publicdomainq-0041213slbrud.jpg
(public domain)


近所の食べ物屋が「美味しい」というネットの投稿を見たので行ってみました。それも一人だけではなく、何人からも「高評価」の投稿があったからです。その店は開店してまだ半年くらいで、私も開店したことは知っていました。

その結果は‥‥。あれほどネットを批判しながら、ネットの投稿を信じた自分を恥じました。不味くはないけど、言われるほど「美味しい」とは思いませんでした。どこが「高評価」になるのかわかりませんでした。立地条件がいいわけではないので、あの程度では生き残るのは難しい気がしました。

私はこの街に住んで10年以上になりますが、駅前の商店街で生き残るのが至難の業であることはよくわかります。地元の店以外で、10年前から続いている店があるのか考えても、思い付かないほどです。それくらい出入りが激しいのです。

お気に入りのから揚げ店があったのですが、それも1年くらいで撤退しました。コンビニにしても出店と撤退をくり返しています。それでも東急東横線の駅前商店街であれば、あらたに出店する店がひきもきらないのです。

考えてみれば、「美味しい」と投稿した人間たちも、別に食に通じているわけではなく、軽い気持で投稿しているだけなのでしょう。

昔から投稿マニアというのはいましたが、ネットの時代になりその敷居が格段に低くなったのです。ネットの「バカと暇人」たちにとって、ネットに投稿することが恰好の時間つぶしになっているような気もします。もしかしたら、承認欲求で投稿しているのかもしれません。

以前、知り合いが都内のいわゆる「高級住宅街」と呼ばれる街でレストランをやっていたことがありました。雑誌にも取り上げられたことがあり、知り合いに訊くと、ヤラセではなくちゃんとした取材だったそうです。もちろん、グルメサイトから広告を出せば「おすすめ」で上位に表示できますよという営業があったり、怪しげな会社からグルメサイトへの「高評価」の投稿を請け負いますよとかいった勧誘もあったそうですが、バカバカしいのでいづれも断ったと言っていました。

そんな某日、席に付くや否や、いきなりテーブルの上でパソコンを開いて、何やらガヤガヤと“批評”し合うような30代から40代の「異様なグループ」が来店したのだそうです。あまりに行儀が悪いので、「他のお客さんに迷惑なりますので、そういったことはやめていただきますか?」と注意したのだとか。

すると、後日、ネットに「低評価」の投稿が次々に上げられたのでした。知り合いはネットに疎かったので、たまたまそれを見つけた私が「どうなっているんだ?」と連絡したら、「ああ、あいつらだな」と言っていました。

私たちは、いつの間にか、そんなネットの「バカと暇人」に振りまわされるようになっているのではないか。テレビのニュースでも、「ネットではこんな意見があります」というように、ネットの投稿を紹介したりしていますが、その投稿はホントに取り上げるべき意見なのかと思ったりします。

現在いまは、報道でもバラエティでも、ネタをネットで検索して探すのが当たり前になっているのかもしれませんが、そういったお手軽さが無責任を蔓延することになっているような気がします。

昔、五木寛之だったかが、編集のチェックが入ってないネットの記事は信じないことにしている、と書いているのを読んだことがあります。プロによる「真贋」=ファクトチェックというのは非常に大事で、私たちはネットが日常的なものになるにつれ、「真贋を問わない」ことにあまりに慣れ過ぎているように思います。

リテラシーという言葉だけは盛んに使われるようになりましたが、だからと言って、「真贋を見極める」リテラシーを身に付けることはないのです。あくまで私たちにあるのは「真贋を問わない」安易な姿勢だけです。

前の記事で書いたようなYouTubeのコメント欄のバカバカしさも、それがバカバカしいものだと思わなくなり、それどころかいつの間にかバカバカしいコメントを「評価」として受け入れている(そうさせられている)私たちがいます。

Googleは、「総表現社会」とか「集合知」とかいった甘言で、「真贋を問わない」社会をマネタイズして、私たちの上に君臨するようになったのでした。マネタイズするためには、「真贋」なんてどうだっていいのです。むしろ、「真贋を問わない」方が御しやすいと言えるかもしれません。

一見”百家争鳴”や”談論風発”に見えるものも、決して自由を意味しているわけではないのです。「集合知」と言っても、実際は「水は常に低い方に流れる」謂いにすぎないのです。

「総表現社会」や「集合知」という幻想によって、私たちは「真贋を問わない」ことに慣れ、同時に「総表現社会」や「集合知」のために個人データを差し出すことに、ためらいがなくなったのでした。それは、マイナンバーカードが、「健康保険証や運転免許証と一緒になるので便利ですよ」「銀行口座と紐付ければ給付金の振込みなどもスムーズに行われますよ」という、(便利なだけじゃない)”お得な利便性”の幻想を与えられて強制されるのと同じです。

Googleの先兵になって、「Googleは凄い」と宣伝してきたネット通たちの責任は極めて大きいと言わねばなりません。

今更ファクトチェックと言っても、無間ループのような作業が必要です。しかも、「真贋を問わない」情報の洪水の中で、ファクトチェックもその中に埋没させられ、冗談ではなく、ファクトチェックのファクトチェックさえ必要な感じです。

正義も、評価も、真理も、Googleという私企業の手のひらの上で操られ、いいように利用されているだけなのです。深刻に受け止めてもどうなるものではないかもしれませんが、せめてそんな世も末のような現実の中に生きているのだということくらいは、認識してもいいのではないでしょうか。

先日、朝日新聞に次のような記事が出ていました。

朝日新聞デジタル
AIに政治を任せる? 「データ教」の不気味さ、人生の最適解とは

 家の中や街で発せられた言葉、表情、心拍数などあらゆる情報をインターネットや監視カメラで吸い上げる。無数の民意データを集め、民衆が何を重視しているかを探る。そのうえで、GDPや失業率、健康寿命といった目標を考慮に入れながら、アルゴリズム(計算手順)が最適な政策を選択する。

 経済学者、成田悠輔さんは2022年に出した著書「22世紀の民主主義」(SB新書)でそんな「無意識データ民主主義」を主張した。


手っ取り早く言えば、これはGoogleが言う「集合知」を「無意識データ民主主義」と言い換えているだけではないのか。

こういった太平楽なネット信奉者が、卒業論文で、旧労農派のマルクス経済学者の名を冠した「大内兵衛賞」を受賞し、「天才」だとか言われてマスコミの寵児になる時代の怖さは、「真贋を問わない」時代とパラレルな関係にあるように思えてなりません。

「真贋」があらかじめ国家によって決められる中国のような社会と、「真贋を問わない」Googleに支配された社会は、権威主義vs民主主義と言われるほどの違いはなく、単にデジタル全体主義ファシズムの方法論の違いにすぎないように思います。
2023.01.07 Sat l ネット l top ▲