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同じことのくり返しになりますが、私は、昨年の10月に書いたフリーライターの佐野眞一氏の死去に関する記事の中で、故竹中労が昔、テレビ番組の中で紹介していた17世紀のイギリスの詩人・ジョン・ミルトンの次のような言葉を引用しました。

「言論は言論とのみ戦うべきであり、必ずやセルフライティングプロセス(自動調律性)がはたらいて、正しい言論だけが生き残り、間違った言論は死滅するであろう。私たちものを書く人間が依って立つべきところは他にない」
(『アレオパジティカ』より)


また、同じ番組で竹中労が紹介していた、フランスの劇作家のジャン・ジロドゥの言葉も引用しました。

「鳥どもは嘘は害があるとさえずるのではなく、自分に害があるものは嘘だと謡うのだ」
(『オンディーヌ』より)


これも記事の中で書いたのですが、昨年の10月1日からプロバイダ責任制限法が改正、施行されて、SNS等の発信者情報の開示が非訟手続になり、手続きが簡略化されました。

発信者情報開示の簡略化は、フジテレビの「テラスハウス」に出演したことで、ネットで誹謗中傷を受け、それが原因で自殺した女子プロレスラーの家族などが求めたネット規制の声を受けて変更されたものです。

ネット規制に関しては、自殺した家族だけではなく、ヘイトな書き込みなどで被害を受けていた在日コリアンや性的少数者なども、同様に規制を求める声がありました。

しかし、それ以後、ネットでは意見が異なる相手に対して、二言目には「発信者情報の開示」をチラつかせて、発言を封殺するようなふるまいが横行するようになっています。

さらには、それまでヘイトな言論を振り撒いていた者たちが、ネット規制を逆手にとって、自分たちを批判する発言を嫌がらせのように名誉棄損で訴えるという行為も多くなりました。

ジャン・ジロドゥが言うような「鳥どもは嘘は害があるとさえずるのではなく、自分に害があるものは嘘だと謡う」風潮が蔓延するようになったのでした。

言論には言論で対抗するのではなく、安易に国家に判断を委ねるようになったのです。つまり、国家を盾に相手を委縮させる手段として、ネット規制が使われるようになったのです。そうやって国家が私たちの発言にまでどんどん踏み込んで来る、その(さらに強力な)道筋を造ったと言っていいでしょう。今のような風潮は、とりわけSNSなどで自分の考えや意見を発信している個人には大きな圧力に感じるでしょう。

「自由にも責任がある」という言い方がありますが、ただ、それもきわめて曖昧な概念です。自由と責任の間に明確な線引きがあるわけではないし、そもそも線引きができるわけではないのです。もっとも、「自由にも責任がある」という言い方は、自由を規制する口実に使われる場合がほとんどです。

私は、言論には言論で対抗するということの中には、ときに街角(ストリート)で怒鳴り合ったり、殴り合ったりすることもありだと思っています。言論には、それくらい”幅広い”考えが必要なのです。

民主主義はアルゴリズムで最適化されて、自動的に導きだされるという、成田悠輔の「無意識データ民主主義」に対しては、「世界内戦の時代は民衆蜂起の時代である」という笠井潔の言葉を対置するだけで充分でしょう。それが世界の現実であり、抑圧された人々の声なのです。

成田悠輔がたまごっちと同じような一時の”流行はやり”にすぎないことはあきらかですが、成田悠輔や、YouTubeの視聴者と同じように彼にお追従コメントを送る読者たちは、ただ世界の現実から目をそむけ耳を塞いでいるだけです。その一語で済むような取るに足りない言葉遊びの”流行”にすぎません。

今の資源高に伴う世界的なインフレに対して、世界各地で民衆蜂起と言ってもいいような抗議の声が上がっていますが、本来、民主主義というのはそういった地べたの運動の先にあるものでしょう。私は、むしろ、生身の”暴力”や”身体(性)”に対する考えを復権すべきだとさえ思っているくらいです。

「今どきSNSを『利用してやる』くらいの考えを持たなければ、社会運動も時代から取り残されるだけだ」などと言っていた左派リベラルは、被害者家族の要求に便乗してネット規制を求めたのですが、結局、みずから墓穴を掘ることになったのです。そうやって自分たちで自由を毀損しみずからの首を絞めることになったのです。

地べたの運動に依拠しない、口先三寸主義の左派リベラルが辿る当然の帰結と言えますが、彼らもまた、自由の敵であると言われても仕方ないでしょう。何度も言いますが、前門の虎だけでなく後門にも狼がいることを忘れてはならないのです。


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2023.01.08 Sun l ネット l top ▲