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■紅白歌合戦


私は、今年も「紅白歌合戦」は観ませんでした。

前の記事で書いたように、子どもの頃は、大晦日と言えば「年取り」のあと、家族そろって「紅白歌合戦」を観るのが慣例でした。

昔は、テレビというか、受像機自体がお茶の間では欠かすことのできない大きな存在で、テレビを観ないときは芝居の緞帳のような布製の覆いをかぶせていました。それくらい大事なものだったのです。

また、カラー放送が始まる前は、上から赤・青・緑(?)の三色が付いたプラスティック製のテレビ用の眼鏡のようなものを取り付けて、カラー放送を観たつもりになっていました。テレビ用の眼鏡には拡大鏡のようなものもあり、それを取り付けて、14インチのテレビで20インチのテレビを観ているような気分になったりもしていました。

ところが、あの拡大鏡のようなものは何と呼んでいたんだろうと思って、ネットで検索したら、今も「テレビ拡大鏡」という名前で売られていることがわかり、びっくりしました。何とあれはロングセラーの商品になっていたのです。

でも、現在、家族そろってコタツに入り、テーブルの上に置かれたみかんを食べながら(みかんも箱ごと買っていた)、「紅白歌合戦」を“観戦”するというのは想像しづらくなっています。

受像機自体は、昔の拡大鏡で観ていた頃に比べると、信じられないくらい巨大化していますが、しかし、もう昔のような存在感はありません。木製の家具調テレビというのもなくなったし、ましてや芝居の緞帳のような布で覆うこともなくなりました。そもそも家族がそろってみかんを食べるお茶の間というイメージも希薄になっています。いや、一家団欒さえ今や風前の灯なのです。

聞くところによれば、地上波は中高年がターゲットだそうです。若者は、PCやスマホでAmebaやYouTubeを観るのが主流になっており、ひとり暮らしだと、テレビ(受像機)を持ってない若者も多いのだとか。ケーブルテレビを契約している家庭では、地上波の番組よりカテゴリーに特化したケーブルテレビのチャンネルを観ることが多いそうです。

私自身も、いつの間にか「紅白歌合戦」を観ることはなくなり、「紅白歌合戦」を観なくても正月はやって来るようになりました。

平岡正明が採点しながら「紅白歌合戦」を観ていると言われていたのも、今は昔なのです。当時、平岡正明は、朝日新聞に“歌謡曲評”を書いていました。今で言う「昭和歌謡」ですが、あの頃は「歌は世に連れ、世は歌に連れ」などと言われ、歌謡曲が時代を映す鏡だなどと言われていました。

五木寛之が藤圭子をモデルに書いたと言われる『怨歌の誕生』をはじめ、彼の一連の歌謡曲とその背後でうごめく世界をテーマにした小説なども、私は高校時代からむさぼるように読んでいました。平岡正明も五木寛之もそうですが、ジャズの視点で歌謡曲を語るというのも斬新で、インテリの間では歌謡曲を語ることがある種のスノビズムのように流行っていました。 

しかし、今は私自身が歳を取ったということもあるのでしょうが、時間の観念もまったく違ってしまい、まるでタイムラインを見ているように移り変わりが激しく、それにAIみたいなデータでつくられたような歌も多いので、私のような人間は心に留める余裕すら持てません。ヒャダインの分析や批評は秀逸で面白いと思いますが、昔のように世代や属性を越えた「国民的ヒット」が生まれるような社会構造もとっくに消え失せ、もう「誰もが知っている歌」の時代ではなくなったのでした。

■お笑い


では、歌謡曲に代わるのが、現在、テレビを席捲しているお笑いなのかと思ったりもしますが、それもずいぶん危いのです。地上波のメインターゲットが中高年だとすれば、お笑いがそんなに中高年に受け入れられているとは思えません。

大晦日は、日本テレビでやっていた「笑って年越し!世代対決 昭和芸人vs平成・令和芸人」という番組を観ましたが、新世代の芸人だけでなく、「世代対決」と銘打って「昭和芸人」も持って来たところに、中高年をターゲットにする地上波のテレビの苦心が伺える気がしました。しかし、ぶっつけ本番のライブが裏目に出た感じで、余計笑えない芸ばかりが続くので、私はいつの間にか眠ってしまい、目が覚めたら番組は終わっていました。

現在、テレビを席捲しているお笑いは、吉本興業などによって捏造されたテレビ用のコンテンツにすぎません。大衆の欲望や嗜好で自然発生的に生まれたものブームではないのです。だから、大衆や時代との乖離が益々謙虚になってきているように思います。人為的につくられたお笑いブームもぼつぼつ終わりが見えてきた気がしないでもありません。

お笑いにとって、今のような「もの言えば唇寒し」の時代は、あまりに制約が多くやりにくいというか、お笑いが成り立ちにくいのはたしかでしょう。昔のように、歌謡曲で革命を語るような(とんでもない)時代だったら、もっと自由にお笑いが生まれたはずです。

M-1グランプリでウエストランドが優勝して、私も彼らの漫才は最近では唯一笑えましたが、しかし、ウエストランドのような漫才さえも、悪口かどうかと賛否が分かれているというのですから、驚くばかりです。悪口だったらNGだと言うのでしょうか。

今やお笑いをほとんどやめてしまった、タモリ・明石家さんま・ビートたけしの御三家をはじめ、ダウンタウンや爆笑問題やナインティナインが、お笑い芸人のロールモデルであることは、お笑い芸人にとってこれ以上不幸なことはないでしょう。彼等こそ、お笑いをテレビ向けに換骨奪胎してつまらなくした元凶とも言うべき存在だからです。今の彼らはトンチンカンの極みと言うしかないような、貧弱なお笑いの感覚しか持っていません。歌を忘れたカナリアが歌を語るみじめさしかないのです。

ウエストランドのお手本があの爆笑問題であれば、彼らの先は見えていると言えるでしょう。今のお笑いのシステムの中でいいように消費され、たけしや爆笑問題のようなつまらない毒舌になっていくのは火を見るよりあきらかです。

「ごーまんかましてよかですか?」みたいな話になりますが、昔は発言の機会も与えられることがなかった「頭の悪い人たち」が、ネットの時代になり、SNSなどで発言の機会を得て、社会をこのように自分たちで自分たちの首を絞めるような不自由なものにしてしまったのです。

それがGoogleの言う“総表現社会”の成れの果てです。もっとも、「Don't be evil」と宣ったGoogle自身も、今や「Is Google the new devil?」とヤユされるように、偽善者の裏に俗悪な本性が隠されていたことが知られたのでした。”総表現社会”なるものは、「水は低い方に流れる」身も蓋もない社会でしかなかったのです。そのことははっきり言うべきでしょう。

テレビがお茶の間の王様ではなくなったのに、そうであればあるほどテレビは、過去の栄光を取り戻そうとするかのように、「頭の悪い人たち」に迎合して、「水が低い方に流れる」時代の訓導であろうとしているのです。それに随伴するお笑いのコングロマリットが捏造した今のお笑いが、文字通り噴飯ものでしかないのは当然と言えば当然でしょう。

ウエストランドがネタにしていたYouTubeも、広告費の伸び悩みや参入者 の増加による再生回数の奪い合いなどによって、ユーチューバーが謳歌していた”我が世の春”も大きな曲がり角を迎えようとしていますが、皮肉なことにそれは、お笑いにとっても他人事ではないのです。

Twitterの問題に関して、一私企業の営利に担保された「言論の自由」なんて本来あり得ないと言いましたが、それはYouTubeもお笑いも同じなのです。
2023.01.02 Mon l 社会・メディア l top ▲