
■PIVOT
たまたまネットをチェックしていたら、最近、元TBSアナウンサーの国山ハセンの転職先として話題になったPIVOTのYouTubeチャンネルで、宮台真司氏とYAMAPの春山慶彦社長が3回に渡って対談しているのが目に止まりました。
YouTube
PIVOT公式チャンネル
【宮台真司がシンクロした起業家】登山アプリYAMAP創業者/日本の起業家では珍しい身体性の持ち主/イヌイットとクジラ漁の経験/ビジネスパーソンに必須な「自然観」とは
https://www.youtube.com/watch?v=89cIyZX2Ch8
【宮台真司「現代人は身体を使え」】自然は単なる“癒やし”ではない/流域で生命圏を作り出す/キャンプの本質を考える/思考を研ぎ澄ませたい時にこそ山に行く【YAMAP 春山慶彦CEO】
https://www.youtube.com/watch?v=u3ESOfgfh0k
【宮台真司「仲間を誘惑せよ」】NISAなどの投資教育はインチキ/生き方を変えた人が資本主義にコミットせよ、そして少しずつ仲間を誘え【YAMAP 春山慶彦CEO 最終回】
https://www.youtube.com/watch?v=aKbyG-oxk2Y&t=0s
PIVOTでは本田圭佑がメインのように扱われ、企業の経営や投資に関して、独りよがりな付け焼刃の知識を開陳していますが、PIVOTは本田圭佑を推しているのかと思いました。
他に落合陽一や成田悠輔が出ている動画を観ましたが、最後まで観る気になりませんでした。
余談ですが、私は、成田悠輔の『22世紀の民主主義』を読みはじめたものの、途中で投げ出してしまいました。
文章は非常に優しく書かれていましたが、論理の前提になっているデータが極めて恣意的なもので、牽強付会にもほどがあると思いました。現状認識も粗雑で、コロナ禍のパンデミックを唯一くぐり抜けたのが権威主義国家の中国だと断定していましたが、今の状況を見ればとんだ早とちりだということがわかります。
権威主義に比べると民主主義はシステムが非効率なので、権威主義国家より民主主義国家の方が経済成長が鈍化している(だからAIでブラッシュアップしなければならない)、という主張にしても、それはキャッチアップする国とされる国の違いにすぎないことくらい、少しでも考えればわかるはずです。どこが「天才」なんだと思いました。
PIVOTと宮台真司氏の関わりも不思議ですが、出演者の顔ぶれをみると、国山ハセンは遠からずみずからの「決断」を後悔することになるような気がします。
YAMAPは昨秋(11月)、今まで3480円だった年会費を5700円に改定して、会員たちに衝撃を与えたばかりです。その値上がり率は何と60%超なのです。理由として、経営環境の悪化をあげており、従来から囁かれていた経営不振説が再び浮上しているのでした。そのためかどうか、最近、春山社長のネットメディアへの露出が増えています。堀江貴文のチャンネルにも出演して、山で遭難しそうになったときYAMAPのお陰で助かったなどというホリエモンのサービストークを交えて、今回と似たような対談を行っていました。
PIVOTと宮台真司氏の関わりが不思議だと言いましたが、この対談もYAMAPのステマのようなものかもしれないと思いました。
■身体性の復権
宮台真司氏と春山慶彦氏の対談の肝は、ひと言で言えば、”身体性の復権”ということです。それは登山をしている人間であれば腑に落ちる話です。
システムに依存するのでなく、感情や感性といった身体感覚を取り戻すことが大事だと言います。テクノロジーがめざしているのは「身体性の自動化」であって、であるがゆえに感情や感覚の能力を失う(奪われる)ことになるというのも、わかりすぎるくらいわかりやすい話でしょう。
春山氏は、東日本大震災の原発事故がきっかけで、YAMAPを発想したと言っていました。電気が止まると、トイレも使えないような脆弱な都市システムの中に生きていることに気付かされた、と言っていましたが、しかし、それは皮相的な見方だと言わざるを得ません。
都市で暮らすには、まず電気代を払えるだけの収入が必要です。電気代を払うお金がなければ、システムを享受することもできないのです。資本主義というのは、そういう社会です。その根本のところを飛ばして脆弱なシステムと言われても鼻白むしかありません。
しかも、電気代を払うことができる豊かさや平等も、もはや前提にすらならないような時代に私たちは生きているのです。システムの脆弱さを言うなら、そういった貧国や格差の現実をどうするかというのも大きな課題のはずです。
春山氏は、今の高度なテクノロジーに囲まれた社会では、逆に技術を使わないという「英知」が必要だとも言っていました。そういった倫理観や哲学や自然観が求められているのだと。
