■1万5千歩
昨日、午後から久しぶりにみなとみらい界隈を散歩しました。歩数を稼ぐために隣駅まで歩いて、東横線・みなとみらい線で馬車道まで行き、馬車道から汽車道、汽車道から赤レンガ倉庫、赤レンガ倉庫から象の鼻パーク、象の鼻パークから山下公園まで歩きました。帰りは山下公園から遊歩道で赤レンガ倉庫まで戻り、そのあと大観覧車の横を通ってみなとみらいのクイーンズスクエアまで歩いて、みなとみらい駅から電車に乗って帰りました。
帰ってスマホを見たら、1万5千歩を越えていました。大体今まで月平均で12万〜15万歩は歩いていたのですが、最近はその半分くらいしか歩いていません。それで、月10万歩を目標に歩こうと思ったのでした。今月はこれで6万歩近く歩いていますので、今のところ順調です。
もちろん、山に行けば1回で少なくて2万歩、多いときは3万歩を歩きますので、10万歩なんて軽くクリアするのですが、最近は膝のこともあって、山に行くのがおっくうになっているのでした。
■『裏横浜』
昨日は正月明けで、しかも曇天で夜から雨の予報だったということもあってか、赤レンガ倉庫や山下公園も人はそれほど多くありませんでした。やはり若者が目立ちました。(昔風に言えば)アベックだけでなく、如何にも仲が良さそうな女性同士のカップルも目に付きました。韓国に行くと女の子同士が手をつないで歩いていますが、韓流文化の影響なのか、はたまた結婚だけでなく恋愛に対する幻想もなくなった今の時代を反映しているのか、さすがに手はつないでないものの、最近は若い女性同士のカップルがやたら多くなったような気がします。
結婚だけでなく、若者たちの生き方を窮屈なものにしていた恋愛至上主義が瓦解したのはとてもいいことだと思います。少子化対策なんてクソくらえなのです。あれはあくまで国家の論理にすぎません。あんなものに惑わされずに、若者たちは好きなように自由に生きていけばいいのです。恋人より友達というのも全然ありだと、おじさんは思うのでした。
汽車道の対岸の船員アパートがあったあたりは、タワマンやアパの高層ホテルや32階建ての横浜市庁舎が建っていました。そうやって港町の”記憶の積層”が消し去られて、横浜の魅力であったゆとりの空間があたりを睥睨するような愚劣な建物に奪われているのでした。私は、万国橋からの風景が好きだったのですが、それらの建物が視界を邪魔して、つまらない風景になっていました。
最近読んだ八木澤高明著『裏横浜』(ちくま新書)によれば、現在、「象の鼻パーク」と呼ばれ整備されている堤防のあたりは、ペリーが来航した際に、日米和親条約を結ぶためにぺーリー艦隊と江戸幕府との会談が行われた場所だそうです。今の風景の中で、その痕跡を探すのはとても無理な相談です。
赤レンガ倉庫も、明治末期から大正時代にかけて、当時の日本では重要な輸出品であった生糸を保管するために造られたものです。生糸は、『女工哀史』や『あゝ野麦峠』で有名な信州や、官営の富岡製糸場があった上州などの生産地からいったん八王子に集められ、八王子から輸出港である横浜に運ばれたそうです。その運搬用に敷設されたのが今のJR横浜線です。
山下公園に行くと、「インド水塔」の改修工事が行われていました。「インド水塔」は、関東大震災の際に避難してきた多数のインド人を横浜市民が「救済」したとして、横浜市民への感謝と同胞の慰霊のために昭和14年12月に在日インド人協会が建立したのだそうです。朝鮮人に対しては斧や鉈で襲い掛かった日本人が、インド人を助けたというのは驚きですが、そう言えば山下公園では毎年首都圏在住のインド人が集まる、インド人の祭りも開催されています。ただ、横浜の住民がインド人を「救済」したのは、当時、生糸の主要な輸出国がインドだったということも無関係ではないように思います。
私も昔、横浜のシルク業者からシルクのスカーフなどを仕入れて、都内の雑貨店に卸していたことがありました。その業者も若い頃は地元の貿易会社に勤めていたと言っていました。カナダやアメリカからステッカーを輸入していたのも横浜の会社でしたし、中国から横流しされた安売りのシールを輸入していたのも横浜の若い業者でした。いづれも既に廃業していますが、横浜にはそういった港町の系譜を汲む貿易商のような人たちも多くいたのです。
1884年(明治17年)に勃発した秩父事件も、国際的な生糸価格の暴落という背景があります。秩父地方もまた生糸の生産地だったのですが、秩父事件は、生糸価格の暴落により困窮した民衆が高利貸に借金の棒引きなどを要求して武装蜂起し、僅かな期間ながら秩父に”自治政府”を樹立したという、日本の近代史上特筆すべき出来事なのです。赤レンガ倉庫の背後には、そういった歴史も伏在しているのでした。
「メリケン波止場」と呼ばれた大さん橋も、現在はクルーズ船のターミナル港(寄港地)になっていますが、昔はブラジルなど南米への移民船の出港地で、『裏横浜』にも、「横浜から旅立った人々のうち一番多かったのは、旅客ではなく、移民である。その数は100万人ともいわれている」と書かれていました。その中には、横浜の鶴見からブラジルに旅立った当時中学生のアントニオ猪木の一家も含まれていたのでした。
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汽車道沿いの運河の上を「ヨコハマエアーキャビン」という観光用のロープウェイ”が架けられていました。

汽車道

「エアキャビン」と反対側の風景


万国橋から

赤レンガ倉庫

射的の出店




恒例のイベント・スケートリンク


多くの移民が向かった大さん橋への道

山下公園


写真を撮っている横は、一時よく通っていた「万葉倶楽部」