IMG_0002.jpg
(20代の頃)

この季節になると、いろんなところから定番のクリスマスソングが流れてきます。

仕事で渋谷に日参していた頃は、駅前のスクランブル交差点を囲うように設置されている電光掲示板から流れていたのは、山下達郎の「クリスマス・イブ」、稲垣潤一の「クリスマスキャロルの頃には」、ジョン・レノン&ヨーコ・オノ「ハッピー・クリスマス」などでした。それからクリスマスソングではないですが、TRFの「寒い夜だから」もよく流れていました。

その後、渋谷に行くこともなくなり、クリスマスとも無縁になってしまい、街中でクリスマスソングを聴くこともなくなりました。むしろ、ここ数年のクリスマスは、山に行って山の中を一人で歩いていたくらいです。

クリスマスと無縁になると、街を歩いていてもそういった年末の華やかなイベントから疎外されている自分を感じていましたが、最近は疎外感さえ感じることがなくなりました。

そんな中、スマホでラジコを聞いていたら、BOAの「メリクリ」が流れて来て、何だかわけもなく私の心の中に染み入ってきたのでした。もちろん、「メリクリ」が発売されたのは2004年の12月ですので、私が渋谷に日参していた頃よりずっとあとです。だから、渋谷の駅前の電光掲示板から流れていたのを聴いたわけではありません。

でも、何故か、BOAの歌声が、当時の私の心情をよみがえらせてくれるようなところがありました。

BOAメリクリ

「メリクリ」とはそぐわない話かも知れませんが、人生は断念の果てにあるのだ、ということをしみじみ感じてなりません。私たちはそんな切ない思い出を抱えて最後の日々を生きていくしかないのです。老いるというのは残酷なものです。

今日の朝日新聞に評論家の川本三郎氏が「思い出して生きること」という記事を寄稿していました。

朝日新聞デジタル
(寄稿)思い出して生きること 評論家・川本三郎

川本三郎氏と言えば、『朝日ジャーナル』の記者時代、取材で知り合った京浜安保共闘の活動家が起こした朝霞自衛官殺害事件を思い出します。川本氏は、事件に連座して、証拠隠滅罪で逮捕・起訴されて朝日新聞を懲戒免職になりました。その体験は、のちに『マイ・バック・ページ ある60年代の物語』という本で書かれていますが、朝日を辞めたあとは小説や映画や旅や散歩などとテーマにした文章を書いて、フリーで仕事をしていました。私は、『マイ・バック・ページ』以後は、永井荷風について書かれた文章などをときどき雑誌で読む程度でした。

その川本氏も既に78歳だそうです。朝日を退社したあと、当時美大生だった奥さんと結婚したのですが、その7歳年下の奥さんも2008年に癌で亡くなり、現在は荷風と同じように一人暮らしをしているそうです。「悲しみや寂しさは消えることはないが、もう慣れた」と書いていました。

そして、柳宗悦の「悲しみのみが悲しみを慰めてくれる。淋しさのみが淋しさを癒してくれる」(「妹の死」)という言葉を引いて、次のように書いていました。

 悲しみや寂しさを無理に振り払うことはないのだと思う。

 家内の死のあと、保険会社の女性に言われたことがある。

 一般的に夫に死なれた妻は長生きするが、妻に先立たれた夫は長く持たない、と。だから、長生き出来ないと覚悟した。

 それでもこの14年間なんとか一人で生きている。悲しみや寂しさと共にあったからではないかと思っている。


記事では、家事が苦手なので外食ばかりしていたら、ある日、酒の席で倒れて病院に運ばれ、医者から「栄養失調です」と告げられてショックを受けたとか、おしゃれすることもなくなり洋服はもっぱらユニクロと無印良品で済ませているとか、猫が好きだったけどもう猫を飼うこともできなくなった、というようなことが書かれていました。

そして、記事は次のような文章で終わっていました。

 「私は生きることより思い出すことのほうが好きだ。結局は同じことなのだけれど」

 フェリーニ監督の遺作「ボイス・オブ・ムーン」(90年)の中の印象に残る言葉だが、年を取ることの良さのひとつは、「思い出」が増えることだろうか。

 ベルイマン監督「野いちご」(57年)の主人公は、いまの私と同じ78歳の老人だったが、最後、一日の旅のあと眠りにつくとき、若い頃のことを思い出しながら心を穏やかにした。

