって来たサッカー狂かどっちかでしょう。いくらサッカーが貧者のスポーツだからと言って、その日の生活もままならず、それこそ泥棒か強盗でもしなければ腹を満たすこともできないような下層な人々はサッカーどころじゃないのです。

チェ・ゲバラとフィデル・カストロの入れ墨を入れたマラドーナは、そんな下層の虐げられた人々に常に寄り添う姿勢がありました。だから、アルゼンチンのみならずラテンアメリカの民衆の英雄ヒーローたり得たのです。しかし、メッシはアルゼンチンのサッカーのヒーローではあるけれど、マラドーナのようなサッカーを越えるカリスマ性はありません。それが決定的に違うところです。

もしマラドーナが生きていたら、今回のカタール大会に対しても、サン・ピエトロ大聖堂を訪問したときと同じように、痛烈な皮肉を浴びせたに違いありません。

一方、日本では、本田圭佑のような道化師ピエロを持て囃すことで、全てなかったことにされ、サッカー協会の思惑通り森保続投が既定路線になっているようです。小柳ルミ子が出場するのかどうか知りませんが、森保監督は大晦日の紅白歌合戦にも審査員として出演するそうなので、これで監督交代はまずないでしょう。検証など形ばかりで、いつものように「感動をありがとう!」の常套句にすべて収斂されて幕が引かれようとしているのです。

日本のサッカーはついに世界に追いついた、などと言うのは片腹痛いのです。どうして日本のサッカーには批評がないのか、批評が生まれないのか、と思います。それは、選手の選定や起用にまでスポンサーが口出しするほど、スポンサーの力が強いということもあるでしょう。でも、それはとりもなおさず、日本サッカー協会の体質に問題があるからです。批評させない、批評を許さない、目に見えない圧力があるのではないか。

高校時代にちょっとサッカーを囓っただけで”サッカーフリーク”を自称するお笑い芸人たち(ホントは吉本興業がそういったキャラクターで売り込んでいるだけでしょう)にサッカーを語らせる、バラエティ番組とみまごうばかりのサッカー専門番組。また、一緒に番組に出ているJリーグのOBたちも、所詮は協会の意向を代弁する協会の子飼いにすぎません。相撲などと同じように、如何にも日本的な”サッカー村”が既に形成されているのです。こんなカラ騒ぎでは、「ワールドカップが終わったらサッカー熱が冷める」のは当然でしょう。
2022.12.20 Tue l 芸能・スポーツ l top ▲