Revolution+1


足立正生監督の「REVOLUTION+1」の完成版が、先週の土曜日(24日)から公開されましたので、今日、横浜のジャック&ベティに観に行きました。

「REVOLUTION+1」が年内に公開されているのは、横浜のジャック&ベティと大阪の第七藝術劇場と名古屋のシネマスコーレの三館のみです。

私が観たのは公開3日目の昼間の回でしたが、客は半分くらいの入りでした。初日は超満員で、二日目も監督の舞台挨拶があったので入りはよかったみたいですが、三日目は平日ということもあってか、関東で唯一の上映館にしては少し淋しい気がしました。観客は、やはり全共闘世代の高齢者が目立ちました。

国葬の日に合わせてラッシュ(未編集のダイジェスト版)の公開がありましたが、そのときから観もしないで「テロ賛美」「暴力革命のプロパガンダだ」などと言って、ネトウヨや文化ファシストがお便所コオロギのように騒ぎ立てていました。しかし、彼らには「安心しろ。お前たちの心配は杞憂だ」と言ってやりたくなりました。

「REVOLUTION+1」はどうしても「略称・連続射殺魔」(1969年)と比較したくなるのですが、「略称・連続射殺魔」に比べると、饒舌な分凡庸な映画になってしまった感は否めません。ラッシュの限定公開を国葬の日にぶつけたので、もっと尖った映画ではないかと期待していたのですが、期待外れでした。

足立監督は、記者会見で、山上徹也容疑者(映画では川上哲也)を美化するつもりはないと言っていましたが、むしろそれが凡庸な作品になった要因のようにも思います。「やったことは認めないけど気持はわかる」というのは「俗情との結託」(大西巨人)です。むしろ、あえて「美化」することから自由な表現が始まるのではないか。尖ったものでなければ現実をこすることはできないでしょう。

安倍晋三元首相や文鮮明夫妻を痛烈に批判する言葉はありますが、しかし、「ジョーカー」のように、彼らに対する憎悪が観る者に迫ってくる感じはありませんでした。

監督自身も舞台挨拶で、この映画を「ホームドラマ」と言っていたそうですが、主人公と家族の関係もステレロタイプな描き方に終始していました。私は、「家庭の幸福は諸悪の根源である」という太宰治の言葉が好きなのですが、映画のように、家族はホントに”帰るべきところ”なのか、”郷愁”の対象なのかと思いました。だったら、世の中にはどうしてこんなに家族殺しがあるのかと言いたくなります。

主人公の妹が、自分の旧統一教会に対する復讐は(兄と違って)「政治家を変えること」だと言っていましたが、その台詞には思わず笑いを洩らしそうになりました。さらに、妹は次のように言います。

「『民主主義の敵だ』って言うバカもいる。でも、民主主義を壊したのは安倍さんの方だよ。誰が考えても民主主義の敵を攻撃したのは兄さんだよ。だから、私は兄さんを尊敬するよ」

そして、妹は、「青い山脈」みたいに、うららかな日差しに包まれた坂道を自転車で駆け登って行くのでした。私はそのシーンに仰天しました。

安倍元首相を銃撃するシーンの前には、足立映画ではおなじみの水(雨)がチラッと出て来ますが、監督の意図どおりに効果を得ているようには思えませんでした。

主人公の父親が京大でテルアビブ空港乱射事件(リッダ闘争)の”犯人”と麻雀仲間だったという設定や、アパートの隣室に「革命二世」の女が住んでいて、主人公が銃を造っていると打ち明けると、「あんた、革命的警戒心が足りないよ」と諭されるシーンや、主人公が「おれは何の星かわからないけど星になりたい」と呟くシーンが、この映画の”通奏低音”になっている気がしないでもありませんが、しかし、観客に届いているとは言い難いのです。

そもそも映画に登場する「革命二世」や「宗教二世」も、まるで取って付けたような感じで、その存在感は人形のように希薄です。「革命二世」や「宗教二世」の女性に誘われて気弱く断る主人公に、監督の言う山上徹也容疑者「童貞説」が示されており、山上容疑者の人となりを描いたつもりかもしれませんが、そこにはピンク映画時代の古い手法と感覚が顔を覗かせているようで興ざめでした。

山上徹也容疑者の行為がどうしてテロじゃないと言えるのか。それは、単にマスコミや警察がそう言っているだけでしょう。映画はもっと自由な想像力をはたらかせることができる表現行為のはずです。たとえば、(架空の)教団に視点を据えてカルトの残忍さと滑稽さを描くことで、「川上哲也」の一家を浮かび上がらせる手法だって可能だったはずです。その方が足立映画の武器であるシュルレアリスムを駆使できたのではないかと思います。

どうして警察やメディアの視点に沿った「俗情」と「結託」したような映画になってしまったのか。700万円強という低予算で、しかも、実在の事件から日を置かず制作され撮影期間も短かったという事情があったにせよ、とても残念な気がしました。私は、「問題作」にもなってないと思いました。むしろ、戦後民主主義におもねる不自由な映画のように思いました。

映画の出来はともかく、この映画が上映されることに意味があるという意見もありますが、それは政治的に擁護するための詭弁で、ある意味作品に対する冒涜とも言えます。私はその手の言説には与したくないと思いました。

ただ、低予算、短い撮影期間の突貫工事の割には、チープな感じはなく、足立正生監督の「映画を撮るぞ」のひと言で、今の日本の映画界の屋台骨を支える(と言っても決してオーバーではない)錚々たるメンバーがはせ参じた「足立組」の実力を見た気がしました。その点は凄いなと思いました。
2022.12.28 Wed l 芸能・スポーツ l top ▲