
(鈴木邦男をぶっとばせ!より)
■『現代の眼』と新左翼文化
鈴木邦男氏が亡くなったというニュースがありました。79歳だったそうです。今日は、詩人の天沢退二郎氏の訃報も伝えられました。
私が、鈴木邦男氏の名前を初めて知ったのは、『現代の眼』の対談記事でした。鈴木氏自身も、みずからのブログ「鈴木邦男をぶっとばせ!」で、その記事について書いていました(2010年の記事です)。
鈴木邦男をぶっとばせ!
34年前の『現代の眼』が全ての発端だった!
私もよく覚えていますが、車の免許を取るために自動車教習所に泊まり込んでいたとき(昔はそういった合宿型の教習所があったのです)、寝泊まりする大部屋の片隅で横になって買って来たばかりの『現代の眼』を開いたら、「反共右翼からの脱却」という記事が目に飛び込んで来て、頭をどつかれたような気持になったのでした。鈴木氏のブログによれば、記事が載ったのは1976年の2月号だそうです。
当時は運動は既に衰退したものの、まだ残り火のように”新左翼文化”が幅をきかせていた時代で、ジャンルを問わず、新左翼的な言説で埋められた雑誌が多くありました。その中で、『現代の眼』や『流動』や『新評』や『キネマ旬報』や『噂の真相』の前身の『マスコミ評論』や今の『創』の前身の旧『創』などが、“総会屋雑誌”と呼ばれていました。いづれも発行人が、主に児玉誉士夫系の総会屋だったからです。
当時の言論界の雰囲気について、「アクセスジャーナル」で「田沢竜次の昭和カルチャー甦り」というコラムを連載している田沢竜次氏が、次のように書いていました(記事は2012年です)。
30年前は1982年、この年に何があったかというと、ライターや編集界隈にはピンとくるかも知れない、そうです、総会屋追放の商法改正のあった年。そこで消えていったのが、いわゆる総会屋系の雑誌や新聞、特に『現代の眼』とか『流動』『新評』『日本読書新聞』なんてあたりは、新左翼系の文化人、評論家、活動家、ルポライターが活躍する媒体として賑わっていたのだ。
面白いのは、革命や反権力を論じる文章の横に、三菱重工や住友生命、三井物産などの広告が載っているんだもん。まあ、おかげでその手の書き手(かつては「売文業者」とか「えんぴつ無頼」なんて言い方もあった)が食えたわけだし、基本的には何を書いてもよかったんだから、アバウトな良い時代だったと言えるかも知れない。
アクセスジャーナル
『田沢竜次の昭和カルチャー甦り』第38回
「総会屋媒体が健在だった30年前」
実は私も、虎ノ門の雑居ビルの中にあった総会屋の事務所でアルバイトをしたことがあります。右翼の評論家の本などを上場企業や役所などに高価な金額で売りつける仕事でした。自民党の政治家の名前を出して電話で注文を取ると、一張羅の背広を着たアルバイトの私たちが、風呂敷に包んだ本を持って届けるのでした。行き帰りはタクシーでした。それこそ名だたる一流企業の受付に行って名刺を渡すと、総務課の応接室に通されて、担当者から封筒に入った“本代”を渡されるのでした。
もっとも、私たちはあくまで配達要員で、電話で注文を取るのは、50代くらいの事務所の責任者と70歳を優に越している毎日新聞に勤めていたとかいう老人でした。配達要員のアルバイトは、私と東大を出て就職浪人しているというやや年上の男の二人でした。就職浪人の彼は、朝日新聞を受けて落ちたのだと言っていました。それで、元毎日新聞の老人と、どこどこの社の誰々の文章はいいとか何とか、そんなマニアックな話をよくしていました。
孫文の扁額がかけられた事務所で、そうやって四人で資金集めをしていたのです。資金が集まったら、雑誌を出すんだと言っていました。記事にする予定の対談のテープを聞かされましたが、そこで喋っているのは新左翼系の評論家でした。
売りつける本は右翼の評論集の他に何種類かあり、在庫がなくなると、どこからともなくおっさんが自転車で本を持って来るのでした。「毎度!」と大きな声で言って部屋に入って来る、やけに明るいおっさんでした。
