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■お追従コメント


あるタレントがYouTubeのチャンネルを閉鎖するそうで、そのことが話題になっています。どうやらときどきチェンネルに登場する家族に対する批判的なコメントが殺到したのが原因のようです。

通常、YouTubeのコメント欄は、芸能人のブログやTwitterやインスタなどと同じように、ファンからのお追従コメントで溢れるものです。それは、ユーチューバーなども同様です。私などは気色が悪いというか、バカバカしいという気持しか抱きませんが、しかし、世の中はそういった空気の中でしか生きることができない人間も多いのです。そこにあるのは、言うまでもなく同調圧力です。同調圧力に身を委ねることによってしか確認できないスカスカの自分。

ところが、件のタレントのように、何か意に沿わないことがあると、途端にお追従コメントが坊主憎けりゃ袈裟まで憎い中傷コメントに一変するのでした。それもまた、ただ風向きが変わっただけの同調圧力にすぎません。

もっとも、タレント自身も、そうやってプライバシーを切り売りしていたわけで、どっちもどっちと言えばたしかにそう言えないこともないのです。

でも、私は、件のタレントにとって、今回の手のひら返しは返ってよかったのではないかと思います。YouTubeで何ほどかの収益を得ていたのかもしれませんが、SNSのバカバカしい世界から手を切るきっかけを得たことは、YouTubeの収益を失っても余りある大きな収穫だったと思います。

■ユーチューバーの寿命


最近、とみにユーチューバーの寿命が短くなったように思います。それは、Googleをとりまく環境の変化によってYouTubeが大きな曲がり角を迎えているとか、参入の増加で競争(再生回数の奪い合い)が激しくなったとかいった理由だけではないような気がします。突然「お知らせがあります」と切り出すような、いわゆる「お知らせ」動画というのがありますが、ユーチューバー自身がコンテンツと関係なく、芸能人まがいのプライバシーを切り売るするような現象さえ見られるようになっているのです。

つまり、コメント欄のお追従コメントによって、ユーチューバーが勘違いし、独りよがりになっているということも、寿命を縮める要因になっているのではないか。そのため、生身のユーチューバーの薄っぺらさが透けて見え、結果としてユーチューバーにありがちなあざとさが目に付くようになるのです。素人の浅知恵と言ったら身も蓋もないのですが、それは、個人の能力の限界と言っていいのかもしれません。

一部の若者たちの間には、「社畜になりたくなければユーチューバーになれ」というような考えがあるみたいですが、そもそも社畜(会社員)とユーチューバーを対比すること自体がトンチンカンの極みと言えるでしょう。身も蓋もないことを言えば、それはネットに張りついたニートのような人生を送っている人間たちの現実逃避の謂いでしかないのです。

私たちの世代で言えば、”夢の印税生活”へのあこがれと同じようなものかもしれません。ただ、私たちの頃はそれはあくまで”夢”でしかありませんでした。しかし、今はすぐ手が届くような幻想が付与されているのです。それがネットの時代の特徴でしょう。社畜にならないためにユーチューバーになる、というのは一見自由な生き方のように思いますが、実際はまったく逆で、Googleの奴隷になるだけです。

YouTubeで視聴者が投げ銭しても、その30パーセントがGoogleにかすめ取られるという、えげつないシステムの中で”善意”が利用されているネットの現実。それは、寄付の20%近くが手数料として運営会社にかすめ取られるクラウドファンディングも同じです。

ユーチューバーや寄付を集める人たちは、元手がかからないので、手数料に関しては能天気なところがありますが、しかし、身銭を切って投げ銭したり寄付したりする人間からすれば、割り切れない気持になるのは当然でしょう。

あんなものは浮利=悪銭だ、という声がどうして出てこないのか、不思議でなりません。便利であれば、どんなあくどい商売も許されるのか。

このように私たちの”善意”や”正義”も、所詮は営利を求める一私企業の手のひらの上で踊らされ、利用され、搾取されているにすぎないのです。にもかかわらず、TwitterやYouTubeに公共性を求めたり、あるいはTwitterやYouTubeで公共性を訴えたりするのは、おめでたすぎるくらいおめでたい言説だとしか言えません。

今どきSNSを「利用してやる」くらいの考えを持たなければ、社会運動も時代から取り残されるだけだ、というような声もよく耳にしますが、Twitter騒動でのあの慌てぶりを見ると、とても「利用してやる」というような姿勢には見えません。

私たちに求められているのは、ネットをどれだけ客観的に(冷めた目で)見ることができるかというリテラシーなのです。ネットが自分を敵視して襲い掛かって来るのは、お追従コメントなどより自分を見直すいいチャンスだと考えるくらいの余裕が必要なのです。

それは、水は常に低い方に流れるネットとどう付き合っていくかという、基本的な姿勢や考え方の問題だと思います。

■丸山眞男


「タコツボ(化)」という言葉を最初に使ったのは丸山眞男で、1957年のことでした。丸山眞男は、「とかくメダカは群れたがる」日本の社会を特徴付ける精神的なふるまいをそう名付けたのでした。現代では、とりわけネットのトライブに対して、その言葉が使われています。とどのつまり、「信者」であろうが「アンチ」であろうが、たかがネットの「タコツボ」の中の話にすぎないということです。

丸山眞男は、『日本の思想』(岩波新書)の中で、自分たちの世界でしか通用しない「隠語」や「インズの了解事項」によって、本来議論すべきことが「いまさらの議論の余地がないと思われ」、それが集団意識の中に厚い層となって沈殿することで、最終的に外の世界への偏見を生むことになる、と書いていました。「タコツボ(化)」と同調圧力が背中合わせであることは今更言うまでもありませんが、その「タコツボ(化)」がネットの時代にもっとも低俗なかたちで表れているのが、YouTubeなどのお追従コメントや正反対の坊主憎けりゃ袈裟まで憎い中傷コメントだと言えるでしょう。

前の記事でも言ったように、それは、ネットの時代になり、思考停止した「頭の悪い人たち」が都合のいいユーザーとして、ネットを支配するGoogleなどに持ち上げられたからです。でも、彼らは、ユーチューバーも含めて、所詮は消費される(使い捨てられる)べき存在でしかないのです。
2023.01.04 Wed l ネット l top ▲