
■栗城劇場
遅ればせながらと言うべきか、河野啓著『デス・ゾーン 栗城史多のエベレスト劇場』(集英社文庫)を読みました。
栗城史多(くりきのぶかず)は、2018年5月21日、8度目のエベレスト登頂に失敗して下山途中に遭難死した「登山家」です。享年35歳でした。しかし、死後も彼を「登山家」と呼ぶことをためらう山岳関係者も多く、彼のエベレスト挑戦は、登攀技術においても、経験値においても、そして基礎的な体力においても「無謀」と言われていました。
最後になった8度目の挑戦も、AbemaTVで生中継されていたのですが、彼のスタイルは、 YouTubeやTwitterを駆使し、また、日本テレビやNHKやYahoo!Japanや AbemaTV などとタイアップした、「栗城劇場」とヤユされるような見世物としての登山でした。それを彼は、「夢の共有」「冒険の共有」と呼んでいました。
■登山ユーチューバーの先駆け
自撮りしながら登る彼の山行は、言うなれば、現在跋扈している登山ユーチューバーの先駆けと言っていいでしょう。
本の中に次のような箇所があります。
栗城さんは山に登る自分の姿を、自ら撮影していた。
山頂まで映した広いフレームの中に、リュックを背負った栗城さんの後ろ姿が入ってくる。ほどよきところで立ち止まった彼は、引き返してカメラと三脚を回収する。
クレバス(氷河の割れ目)に架かったハシゴを渡るときは、カメラをダウンの中に包み込んでレンズを下に向けている。ハシゴの下は深さ数十メートルの雪の谷。そこに「怖ええ!」と叫ぶ栗城さんの声が被さっていく。
ときに登頂に失敗して下山する際の泣き顔まで自分で撮っていたのです。
彼は、「ボクにとって、カメラは登山用具の一つですから」と言っていたそうです。これも今の登山ユーチューバーを彷彿とさせるものがあるように思います。
■単独無酸素
栗城史多は、みずからの目標を『単独無酸素での七大陸最高峰登頂』と掲げていましたし、メディアにおいてもそれを売りにしていました。しかし、七大陸最高峰、つまりセブンサミットの中で、通常酸素ボンベを使用するのはエベレストだけで、あとは誰でも無酸素なのです。そういったハッタリもまた、今の登山ユーチューバーと似ている気がしますが、彼の場合、それが資金集めのセールスポイントになっていたのでした。
「単独」と言っても、ベースキャンプには日本から同行したスタッフや現地で徴用した10数人のシェルパやキッチンスタッフがいました。実際に登山においても、エベレストの案内人であるシェルパたちが陰に陽に彼をサポートしていたのです。それどころか、実際は酸素ボンベを使っていたというシェルパの証言もありました。
2009年9月、栗城は、初めてチョモランマ(エベレストの中国名)の北稜北壁メスナールート(標高8848メートル)に挑戦したのですが、7950メートル地点で体力の限界に達して下山を余儀なくされました。以後、8回挑戦するもののことごとく失敗するのでした。その初めての挑戦の際、当時、北海道のテレビ局のディレクターとして栗城を密着取材していた著者は、次にように書いていました。
この十一年前の一九九八年秋、登山家、戸高雅史さんは、同じグレート・クーロワールを、標高八五〇〇メートル地点まで登っている。シェルパもキッチンスタッフも雇わない、妻と二人だけの遠征だった。戸高さんはこの絶壁をどういうふうに登ったのだろうかと夢想してみたりもした。
《せっかくプロの撮影スタッフが大がかりな機材を携えてここまで登ったのに……なんてもったいないんだ……》とも感じた。
それにしても、頂上までの標高差は一〇〇〇メートルもあった。この差を栗城さんは克服できるのだろうか……?