■スーパー地形
私は、登山アプリは「スーパー地形」を使っています。YAMAPやヤマレコを使っていた時期もありましたが、「スーパー地形」に変えました。
どうしてかと言えば、YAMAPやヤマレコの地図上のポイントをクリックするとルートが自動的に設定できる便利な(!)システムが嫌だったからです。それと、あの自己顕示の塊のような山行記録が鼻もちならなかったということもあります。
「スーパー地形」の場合、ルートは設定されていませんので、紙地図と睨み合いながら自分で描いていかなければなりません。ルート上の情報やポイントなども自分で設定しなければなりません。言うなれば、自分で登山用の地図を作るような作業が必要です。それは非常に面倒くさい作業でもあります。しかし、登山において、そういった作業も大事なことなのです。何より紙地図の重要性も再認識させられますし、山行には紙地図とコンパスを携行するのが必須になります。想像する楽しみだけでなく、山に登るリスクや不安を知ることにもなるのです。
身も蓋もないないことを言えば、”集合知”なる他人のベタな体験(の集積)に導かれて山に登って、何が楽しいんだろうと思います。未知に対する不安があるから楽しみもあるし、危険に対する怖れがあるから喜びもあるのです。
■身体性の自動化
YAMAPやヤマレコにこそ、「身体性の自動化」につながるような反動的な技術だと言わざるを得ません。文字通り本来の登山とは真逆な「安全、安心、便利、快適」の幻想をふりまく、「歩かされる」だけのアプリのように思えてなりません。道迷いのリスクを減らすと言いますが、登山に道迷いのリスクがあるのは当たり前です。そのリスクを、アプリではなく自分の知識や経験や感覚で回避するのが登山でしょう。アプリで「歩かされる」だけでは、危険を回避するスキルはいつまで経っても身に付かないでしょう。
もとより、登山において地図読みのスキルは大事な要素なのです。アプリがなくて紙地図だけで山を歩けるかというのは基本中の基本です。万一、スマホが故障したり電池がなくなったりした場合、紙地図で山行を続けなければならないのです。そのために、本来ならYMAPやヤマレコは、「登山の安全のため、紙地図も持って行きましょう」と呼び掛けるべきだと思いますが、しかし、そうすると自己矛盾になるのです。
その結果、紙地図も持たずスマホだけで山に来て、常にスマホと見比べながら山を歩くような、危機意識の欠片もないハイカーを大量に生んでしまったのです。それこそシステムへの盲目的な依存と言うべきで、彼らがコースタイム至上主義に陥るのは理の当然でしょう。
山ですれ違う際、「にんにちわ」と挨拶するだけでなく、これから行くルートの状態や難易度を尋ねたりすることがあります。しかし、登山アプリによって、そういった情報交換のコミニュケーションも減ったように思います。私はよく話しかけますが、コロナ禍ということも相俟って、最近は迷惑そうな顔をされることが多くなりました(それでも話しかけるけど)。
前も書きましたが、車で峠まで行くのと、自分の足で息を切らせながら行くのとでは全然意味合いが違うように、他人の体験をスマホのアプリでなぞるのと、直接コミュニケーションを取りながら他者の体験から学ぶのとでは、身体性という意味合いにおいて、天と地ほども違うのです。二人も対談の中で言っているように、大事なのはコミュニケーションなのです。
ただ、山に行ってものを考えると余分なものが削ぎ落されるので、シンプルにものを考えることができるという春山氏の話は同意できました。私も前に、パソコンの前に座ってものを考えるのと、散歩に行って歩きながらものを考えることは全然違うというようなことを書いた覚えがありますが、そこに身体性の本質が示されているように思います。
もちろん、私も「スーパー地形」を使っていますので、登山アプリを全否定するわけではありません。技術に関して、ものは使いようというのはよくわかります。アプリで大事なのは、これから歩くルートではなく、歩いて来た軌跡だと言った人がいましたが、それはすごくわかります。つまり、道迷いしたら正しいルートの地点まで戻るのが基本ですが、その際、アプリの軌跡が役に立つからです。
ただ、登山アプリによって身体感覚がなおざりにされ鈍磨させられたり、登山の体験が「安全、安心、便利、快適」(の幻想)に収斂されるような、システムに依存した通りいっぺんなものになるなら元も子もないでしょう。何より山に来る意味も、山を歩く楽しみもないように思うのです。それこそ、”身体性の復権”とは真逆なものと言うべきなのです。
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