「誰ですか?」と訊いたら、「ああ見えて出版社の社長だよ」と言っていました。会社は飯田橋にあり、「飯田橋から自転車でやって来るんだよ」と言っていましたが、のちにその会社はある雑誌がヒットして自社ビルを建てるほど大きくなっていたことを知るのでした。
■車谷長吉
上の鈴木氏のブログで書かれていたように、作家の車谷長吉も『現代の眼』の編集部にいて、彼の『贋世捨人』 (文春文庫)という私小説に、当時の編集部の様子がシニカルに描かれています。車谷長吉は、同じ編集部に在籍していた高橋義夫氏が辞めた後釜で入り、席も高橋氏が使っていた席を与えられたのでした。そして、のちに二人とも直木賞を受賞するのです。『贋世捨人』 に詳しく描かれていますが、『現代の眼』の編集部や同誌を発行する現代評論社には、今の仕事を大学教員や文芸評論家などの職を得るまでの腰掛のように考える、新左翼崩れのインテリたちが「吹き溜まり」のように集まっていたのでした。
『贋世捨人』には、『現代の眼』の沖縄特集に関連して、『沖縄ノート』(岩波新書)を書いていた大江健三郎に、「随筆」を依頼するために電話したときの話が出てきます。
(略)いきなり大江氏に電話を掛けた。すると偶然、大江氏自身が電話口に出た。
用件を述べると、
「ぼ、ぼ、僕は新潮社と講談社と、ぶ、ぶ、文藝春秋と岩波書店、それから朝日新聞以外には、げ、げ、原稿を書きません。」
と言うた。この五社はすべて一流の出版社・新聞社だった。何と言う抜け目のない、思い上がった男だろう、と思うた。現代評論社のような三流出版社は、相手にしないと言う。糞、おのれ、と思うた。
■左右を弁別せざる思想
「反共右翼の脱却」を読んでから、私自身も竹中労の「左右を弁別せざる思想」という言葉を口真似するようになりました。鈴木氏が大杉栄や竹中労などアナーキストのことによく言及していたのも、「左右を弁別せざる思想」にシンパシーを抱いていたからでしょう。
『現代の眼』の記事によって、「新右翼」という言葉も生まれたのですが、当然、既成右翼からの反発はすさまじく、真偽は不明ですが、鈴木氏が住んでいたアパートが放火されたという話を聞いたことがあります。左翼も、かつては既成左翼と新左翼は激しく対立して、両者の間にゲバルトもあったのです。
しかし、今はすべてがごっちゃになっており、本来なら、全共闘運動華やかなりし頃に民青でいたのは”黒歴史”と言ってもいいような老人たちまでもが、臆面もなく「学生運動」の自慢話をするようになっているのでした。しかも、「それは新左翼の話だろう」と思わず突っ込みたくなるような「いいとこどり」さえしているのでした。
誤解を怖れずに言えば、対立するというのは決して“悪い”ことではないのです。現在は、対立より分断の時代ですが、それよりよほどマシな気がします。対立には間違いなく身体がありましたが、今の分断には身体性は希薄です。
鈴木邦男氏らの登場は、「新左翼」と「新右翼」がまわりまわって背中合わせになったような時代の走りでもあったと言えるのかもしれません。しかし、それは功罪相半ばするもので、言論においては、左や右だけでなく新も旧もごちゃになり、全てが不毛に帰した感は否めません。その一方で、お互いに丸山眞男が言う「タコツボ」の中に閉じこもり、分断だけが進むという、「左右を弁別せざる思想」とは似ても似つかない、ただ徒に同義反復をくり返すだけの身も蓋もない時代になってしまったのです。
言うなれば、異論や反論をけしかけても、アンチ呼ばわりされレッテルを貼られた挙句、低俗な謀略論を浴びせられて排除される、ユーチューバーをめぐる信者とアンチのようなイメージです。そこには最低限な会話も成り立たない分断があるだけです。宮台真司などもネットから浴びせられる罵言に苛立っていましたが、苛立ってもどうなるものでもないのです。