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■物価高と重税
私は自炊しているのでスーパーによく買い物に行くのですが、最近の物価高には恐怖を覚えるほどです。値上げと言っても、そのパーセンテージが従来より桁違いと言ってもいいくらい大きいのです。しかも、これからも値上げが続くと言われているのです。
値上げは食品だけにとどまらず、あらゆる分野に及んでいます。たしかに、「資源価格の上昇」「エネルギー価格の高騰」という大義名分があれば、どんな商品でもどんなサービスでも値上げは可能でしょう。何だか値上げしなければ損だと言わんばかりに、我先に値上げしている感すらあるのでした。
それどころか、値上げは民間だけの話ではないのです。 厚生労働省は、介護保険料や、75歳以上が入る後期高齢者医療制度の保険料も、引き上げる方向で調整に入ったというニュースがありました。また、自治体レベルでの住民税や国民健康保険料や介護保険料(自治体によって負担額が違う)も、引き上げが当たり前のようになっています。
昨年12月の東京新聞の記事では、「昨今の物価高の影響で22年度の家計の支出は前年度に比べ9万6000円増えており、23年度はさらに4万円増える」と書いていました。
東京新聞
物価高で家計負担は年間9万6000円増、来年度さらに4万円増の予想 それでも防衛費のために増税の不安
でも、生活実感としては、とてもそんなものではないでしょう。
財務省は、令和4年(2022年)度の「所得に対する各種税金と年金や健康保険料などの社会保障負担の合計額の割合」である国民負担率が、46.5%となる見通しだと発表しています。ちなみに、昭和50年(1975年)の国民負担領は25.7%で、平成2年(1990年)は38.4%でした。さらに、近いうちに50%を超えるのは必至と言われているのです。
日本は重税国家なのです。昔、北欧は社会保障が行き届いているけど税金が高いと言われていました。しかし、今の日本は、税金は高くなったけど、社会保障は低い水準のままです。
これも何度も書いていることですが、生活保護の捕捉率は、ヨーロッパ各国がおおむね60~90%であるの対して、日本は20%足らずしかありません。そのため、日本においては、生活保護の基準以下で生活している人が1千万人近くもいるのです。彼らにとって、この空前の物価高は、成田悠輔ではないですが、「死ね」と言われているようなものでしょう。
価格は需要と供給によって決まるという市場経済の原則さえ、もはや成り立たなくなっている感じで、何だか官民あげた“カルテル国家”のような様相さえ呈しているのでした。
もちろん、資源国家であるロシアによるウクライナ侵攻と、それに伴う経済制裁が、このような事態を招いたのは否定できないでしょう。
そこに映し出されているのは、臨界点に達しつつある資本主義の末期の姿です。植民地主義による新たな資源や市場の開拓は望むべくもなく、資本主義国家はロシアや中国の資源大国による”兵糧攻め”に、半ばパニックに陥っていると言っても過言ではありません。でも、それは、身の程知らずにみずから招いたものです。メディアは、ロシアは追い込まれていると言いますが、追い込まれているのはむしろ私たち(資本主義国家)の生活です。
だったら、和平に動けばいいように思いますが、そんな指導力も判断力も失っているのです。それどころか、ウクライナの玉砕戦にアメリカが同調しており、私たちの生活は、ウクライナとアメリカの戦争遂行の犠牲になっている、と言っていいかもしれません。
■ロシアの敗北はあり得ない
そんな中、アメリカのシンク・タンクのランド・コーポレーションが、「ロシア・ウクライナ戦争に対して、"Avoiding a Long War"と題する」提言を発表したという記事がありました。
21世紀の日本と国際社会 浅井基文Webサイト
ロシア・ウクライナ戦争:「長期戦回避」提言(ランド・コーポレーション)
上記サイトによれば、2023年1月の「提言」は以下のとおりです。
提言①:ロシアは核兵器使用に踏み切る可能性がある。したがって、核兵器使用を未然に防止することがアメリカの至上優先課題(a paramount priority)である。
提言②:局地戦に押さえ込むことが至上課題だが、ロシアがNATO同盟国に攻撃を仕掛ける可能性が出ている。(したがって、局地戦で終わらせることが至上課題となっている。)
提言③:国際秩序の観点から見た場合、ウクライナの領土的支配を2022年12月時点以上に広げることの利益、言い換えれば、ロシアの2022年12月時点での支配ライン維持(を黙認すること)の不利益は自明とは言えない。
提言④:戦争継続によってウクライナはより多くの領土を回復できるかもしれないが、戦争継続がアメリカの利益に及ぼす影響を考慮しなければならない。
提言⑤:ロシア、ウクライナのいずれによる完全勝利もあり得ず、また、平和条約締結による政治的解決はアメリカの利益に合致するが近未来的には非現実的であり、現状維持の休戦協定を当面の着地点とする。
要するに、(当たり前の話ですが)核保有国・ロシアの敗北はあり得ないということです。そういった現状認識のもとに、「長期戦の回避」=「現状維持の休戦」が現実的だと提言しているのでした。もとより、国民生活が疲弊する一方のアメリカやEUは、もうこれ以上ゼレンスキーやバイデンの戦争に付き合う猶予はないはずです。
世界は既に、”第三次世界大戦”の瀬戸際に立っていると言ってもいいかもしれません。ロシアやアメリカの保守派は、ゼレンスキーは”第三次世界大戦”を引き起こそうとしている、と言っていましたが、あながち的外れとは言えないように思います。実際に、失われた領土を取り返すまで「平和はない」、そのために(ロシア本土を攻撃できる)戦闘機を寄越せ、とゼレンスキーの要求はエスカレートする一方なのです。