 78歳になるいま、私も入眠儀式として、亡き家内とともに猫たちと一緒に暮らしたあの穏やかな日々を思い出している。思い出は老いの身の宝物である。


川本氏がどうして、京浜安保共闘の革命戦争にシンパシーを抱いたのか、私の記憶も定かではありませんが、『マイ・バック・ページ』でもそのことは明確に書いてなかったように思います(もう一度確認しようと本棚を探したのですが、『マイ・バック・ページ』は見つかりませんでした)。言うまでもなく、京浜安保共闘は、のちに赤軍派と連合赤軍を結成して、群馬の山岳ベースでの同志殺し(連合赤軍事件)へと暴走し、日本の新左翼運動に大きな(と言うか致命的な)汚点を残したのでした。

当時、革命戦争を声高に叫んでいた新左翼の思想について、既出の『対論 1968』(集英社新書)の中で、笠井潔氏は、「“革命戦争”とは、本土決戦を日和って生き延びることで繁栄を謳歌おうかするにいたった戦後社会を破壊することだった」「本土決戦を日和って延命した親たちに、革命戦争を対置したわけです」と言っていました。

川本三郎氏の場合、取材の過程で事件に巻き込まれて、心ならずも手を貸してしまったというのが真相なのかもしれません。ただ、その一方で、「本土決戦を日和って延命した親たち」に対置した革命戦争の思想に対して、どこか”引け目”を感じていたのではないか、と思ったりもするのです。だったら、世代的にはまったくあとの世代である私にもわかるのでした。

『対論 1968』でけちょんけちょんに批判されていた白井聡氏は、『永続敗戦論』の中で、(既出ですが)本土決戦を回避した無条件降伏について、次のような歴史学者の河原宏氏の言葉を紹介していました。

日本人が国民的に体験しこそなったのは、各人が自らの命をかけても護るべきものを見いだし、そのために戦うと自主的に決めること、同様に個人が自己の命をかけても戦わないと自主的に決意することの意味を体験することだった。
(『日本人の「戦争」──古典と死生の間で』講談社学術文庫)
※『永続敗戦論』より孫引き


「近衛上奏文」に示されたような「革命より敗戦がまし」という無条件降伏の欺瞞。その上に築かれた虚妄の戦後民主主義。

新左翼の若者たちは、そういった戦後の「平和と民主主義」に革命戦争=暴力を対置することで、無条件降伏の欺瞞性を私たちに突き付けたのです。当時、新左翼党派の幹部であった笠井氏は、「暴力は戦術有効性ではなく、ある意味で思想や倫理の問題として受け止められた」と言っていましたが、新左翼の暴力があれほど私たちに衝撃を与えたのも、そういった暴力に内在したエートスによって、“引け目”や”負い目”を抱いたからではないか(“引け目”や”負い目”を強いられたからではないか)と思います。

でも、年を取ると、革命に対するシンパシーも切ない恋愛も一緒くたになって、「悲しみや寂しさ」をもたらすものになっていくのです。

1971年の大衆蜂起(渋谷暴動)の現場になった渋谷の駅前では、20年後、私たちは電光掲示板から流れるクリスマスソングをBGMにして、恋人と手を取り合ってデートに向かっていたのでした。あるいは、輸入雑貨の会社に勤めていた私は、人混みをかき分けて最後の追い込みに入ったクリスマスカードの納品に先を急いでいたのでした。先行世代が提示した革命戦争の「思想や倫理」は、欠片も残っていませんでした。私は、自分の仕事と恋愛のことで頭がいっぱいでした。

最近、ふと、倒れるまでどこまでも歩いて、「夜中、忽然として座す。無言にして空しく涕洟す」と日記に書いた森鴎外のように、山の中で人知れずめいっぱい泣きたい、と思うことがあります。年甲斐もなく、しかも、突然に、BOAの「メリクリ」にしんみりとしたのも、そんな心情と関係があるのかもしれません。最後に残るのは、やはり、「悲しみや寂しさ」の思い出だけなのです。
2022.12.22 Thu l 日常・その他 l top ▲