私には難しいと思えた。
戸高雅史さんは大分県出身の登山家ですが、これを読むと、栗城が言う「単独」が単なるメディア向けのセールトークにすぎなかったことがよくわかるのでした。
エベレストのような“先鋭的な登山”は別にしても、登山というのは、もともと戸高雅史さん夫妻のような孤独な営為ではないか。私などはそう考えるのです。だからこそ、戸高雅史さんのような登山は、凄いなと思うし尊敬するのです。
■登山の評価基準
登山には「でなければならない」という定義などはありません。それぞれが自分のスタイルで登るのが登山です。それが登山の良さでもあるのです。それが、登山がスポーツではあるけれど、他のスポーツとは違う文化的な要素が多分に含まれたスポーツならざるスポーツだと言われるゆえんです。
著者もこう書いていました。
登山は本来、人に見せることを前提としていない。素人が書くのはおこがましいが、山という非日常の世界で繰り広げられる内面的で文学的な営みのようにも感じられる。
一方で、登山も他のスポーツと同じように、「定義」や「基準」が必要ではないかとも書いていまいた。
しかし明快な定義と厳格なルールは必要だと、私は考える。登山はどのスポーツよりも死に至る確率が高い。そのルールが曖昧というのは、競技者(登山者)の命を守るという観点からも疑問がある。また登山界の外にいる人たちに情報を発信する際に、定義という「基準」がなければ、誰のどんな山行が評価に値するのか皆目わからない。
栗城さんがメディアやスポンサー、講演会の聴衆に「単独無酸素」という言葉を流布できたのは、このような登山界の曖昧さにも一因があったように思う。 登山専門誌『山と溪谷』が、栗城さんについて『「単独・無酸素」を強調するが、実際の登山はその言葉に値しないのではないかと思う』とはっきりと批判的に書くのは、二〇一二年になってからだ。
私は、著者の主張には首を捻らざるを得ません。たとえ“先鋭的登山”であっても、登山に評価基準を持ち込むのは本来の登山の精神からは外れているように思います。はっきり言ってそんなのはどうでもいいのです。
■メディアと提携
栗城史多は、北海道の地元の高校を卒業したあと上京し、当時の「NSC(吉本総合芸能学院)東京校」に入学します。「お笑い芸人になりたかった」からです。しかし、半年で中退して北海道に戻ると、1年遅れて大学に入り、そこで(実際は他の大学の山岳部に入部して)登山に出会うのでした。
そして、NSCに入学したときから10年後の2011年、彼は、「よしもとクリエイティブ・エージェンシー(現・吉本興業株式会社)」と業務提携を結ぶことになります。著者は、「ある意味、十代のころの夢を叶えたのだ」と書いていました。
メディアと提携した「栗城劇場」の登山が始まったのは、2007年5月 のヒマラヤ山脈の チョ・オユー(8201メートル)からでした。
日本テレビの動画配信サイト「第2日本テレビ(後の日テレオンデマンド。二〇一九年サービス終了)」と提携して、連日、栗城自身が撮影した動画が同サイトに投稿されたのでした。それを企画したのは、「進め!電波少年」を手掛けた同局の土屋敏男プロデューサーでした。栗城史多には「ニートのアルピニスト」というキャッチコピーが付けられたそうです。
その壮行会の席で目にした次のような場面を、著者は紹介していました。
二〇〇七年四月、栗城さんがチョ・オユーに出発する前日のことだ。東京都内の居酒屋でささやかな壮行会が持たれ、BCのカメラマンとして同行する森下さんも参加していた。
土屋敏男さんともう一人、番組関係者と思われる四十歳前後の男性がそこにいた。栗城さんとはすでに何度か会っているようで親しげな様子だったという。その男性の口からこんな言葉が飛び出した。
「今回は動画の配信だけど、いつか生中継でもやってみたら? 登りながら中継したヤツなんて今までいないよね」
また、2009年からはYahoo!Japanともタッグを組み、同年7月のエベレスト初挑戦の際は、特設サイトが作られて、登山の模様が連日動画で配信され、山頂アタックの際は生中継もされて、パソコンの前の視聴者はハラハラドキドキしながら見入ったのでした。
