
(Wikipediaより)
昨日、坂本龍一が3月28日に亡くなっていたというニュースがありました。
3月29日には、彼が明治神宮外苑の再開発の見直しを求める手紙を小池都知事などに送った、という記事があったばかりでした。
東京新聞 TOKYO Web
「ビジョン持ち、政治家選ぶ」 小池知事に手紙の坂本龍一さん
また、共同通信の書面インタビューで、坂本龍一は、「治療で東京での滞在時間が増え自然が広がる懐かしい神宮外苑を訪れては深呼吸し、スマホのカメラを向けることも多々あった」と述懐していたそうです。
しかし、その記事が配信されたのは、死の翌日だったのです。
坂本龍一は、文芸誌『文藝』(河出書房)の名物編集者として知られた坂本一亀の一人息子として生まれ、都立新宿高校で全共闘運動の洗礼を受けたあと、東京芸大に進み、在学中にYMOに参加したのでした。
彼の音楽が世界的に知られるようになったのは、俳優としても出演した1983年の大島渚監督の映画「戦場のメリークリスマス」で音楽を担当したことがきっかけです。
そのあとだったか何かの雑誌で、中上健次と対談をしていて、その中で日本赤軍がアラブに行ったとき、ああ先を越されたな、俺も行きたかったなと思った、というような発言をしていたのが記憶に残っています。
神宮外苑の再開発もそうですが、原発事故をきっかけに反原発運動などにもコミットしてきたのも、そういったナイーブな感性をずっと持ち続けていたからではないかと思います。
他人から見ればどうでもいいことのように思うかもしれませんが、たとえ立身栄達しても、絶対に譲れない一線というのがあったはずです。もちろん、一方でどこか生きづらさのようなものを抱えていたということもあるでしょう。
末期の癌を抱え、死の間際にあっても尚、神宮外苑の樹木の伐採問題に心を寄せる気持も、そんな絶対に譲れない一線があったからでしょう。
前に高校時代の同級生から、同級生の女の子が癌で亡くなったという手紙が来たことがありました。その中で、亡くなるひと月前だったかに、上野の美術館で開催されている美術展を観たいというので、病院から外出許可を貰った彼女を同級生たちがサポートして一緒に行ったのが思い出です、と書いていました。
死はたしかに孤独と虚無だけど、だからこそと言うべきか、そういった気持があるのとないのとでは大きく違うように思うのです。
野生動物は死を察知すると、群れから離れてひとりで死を迎えると言われます。昔、外で放し飼いしていた頃の犬もそうでした。私も誰にも知られずにひとりで死を迎えるのが理想です。そのためには、自分の言葉で語ることができる人生観や死生観を持つことが大事だと思うのです。柳田国男は、それを「物語」と言ったのでした。