今の空前の物価高に対して、ヨーロッパをはじめ世界各地で大規模なデモが起きていますが、その元凶がウクライナ戦争にあるという視点を共有できれば、(日本を除いて)世界的な反戦運動に広がる可能性はあるでしょう。アメリカ国民の中でも、バイデンのウクライナ支援に賛成する国民は半分もいないのです。アメリカは一枚岩ではなく、修復できないほど分断しているのです。その分断が、アメリカの凋落をいっそう加速させるのは間違いないでしょう。「戦争反対」が自分たちの生活を守ることになる、という考えが求められているのです。
それは、ウクライナ戦争に限らず、バイデンの新たな(やぶれかぶれの)世界戦略で、大きな負担を強いられつつある対中国の防衛力増強も同じです。アメリカの言うままになると、再び「欲しがりません、勝つまでは」の時代が訪れるでしょう。防衛増税とはそういうことです。立憲や維新は、防衛増税に反対と言っていますが、防衛力の増強そのものに反対しているわけではありません。清和会などと同じように、税金で賄うことに反対しているだけです。もっとも、清話会が主張するように国債を使えば、戦前のように歯止めが利かなくなるでしょう。
■共産党の除名騒ぎ
それにつけても、日本では今の物価高を糾弾する運動がまったくないのはどうしてなのか。左派リベラルも、物価高を賃上げによって克服するという、岸田首相の「新しい資本主義」に同調しているだけです。じゃあ、賃上げに無縁な人々はどうすればいいんだという話でしょう。本来政治が目を向けるべき経済的弱者に対する視点が、まったく欠落しているのです。連合のサザエさんこと芳野友子会長が、自民党の招待に応じて、今月26日の自民党大会に出席する方向だというニュースなどは、もっとも愚劣なかたちでそれを象徴していると言えるでしょう。
しかも、左派リベラルは、立憲民主党や連合がそうやって臆面もなく与党にすり寄っているのを尻目に、「党首公選制」をめぐる日本共産党の除名問題がまるで世界の一大事であるかのように、大騒ぎしているのでした。それも除名された元党員が「編集主幹」を務める出版社から、共産党への提言みたいな本を書いた”マスコミ文化人”たちが中心になって、鉦や太鼓を打ち鳴らしているのでした。本の宣伝のために騒いでいるのではないかとヤユする向きもありますが、そう思われても仕方ない気がします。
一方、除名された元党員も、自分たちの出版社とは別に、先月、文藝春秋社から党を批判する本を出版しているのです。共産党の肩を持つわけではありませんが、何だか最初から周到に準備されていたような気がしないでもありません。本人は否定しているようですが、そのうち『文藝春秋』あたりで共産党批判をくり広げるのが目に見えるようです。除名された元党員は、条件付きながら自衛隊合憲論者のようなので、今の時代はことのほか重宝されセンセーショナルに扱われるでしょう。
今回の除名騒ぎの背景にあるのは、野党共闘です。言うなれば、共産党の野党共闘路線がこのような鬼っ子を生んだとも言えるのです。
とは言え、(曲がりなりにもと言いたいけど)破防法の調査対象団体に指定されている共産党に、「党首公選制」の導入を主張すること自体、今まで一度も共産党に票を投じたこともない私のような”共産党嫌い”の人間から見ても、メチャクチャと言わざるを得ません。共産党の指導部が、「外からの破壊攻撃」と受け止めるのは当然でしょう。共産党の指導部や党員たちは、今回の除名騒ぎに対して、立憲と維新の連携や自民党へのすり寄りに見られるような、議会政治の翼賛体制化と無関係ではないと見ているようですが、一概に「的外れ」「独善的」「開き直り」とは言えないように思います。
「結社の自由」を持ち出して反論していた志位委員長について、「お前が言うか」という気持もありますが、ただ、言っていることは間違ってないのです。「結社の自由」や「思想信条の自由」というのは、結社を作るのも、その結社に加入するのも脱退するのも自由で、その自由が保障されているということであって、それと結社内の論理とは別のものです。結社に内部統制がはたらくのは当然で、「言論の自由」という外の概念が必ずしも十全に保障されないのは、最初から承知のはずです。ましてや、政治的な結社は、綱領に記された特定の政治思想の下に集まった、言うなれば思想的に武装した組織なのです。思想的紐帯に強弱はあるものの、政治結社というのは本来そういうものでしょう。にもかかわらず、政治結社に外の論理である「言論の自由」を持ち込み、それを執拗に求めるのは、別の意図があるのではないかと勘繰られても仕方ないでしょう。
某”マスコミ文化人”は、共産党より自民党の方がむしろ「言論の自由」があると言っていましたが、そんなのは当たり前です。国家権力と表裏の関係にある政権与党と、曲がりなりにも”反国家的団体”と見做されて監視されている政党を同列に論じること自体、メチャクチャと言うか、稚児じみた妄言と言わざるを得ません。
私が日本共産党を描いた小説として真っ先に思い浮かべるのは、井上光晴の『書かれざる一章』です。『書かれざる一章』は、戦前に書かれた小林多喜二の『党生活者』に対する反措定のような小説ですが、第一次戦後派の文学者や知識人たちは、リゴリスティックな”無謬神話”で仮構された日本共産党の唯一絶対的な前衛主義と向き合い、その欺瞞に満ちた党派性を告発したのでした。
今回の除名騒ぎは、そんな問題意識と無縁に生きた”マスコミ文化人”たちが、古い政治に依拠したミエミエの猿芝居を演じているだけです。それに、大衆運動に「限界系」なる排除の論理を持ち込むような人間に、共産党の民主集中制を批判する資格があるのかと言いたいのです。私には、目くそ鼻くそにしか見えません。
(くどいほど何度もくり返しますが)大事なのは右か左かではなく上か下かです。それが益々リアルなものになっているのです。でないと、見えるものも見えなくなるでしょう。