その際、高度順応するための3週間の間に、栗城自身がカラオケとソーメン流しをして、それをギネスに申請するという企画も行われたそうです。しかし、その「世界最高地点での二つの挑戦」は、「危険を伴う行為なので認定できない」とギネスからは却下されたのだとか。
■「いい奴」と一途な性格
栗城史多は、お笑い芸人を夢見ていたほどなので人懐っこい性格だったようで、彼を知る人たちは、無茶をするけど「いい奴」だったと一様に証言しています。彼自身も、「ボク、わらしべ登山家、なんですよ」と言っていたそうで、そんな性格が人が人を呼んでスポンサーの輪が広がっていったのでした。人の懐に入る才能や営業力は卓越したものがあり、むしろ事業家の方が向いているのではないかという声も多かったそうです。
当時、私は、栗城史多にはまったく関心がなく、Yahoo!の中継も観ていませんが、ただ、彼が亡くなったというニュースだけは覚えています。北海道の時計店を経営しているという父親が、テレビのインタビューに答えて「今までよくがんばった」と言っているのが印象的でした。見ると、父親は身体に障害があるようで、それでよけいその言葉に胸にせまってくるものがありました。
でも、その一方で、父親には、「仰天するエピソードがある」のでした。「温泉を掘り当ててやる」という信念のもとに、店は従業員に任せて自宅の傍を流れる川の岸を16年間一人で掘りつづけて、1994年、ついに源泉を発見したのです。そして、2008年には温泉施設に併設したホテルが建築され、そのオーナーになったそうです。
栗城史多は「尊敬するのは父親です」といつも講演で言っていたそうですが、彼自身もその一途な性格を受け継いでいるのではないかと書いていました。
■「冒険の共有」
しかし、エベレスト挑戦も回を増すと、ネットでは登山家ではなく「下山家」だなどとヤユされるようになり、スポンサーからの資金も思うように集まらなくなって、彼も焦り始めていくのでした。
2012年の挑戦の際には、両手に重度の凍傷を負い、翌年、両手の指9本を第二関節から切断することになったのですが、しかし、その凍傷が横一列に揃えられた不自然なものであったことから、自作自演ではないかという疑惑まで招いてしまうのでした。
2016年には、下記のようにクラウドファンディングで資金を募り、2000万円を集めています。
CAMPFIRE
エベレスト生中継!「冒険の共有」から見えない山を登る全ての人達の支えに。
その中で、栗城は、「冒険の共有」として、次のように呼びかけています。
人は誰もが見えない山を登っています。山とは、自分の中にある夢や目標です。山に大きいも小さいもないように、夢にも大きいも小さいもなく、自分のアイデンティティーそのものです。
その自分の山に向かうことを誰かに伝えると、否定されたり馬鹿にされることもあるかもしれません。しかし、今まで挑戦を通して僕が見てきた世界は、成功も失敗も超えた「信じ合う・応援しあう」世界でした。
今までの海外遠征で僕が一番苦しかったのは、実は2004年に最初に登った北米最高峰マッキンリー(6194m)でした。
「この山を登りたい」と人に伝えると、「お前には無理だよ」と多くの人に否定されました。
そんな時、マッキンリーへ出発する直前に空港で父から電話があり、一言「信じているよ」という言葉をもらいました。その言葉が今も自分の支えになっています。
本当の挑戦は失敗と挫折の連続です。
このエベレスト生中継による『冒険の共有』の真の目的は、失敗も挫折も共有することで、失敗への恐れや否定という社会的マインドを無くして、何かに挑戦する人、挑戦しようとしている人への精神的な支えになることです。そんな想いから、今年も「冒険の共有」を行います。
皆さんと一緒にエベレストを登って行きます。応援よろしくお願いします。
栗城史多
しかし、その挑戦も失敗します。そして、2018年の死に至る8度目の挑戦へと進んでいくのでした。
