
最近は芥川賞にもまったく興味がなかったので知らなかったのですが、鈴木涼美が最新作の「グレイスレス」で芥川賞の候補になっていたみたいです。それで『文學界』の2022年11月号に載っていた同作を読みました。
私は、このブログでも書いていますが、鈴木涼美が最初に書いた『身体を売ったらサヨウナラ』を読んで、まずその疾走感のある文章に「一発パンチを食らったような感覚」になりました。再掲ですが、『身体を売ったらサヨウナラ』は、次のような文章ではじまっています。
広いお家に広い庭、愛情と栄養満点のご飯、愛に疑問を抱かせない家族、静かな午後、夕食後の文化的な会話、リビングにならぶ画集と百科事典、素敵で成功した大人たちとの交流、唇を噛まずに済む経済的な余裕、日舞と乗馬とそこそこのピアノ、学校の授業に不自由しない脳みそ、ぬいぐるみにシルバニアのお家にバービー人形、毎シーズンの海外旅行、世界各国の絵本に質のいい音楽、バレエに芝居にオペラ鑑賞、最新の家電に女らしい肉体、私立の小学校の制服、帰国子女アイデンティティ、特殊なコンプレックスなしでいきられるカオ、そんなのは全部、生まれて3秒でもう持っていた。
シャンパンにシャネルに洒落たレストラン、くいこみ気味の下着とそれに興奮するオトコ、慶應ブランドに東大ブランドに大企業ブランド、ギャル雑誌の街角スナップ、キャバクラのナンバーワン、カルティエのネックレスとエルメスの時計、小脇に抱えるボードリヤール、別れるのが面倒なほど惚れてくる彼氏、やる気のない昼に会える女友達、クラブのインビテーション・カード、好きなことができる週末、Fカップの胸、誰にも干渉されないマンションの一室、一晩30万円のお酒が飲める体質、文句なしの年収のオトコとの合コン・デート、プーケット旅行、高い服を着る自由と着ない自由。それも全部、20代までには手に入れた。
(略)
でも、全然満たされていない。ワタシはこんなところでは終われないの。1億円のダイヤとか持ってないし、マリリン・モンローとか綾瀬はるかより全然ブスだし、素因数分解とかぶっちゃけよくわかんないし、二重あごで足は太いしむだ毛も生えてくる。
ワタシたちは、思想だけで熱くなれるほど古くも、合理性だけで安らげるほど新しくもない。狂っていることがファッションになるような世代にも、社会貢献がステータスになるような世代にも生まれおちなかった。それなりに冷めてそれなりにロマンチックで、意味も欲しいけど無意味も欲しかった。カンバセーション自体を目的化する親たちの話を聞き流し、何でも相対化したがる妹たちに頭を抱える。
何がワタシたちを救ってくれるんだろう、と時々思う。
あれから8年。彼女が小説を書いているのは知っていましたが、私は、まだ読んでいませんでした。ちなみに、「グレイスレス」は二作目の創作です。
ブログでも書きましたが、鈴木いづみを彷彿とするような文章なので、さぞや小説もと思いましたが、しかし、小説の文体はやや異なり、鈴木いづみのようなアンニュイな感じはありませんでした。『身体を売ったらサヨウナラ』に比べると小説向きに(?)抑制されたものになっており、宮台真司の言葉を借りれば「叙事的」です。やはり、鈴木いづみの文体は、あの時代が生んだものだということをあらためて思わされたのでした。
AV業界でフリーの化粧師(メイクアップアーティスト)として働く主人公。彼女は、鎌倉の古い洋館に祖母と二人で暮らししています。
小説はAVの撮影現場で遭遇する女たちとの刹那的な関りと、鎌倉の家を通した家族との関わりの二つの物語が同時進行していきます。それは刹那と宿命の対照的な関りと言ってもいいものです。しかし、それらを見る主人公の目は、如何にも今どきな感じで、どこか突き放したような冷めた感じがあります。AV業界をAV女優ではなく、化粧師の目を通して描いているというのもそうでしょう。
AVの現場での仕事は、その役柄に応じて映像に見栄えるように化粧を施すだけではありません。AV女優の顔面や頭髪に放出された精液を落とす作業もあります。しかし、主人公には嫌悪感など微塵もありません。むしろ、その仕事に職人的な誇りさえ持っているかのようです。AV業界での化粧師という仕事に、みずからのレーゾンデートルを見出しているようにさえ見えるのでした。
鎌倉の洋館は、父方の祖父が住んでいた家で、両親が離婚する際に母親が父親から譲り受けたものです。ところが、現在、両親はイギリスで元の鞘に収まったような生活をしているのでした。そこには、上野千鶴子が言った「みじめな父親に仕えるいらだつ母親」も、「母親のようになるしかない」という「不機嫌な娘」も、もはや存在しないのでした。
母親も祖母も自由奔放に生きて来たような人物です。その影響を受けているはずの主人公は、しかし、彼女たちの生き方とは一線を引いているように見えます。鎌倉の洋館も、祖母は一階で暮らし、主人公は二階で暮らしているのですが、祖母は二階に上がって来ることはないのでした。
小説の最後に仕事を「やめる」ような場面があるのですが、しかし、主人公は、イギリスに住む母親との電話で、「いや、また気が向いたらいつでもやるよ」と答えるのでした。「やめる」に至った経緯も含めて、そこに、この小説のエッセンスが含まれているように思いました。
私は意地が悪い人間なので、もってまわったような稚拙な描写の部分にマーカーを引いて悪口を言ってやろうと思っていたのですが、最後まで読み終えたら、そんな意地の悪さも消えていました。久しぶりに小説を読みましたが、「やっぱり、小説っていいなあ」と思えたのでした。
小説の言葉は、私たちの心の襞に沁み込んで来るのです。私は、同時にノーム・チョムスキーの『壊れゆく世界の標』(NHK出版新書)という本を読んでいたのですが、インタビューをまとめた本で、しかも翻訳されているということもあるのでしょうが、チョムスキーの言葉がひどく平板なものに思えたくらいです。
偉そうに言えば、『身体を売ったらサヨウナラ』の鈴木涼美は、読者の期待を裏切ることなく見事にホンモノの小説家になっていたのです。山に登るとき、きつくて「心が折れそうになる」と言いますが、私自身、最近は生きていくのに心が折れそうになっていました。ありきたりな言い方ですが、なんだか生きていく勇気を与えてくれるような小説だと思いました。いい小説を読むと、そんな救われたような気持になるのです。この小説にも、孤独と死という人生の永遠のテーマが、副旋律のように奏でられているのでした。
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