■死に至る最後の挑戦
それは、追いつめられた末に、みずから死を選んだのだのではないかと言う人もいるくらい、切羽詰まった挑戦でした。 栗城が選択したのは、エベレストの中でも「「『超』の字がつく難関ルート」であるネパール側の南西壁のルートでした。しかも、AbemaTVとの契約があったためか、風邪気味で体調がすぐれない中での山行でした。案の定、標高7400メートル付近に設置したC3のテントで登頂を断念して、その旨BC(ベースキャンプ)に連絡を入れます。それで、ただちにC2に待機していたシェルパが救助に向かったのですが、しかし、栗城はシェルパの到着を待たずに下山をはじめるのでした。そして、途中、ヘッドランプの電池が切れるというアクシデントも重なり、滑落して遺体で発見されるのでした。
栗城の死について、ある支援者は、「淡々とした口調」で、こう言ったそうです。
「死ぬつもりで行ったんじゃないかなあ、彼。失敗して下りてきても、現実問題として行くところはなかった。もぬけの殻になるより、英雄として山に死んだ方がいい、って思ったとしても不思議はないよね。『謎』って終わり方だってあるしね。頂上からの中継はできなかったけど、エベレストに行くまでの過程で十分夢は実現した、と考えたのかもしれないし」
そして、こう「付け加えた」のだそうです。
「戦争で死ぬよりずっといいじゃないの」
著者の河野啓氏は、エベレストを舞台にした「栗城劇場」について、次のように書いていました。
たとえば陸上競技の短距離走で「世界最速」と言えば、誰もが、ジャマイカのウサイン・ボルト選手を思い浮かべるはずだ。しかし「最初に百メートルで九秒台を記録した選手は?」と聞かれて名前が出てくる人は、よほどのマニアだろう。どのスポーツでも記録は上書きされ、「新記録」を樹立した選手に喝采が贈られる。
だが、登山は違う。
山の頂に「初めて」立った人物が、永遠に色褪せない最高の栄誉を手にするのだ。その後は「厳冬期に初めて」とか「難しい〇△ルートで」といった条件付きの栄光になる。
《そんなのイヤだ! 面白くない! 誰もやってないことがあるはずだ!》
その答えとして、栗城さんは山を劇場にすることを思いついた。極地を映した目新しい映像と「七大陸最高峰の単独無酸素登頂」という言葉のマジックで、スポンサーを獲得していく。
登山用具の進歩が一流の技術を持たない小さな登山家をエベレストの舞台に立たせ、テクノロジーの革新が遠く離れた観客と彼とをつなげた。
■見世物の登山
前の記事でも書きましたが、まるで栗城史多の死をきっかけとするかのように、2018年頃からネット上に登山ユーチューバーが登場するのでした。それはさながら、栗城史多のミニチュアのコピーのようです。
ニワカと言ったら叱られるかもしれませんが、彼らは、登攀技術や経験値や体力などそっちのけで、自撮りの登山をどんどんエスカレートしていくのでした。そこにあるのもまた、孤独な営為とは真逆な見世物の登山です。
そして、コロナ禍の苦境もあったとは言え、栗城を批判していた登山家たちまでもが人気ユーチューバーに群がり、まるでおすそ分けにあずかろうとするかのようにヨイショしているのでした。しかも、それは登山家だけではありません。登山雑誌も山小屋も山岳団体も同じです。無定見に栗城を持ち上げた日テレやNHKやYahoo!JapanやAbemaTVなどと同じように、“ミニ栗城”のようなユーチューバーを持ち上げているのでした。
その意味では、(もちろん皮肉ですが)栗城史多の登場は、今日の登山界におけるひとつのエポックメイキングだったと言っていいのかもしれません。
もっとも、その登山ユーチュバーも、僅か数年で大きな曲がり角を迎えているのでした。既にユーチューバーをやめる人間さえ出ていますが、それは栗城史多に限らず、ネットに依存した見世物の登山の宿命と言ってもいいでしょう。詳しくは、下記の関連記事をご参照ください。
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